第2話 狩人の儀式
――春。
雪はまだ深く積もっているが、森の空気はわずかに柔らぎ始めていた。
氷の層を透かして水が光り、枝先からひと滴、またひと滴と雫が落ちる。
村の子どもたちは厚い毛皮を脱ぎ、簡素な外套へ着替え、外を駆け回る。
大人たちは雪畑に残る木片を集め、破れた柵の修繕に取りかかっている。
フレアは村の高台から広がる森を見下ろし、ひゅう、と吹き上げる風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……春の匂いだ」
息を吐きながら小さく笑う。
胸の奥に、旅立ち前の熱が宿った。
十六歳になった今年、フレアは記録官の入門試験を受けるため村を出る。
その日程はすでに決まっていた。
《記録官 春灯配給 七日後》
掲示板には村長の丸い字でそう書かれている。
配給の日――
記録官たちが荷車を引いて来て、ティノ村は“その冬を生き抜くために得たもの”を差し出す。
干し肉の束。
狩りで得た骨や革。
村の女性たちが縫い上げた毛皮の外套。
記録官たちはその品を検め、
その価値に応じて、灯の量を調整する。
――そしてフレアはその荷車に乗り、村を離れ塔へ向かうのだ。
だが今日、フレアは村を静かに抜けた。
弓と矢筒と狩衣を身につけて。
腰帯を締め、ピッケルを差し、毛皮の肩掛けの端を押さえ、母にいつも通り声をかけた。
「行ってきます!
今日の獲物は……まあ、お楽しみってことで!」
母ミナは布団を干しながら振り返り、微笑んだ。
「気をつけてね、フレア」
と軽く手を振って。
いつもと同じ、何も特別ではないやり取り。
だが、フレアは森へは向かわない。
誰も知らないような横道に足を向けた。
行き先は、村の北にそびえる険しい山――
山の名は特にないが、
その断崖に住む存在には名がある。
カムナ=トゥチカ。
翼を持ち、寒風を切り裂き、
春に一度だけ卵を残し、どこかへ去る。
カムナは神。トゥチカは怪鳥を意味する。
本当の目的は、村のためにその「卵」を取ってくること。しかし、それ以上にフレアの胸は高鳴っていた。
村ではすでに廃れた風習がある。
かつて狩人の若者は、
この山で”カムナ=トゥチカの卵”を手にした者だけが一人前として認められた――という古い儀式。
今は危険すぎるため、誰も続けていない。
記録官による灯の配給が定期化され、
命をかけて卵を取りに行く必要がなくなったからだ。
(この希少な卵を配給の日に差し出せば……
村はもう少し灯を与えてもらえるかもしれない)
それはフレアにとって単なる腕試しではない。
この村を支えてきた狩人としての“最後の責任”でもあった。
(卵が取れたら……村のみんなが喜んでくれる。
……絶対成功させる!)
――
山道を登ってしばらくすると、フレアはすぐに“それ”を見つけた。
風に晒され、色が抜けきった布切れ。
裂けた木の竿に結ばれて、ひらりとはためいている。
「……旗、だよね? 昔の狩りの儀式で目印に使ったやつ……これのこと?」
指先でつまんだ布は粉のように崩れた。
木の竿もひび割れ、触れると軋む。
「お父さんの若い頃でも……もう行われてなかったって言ってたな」
さらに奥へ進むと、岩壁に沿って古いロープが残っていた。
雪と風に削られ、繊維は砂のようにほつれている。
その先に――
谷を跨ぐ吊り橋があった。
板は欠け、半分以上が抜け落ち、
金属の鎖だけが頼りなく風に揺れている。
フレアは立ち止まり、無言で見つめた。
「これも……昔の狩人たちの道なんだ」
谷の底は暗く沈み込んでいる。
冷たい風が吹き上がり、鎖をかつん、と鳴らした。
「村、どうしてこの伝統やめちゃったんだろう……」
ぽつりと言ったあと、
もう一度吊り橋を見直す。
「……まあ、見たら分かるよね」
昔の狩人たちはこれを渡り、崖の上の巣に挑んだのだ。
「勇気っていうか……無茶だよね。すごいな、本当に」
その言葉の端に、小さな憧れが滲んでいた。
フレアは手を握り直し、吊り橋に足を乗せた。
――ミシ……
足板がかすかに沈む。
息を飲む。
「……行ける。だって私も狩人の娘だし……」
強い風が吹き、背中の毛皮が揺れた。
少しずつ、慎重に進む。
谷の底に冷たい空気が渦巻き、
揺れる鎖が規則もなく震えた。
「怖くないわけじゃない……けど……」
吐息が白く散る。
「トゥチカに突っ込むよりマシじゃん」
強がり混じりのひとりごと。
足板が割れそうな音を立てながら、橋の中央へ差し掛かったとき――
――ミシ……ミシミシ……
「……え? ちょ、やだ……これ絶対イヤなやつでしょ……」
ミシミシミシ……!
「やめて。本気のやつじゃんそれ!!」
笑えない汗が背中を伝う。
次の瞬間――
バキッ!!
世界が傾いた。
「わあああああっ!?!? ちょっ、まって無理無理無理無理!!」
足元が一気に崩れ落ち、
視界が天地ごとひっくり返り、
白い雪と黒い谷底がぐるりと回転する。
冷たい空気が頬を叩き、風が耳を裂く。
胃が喉まで跳ね上がる。
心臓が一拍抜けた。
「うそでしょおおおお!? 落ちるってば!!」
谷底が迫る。
反射で伸ばした手が、かろうじて残ったロープに触れ――掴んだ。
「つ、掴んだ!!うそ……あっ痛っ!!肩!
肩持っていかれる!!」
全体重が片腕にのしかかり、
腕の筋がぎしぎしと悲鳴を上げる。
ロープが大きくしなった。
フレアの身体は、振り子のように横へ大きく振られる。
「やだやだやだ!! 揺れなくていいから!!」
――ブンッ!!
歯を食いしばり、勢いのまま反対側の岩壁へ――
――ゴッ!!
「ッッ……っつ~!!
絶対アザになった……これ……!!」
肺の空気が全部抜け、
視界が白く点滅する。
背後では――
吊り橋が全部崩れ落ちていく音がした。
ガラガラガラァァァァァ!!!!
飛び散る木片と砂埃が、山風に乗って押し寄せる。
フレアは歯を食いしばりながらロープにしがみついた。
「……っは……はぁ……まだ……生きてる……」
指が震え、肩も悲鳴を上げている。
だが、フレアは無理やり笑おうとした。
「はは……今日の運……これで全部使ったね私……」
揺れるロープにしがみついたまま、
フレアは谷底を見下ろし、
「……絶対、帰りは別ルートで帰る……!」
とだけつぶやき、
痺れる指をもう一度握り直した。
――
霧が濃くなるほど、風は鋭く冷たくなった。
谷を越え、さらに高い断崖へとフレアは挑む。
狩衣の腰からピッケルを抜き、雪と氷に覆われた岩肌へ突き刺した。
――ガンッ。
乾いた音が霧に吸い込まれ、
霧の水気が、剥き出しの岩の上で瞬時に霜へ変わる。
「……っ、よし」
両足を岩に押し当て、体を持ち上げる。
指先は冷えで痺れ、
呼吸は薄く震えながら白い蒸気を吐く。
「……下とは違う……寒さが刺さる……」
ピッケルを抜き、
さらに上へ――
――ガッ。
岩を削る音とともに、支えが生まれる。
背中の毛皮を風が叩く。
視界は霧に埋もれ、天地も境界もわからない。
それでも手を伸ばし――
指先が、断崖の縁に触れた。
「……っ、あと……少し!」
爪に力が入り、腕が震える。
フレアは歯を食いしばり、全身で踏ん張り――
ぐい、と身を引き上げた。
――ガッ。
ピッケルの刃が岩を掴み、体が大地に乗る。
「……はぁっ……はぁっ……着いたッ……!!」
膝をつき、しばらく息を整える。
氷混じりの風が頬を刺し、
髪の先だけが照らすように揺れた。
立ち上がり、景色を見渡す。
だが、何も見えない。
黒い雲が低く垂れ込み、
風が渦を巻いて雪煙を巻き上げている。
白い霧は濃く、
数歩先さえ霞んで消える。
「……上まで来たのに、見えるのは霧ばっかり」
言い伝えによれば、この先に――
カムナ=トゥチカの巣がある。
フレアの瞳が細く光った。
反対側の断崖の縁に立った瞬間、
その足が止まる。
「……あった」
谷の向こうに突き出た岩棚。
そこに、藁とも羽毛とも判別のつかない素材が円を描き、うず高く積まれている。
それは、巣だった。
「ほんとに……あったんだ……カムナ=トゥチカの巣」
目を凝らす。
巣の中央に、白く淡く光を吸うような、
手のひらほどの卵が一つ――ぽつんと置かれている。
「これが……卵……」
その瞬間、胸の鼓動が速まった。
――子どもの頃から聞いてきた話
――誰も挑まなくなった狩人の儀式
――父さえ達成できなかったもの
フレアは息を吸い込み、
断崖にピッケルを打ち込んだ。
――カンッ。
膝を落とし、慎重に降りる。
やがて足先が岩棚へ触れた。
「……よし」
巣は近くで見ると、想像以上に大きく、
羽毛と枯れ枝、薄い皮膜のような素材が混ざり合って形作られている。
中央にある卵。
両手に収まるほど小さい。
しかし、その表面には薄い紋様のような筋が浮き、
わずかに温かい。
「かわいい……」
思わず笑った。
両手で持ち上げた瞬間――
ひやりとした風が止まり、
世界が静かになった。
「……?」
ほんの一秒――
次の瞬間。
――バッ……!
空気が裂けた。
羽ばたく風圧が石肌を叩くほどの強さで吹き付ける。
「……来た」
背筋が凍る。
霧の向こうで巨大な影が揺れ――
翼が広がり――
空が暗くなった。
――ギャアアアッ!!
喉を裂くような叫び声とも鳴き声ともつかぬ音が響く。
「……親鳥……!」
風で髪が乱れ、肩が押される。
巨大な影が霧を裂いて迫ってくる。
風を切る音は鋭い刃のようだ。
フレアは本能で身を伏せた。
――ザッ。
黒く伸びた影が、彼女の頭上すれすれを通り抜ける。
その風圧は地面に押し付けるほど強く、
束ねた赤い髪がふわりと浮き、
掠めた爪先に切られた数本がひらりと舞った。
「……っぶなっ!今、ほんとに掠ったってば……!」
肩に雪が崩れ落ちる。
フレアは慌てて払い落とし、息をひとつ整える。
まだ鼓動が速い――けれど、迷いはない。
フレアは狩衣の袖から布を取り出し、素早く卵を包む。背中へ回し、腰帯の金具に通して、さらに肩紐を引き締めた。
ぐっ、と布地が食い込み、卵が背中へ安定した重みになる。
「ごめん……本当にごめん。でも……私は村にこの卵を持ち帰らないといけないから……!!」
深く息を吸う。
身軽になった両手で岩棚に手を伸ばし探ると、
岩壁の窪みに、さっきと同じ、色の抜けた布切れがひっかかっていた。
風にほつれ、雪に埋もれ──
それでも、確かにそれは旗の断片。
「……これ、行きに見た旗と同じ……」
さらに先にも裂けた羽織布。
またひとつ先の岩の突起にも、
布が細く結ばれている。
その旗の印は間隔は粗いが、
岩肌をなぞるように、わずかな道の痕跡が横へ下っていく。
「……辿って帰れってことか。
助かる……。昔の人たち、本当にすごい……」
足幅ひとつぶん。
いや、半足分のところもある。
綱渡りのような下山経路。
それでも、確かに続いている。
フレアは背中に卵を抱いたまま岩壁へ身を押しつける。
見上げる視界は白く、再び風が鳴る。
翼を広げた怪鳥の影が見えた瞬間、
自分自身に言い聞かせるように叫んだ。
「絶対落ちないからねぇぇぇぇええええ!!!」
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