灯の断章 〜赤い髪のフレア〜
ショパン
第1話 十六歳
深い森だった。
背の高い針葉樹が何十本も連なり、
雪の重みで枝が垂れ下がり、
白い天井のように空を覆っている。
光はほとんど差し込まない。
わずかな曇り空の切れ間からこぼれる日差しが、霧のような冷気の中で細い光柱となって揺れている。
息を吸うと、胸の奥が痛いほど冷たい。
足元の雪を踏むたび――
ザクッ、ザクッ。
その音だけが静寂の森に刻まれていた。
――その奥へ。
腰に吊るしたランタンの灯を揺らし、少女は走っていた。
赤いポニーテールが跳ね、背中の弓が上下に揺れる。
濃い藍の狩衣の上に羽織った厚手のショールが風を切るたび、
白い刺し縫い模様がきらりと光を返す。
裾の毛皮が細かく震え、布に縫い込まれた小さな鈴が微かに鳴った。
少女の名はフレア。
足音は雪に吸われるが、
胸の高鳴りと、血の循環だけがやけに鮮明だった。
「ん……空気冷たい……。
嫌な感じだなぁ、こういうとき絶対なんか出るのよね……」
その瞬間。
――ドン……ッ。
足裏から震動が伝わった。
その気配に彼女の赤い髪が逆立つ。
眉がわずかに動いた。
「……来る」
次の鼓動と同時に。
――ガッシャァアアッ!!
藪と雪が一気に弾け飛んだ。
黒い巨体が、突風のような勢いで飛び出してくる。
「うわっ……! やっぱり!!」
腹を空かせ、血走った双眸。
丸太のような脚。
雪を押し割って進む鉄塊の突進。
フレアは反射で走り出していた。
「ちょ、ちょ、近い近い!!
朝ごはんちょっとしか食べてないのに、こんなの無理無理無理!!」
湿った雪が四方に弾け、
冷気が頬を切り裂くように当たる。
「うわっ……! ここで転んだら絶対終わるやつでしょ!!」
猪が迫る。
地響きがリズムのように追いかけてくる。
――ズドンッ、ズドンッ、ズドンッ!!
「まっすぐ一直線……そのやる気は嫌いじゃないけどさッ!」
フレアは走りながら、
左手で矢筒の中の一本を指でつまむ。
滑らせる。
抜く。
つがえる。
その動作が一瞬、時間の流れから切り取られたみたいに滑らかだった。
「よし……!」
フレアは雪を蹴り、凍った倒木を踏み台にして跳んだ。
「ほっ!!」
軽い体がふわりと浮き、
猪はその真下を突き抜け、雪と氷をぶちまける。
――ブオォォォォッ!!
その瞬間、フレアは空中で体をひねり、
猪の尻めがけて矢を放った。
――ビシュッ!!!
矢が深く突き刺さる。
「よし――って、着地が……!」
――ズルッ。
凍った根で足を取られた。
「わわっ!?」
フレアは転がり、雪煙を巻き上げる。
猪は怒号のような雄叫びを上げ、振り返った。
その目は、怒りに血走っている。
「やばいやばいやばい!!」
突進。
――ドガァァン!!
雪が爆ぜる。
猪の牙が大地を抉り、氷の欠片が飛び散る。
フレアはギリギリで横へ転がり込み、雪の上を滑るようにして、その突進をかわした。
「ちょっ……え!?
いま当たってたら死んでたよね!?!?」
息をするたび肺が焼けるほど冷たい。
だが視界は研ぎ澄まされていた。
猪は大きく旋回し、次の突進態勢に入っていた。
「っ……来る!!」
フレアは一歩、二歩と後ろへ跳ねて距離を取り、
すぐさま横へ走り込んだ。
「……はいはい、こっちだよ!」
走りながら弓を引き絞り、
氷の照り返しを利用して素早く射線を合わせる。
――ビュンッ!!
矢が肩へ深々と刺さる。
それでも、巨体は止まらず、フレアめがけて軌道を逸らす。
「え……止まらないの!? タフだなぁ……!」
フレアは近くの木へ跳びつき、幹を蹴って反動をつけ、片手で高い枝を掴んだ。
「よっと!」
枝がしなり、猪の突進がすぐ下を駆け抜ける。
そのまま体を振り、フレアは雪上へ飛び降りた。
着地と同時に三本目の矢をつがえる。
「どれ……これ! これなら……!」
追いすがる猪が、痛みで一瞬ふらつく。
「そこ……ッ! 動くなぁッ!!」
――ドンッ!!
額の隙間へ、一直線。
矢が深く刺さり、突進が止まった。
巨体が雪を押し潰しながら倒れ込む。
白い世界に、血が静かに滲んだ。
フレアは大きく息を吐き、弓を下げる。
巨体は倒れたまま、
ときどき脚がびくりと痙攣し、雪を掻くようにもがいていた。
もう立ち上がる力はないはずなのに、命の火はまだ残っている。
フレアは腰のナイフに手をかけた。
「……もう苦しまなくていいよ」
猪の前足の付け根、
胸の真上――鎖骨と胸骨の境目。
そこは皮が薄く、心臓までまっすぐ刃が届く位置。
フレアは猪の肩に膝を乗せ、体重を預けて動きを封じると、ナイフを一度だけ、深くまっすぐ突き入れた。
――ドクッ。
刃が届いた瞬間、
猪の身体はわずかに震え、すぐに静まった。
「……ありがとう。あなたの命に……感謝を……」
フレアは刃を引き抜き、
そのまま喉元を一息で切り裂くと、濃い血が雪へ広がった。
血で濡れた雪の上にそっと膝をつく。
「……はぁ……っ、あっぶな……。
ほんと今日の森、絶対良くない日だったよ……
でも……」
頬にかかった赤い髪を払う。
吐く息が白く濃い。
遠くで鳥が鳴き、
森は再び静けさを取り戻した。
フレアは軽く笑う。
「……まあ、こういうのも……悪くないよね。
ちょっと……気持ちよかった」
森の冷気が、彼女の汗を優しく冷やした。
「寒っ……」
――
世界の中央には、一本の塔が立っていた。
《記録の塔》――そこでは記録官と呼ばれる役人たちが灯の分配を決めている。
灯は、この世界の生命そのものだった。
畑を実らせ、闇を照らし、病を退け、人の心を支える力。
塔は灯の管理と同時に、支配の象徴だった。
そんな塔からは遠く離れた北東部。
険しい山脈と深い森、雪に閉ざされた小さな集落――ティノ村。
ここは狩猟民の村で、灯もわずか。
冬のあいだはほとんど外の世界と行き来もなく、
雪と寒さに耐えながら、互いに身を寄せ合って暮らしている。
村の入り口では、太い棒に吊るされた巨大な猪の死骸を、数名の男たちが肩に担いで運んでいた。
吐く息は白く、頬は赤く、鼻の頭まで真っ赤に凍えている。
「うおお……こりゃ立派な猪だぁ!」
「フレアちゃん、よく一人でこんなの倒したな……!」
「よし、これから俺らで解体するぞ!
明日はちょうどフレアちゃんの十六の誕生日だろ?
村総出でうまいもん食わせてやるさ!」
男たちは汗をぬぐいながら笑い、
フレアの肩を叩いたり、感謝の声を口々に上げる。
フレアは、ぽりぽりと後頭部を掻きながら
少し頬を赤くした。
「え、えへへ……そんな大したことじゃないよ。
運が良かっただけ。
明日のご馳走、期待しとくね!」
「よ! ティノ村いちの猟の達人!」
「フレアちゃんはティノ村の誇りだな!」
男たちの弾んだ声が、雪明かりの灯に照らされた村に響いた。
フレアはその勢いに押されながらも、
どうしようもなく嬉しくなって、小さく笑った。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
――塔の支配がどれほど厳しくても。
――灯がどれほど少なくても。
この村は、生きようとしている。
凍てつく冬を、仲間とともに、わずかな灯で支え合っている。
フレアはふっと目を細め、空を見上げた。
木々と屋根の向こう、
雪雲の切れ間から、そびえる塔の青白い光がかすかに覗く。
その光景に、彼女の胸がそっと熱を帯びた。
「……やっと、か」
呟きは誰にも聞こえないほど小さかった。
フレアは両手を握りしめる。
「明日、私は……十六歳になる!」
記録官を目指す資格を得る歳。
雪が溶け、道が開ける、春になったら――
村を出て、塔の入門試験を受けられる歳。
村に留まる者も多い。
狩りを続け、家族を持ち、普通に生きていく道もある。
――でも、私はあそこに行くことを定められている。
木造の小さな小屋。
外壁は薄い板を何枚も重ねて作られ、
ところどころつぎはぎが打ち付けられている。
屋根には雪が厚く積もり、窓の隙間からかすかに冷気が入り込んでいる。
壁には弓や革製の狩猟道具が整然と並んでいた。
木の扉を開けた瞬間、
ふわりと温かい空気が頬を撫でた。
外気で強張っていた指先が、じんわりと痛いほどに解けていく。
「ただいま──!」
フレアはそう言うと、腰からそっとランタンを外し、土間の灯棚(ひだな)へ丁寧に置いた。
小さな灯は揺らがず、今日の帰還を静かに祝福しているようだった。
「……今日もありがとうございます。無事に帰れました」
フレアは両手でランタンの灯をそっと拝み、
指先で優しく縁を撫でる。
その動きを見計らったように、
布の仕切りをめくって奥から母のミナが顔を出す。
「おかえり、フレア。
猪、すごかったんですってね」
ミナは靴を履き、竈門の前に立ち、
野菜を煮込んだ鍋をゆっくり木じゃくしで混ぜていた。
薪の火がぱちぱちと上がり、
室内に橙色の明かりと、やわらかな熱を揺らしている。
フレアはミナの隣へ駆け寄った。
「うん、なんか……もう村の人たちに、
明日は“ごちそう作るから覚悟しとけ!”って言われちゃって」
「ふふ、それはよかったじゃない。
明日でフレアも十六歳だもの、祝われるのは当然よ」
ミナは柔らかく笑い、
鍋の湯気をフレアの前へ押し出すように
しゃもじをひょいと持ち上げた。
「猪のほうは明日みんなでやるんでしょう?
今日は軽いスープにしておいたわ。味見してみる?」
フレアはぱくりと口に入れ、肩を落とす。
「……お母さん、これでも十分うまいんだけど」
「明日はもっとおいしいものが食べられるんでしょ?
いいじゃない」
「うん、楽しみ!」
フレアがほっと息をつくと、
仕切り布の奥から父ガロンの声がした。
「戻ったか。フレア。……少しこっちへ来なさい」
フレアは思わず背筋を伸ばし、
ミナと視線を交わす。
「行ってあげて。きっと……ちゃんと話しておきたいんでしょうね」
フレアはうなずき、
靴を脱いで板の間に上がる。
――しゅる。
フレアは仕切り布の端をそっと押し分け、
奥の居間へ入る。
小さな空間に、干し草と干し肉、
冬を越すために蓄えた保存食の匂いが漂っていた。
その中央で父は床に正座し、娘をじっと見ていた。
その眼差しは厳しく――
だがどこか、誇らしさが混じっていた。
「座れ、フレア」
フレアは尻を落ち着け、
父と向かい合う形で座った。
ガロンはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「明日でお前もついに十六歳。
雪が溶けて道が通じる頃には、記録の塔で記録官になるための試験が控えている」
フレアはこくりとうなずく。
ガロンは続けた。
「いいか、フレア。記録官になれば――
お前も、ティノ村も、冬ごとに灯に怯える暮らしとは無縁になる」
その言葉は、北東部の狩猟民が
長い冬のあいだ抱き続けてきた願いの結晶だった。
「わかってるよ。だから、頑張る」
フレアに続くように、
ミナが布の向こうから優しく声をかけた。
「あなたは物覚えも早いし、弓も強い。
それに、生き抜く勘は私たちよりずっと鋭いわ。
……迷う理由なんて、ないでしょう?」
「うん。迷ってないよ。
わたし、ずっと──塔に行くって決めてたもの」
ガロンは満足げにうなずく。
「そうだ。それが一番いい。
村の誰もがお前に期待している。
だが、それは重荷じゃない。
……ただ、“お前なら道を切り開ける”と信じているだけだ」
フレアは父と母の顔を順に見つめた。
「……大丈夫。
ちゃんと合格するから。
記録官になって、もっと色んな世界も見たいし」
ミナは湯気の上がる皿をフレアの前へ置いた。
「その意気よ。
フレア、あなたには……ここだけに収まるには、もったいない力があるんだから」
頬がじんと熱くなる。
「二人とも……ありがとう。
……うん、絶対、受かるよ」
家族はそれ以上何も言わず、温かい夕食の匂いが部屋に満ちていった。
家族にとって「記録官になる」は不動の未来。
春にはこの家を出る。
そのことを思うと、フレアは胸を締め付けられた。
それでも同じくらい、強くうれしかった。
雪深い冬の静けさの中、
薪の火がぱちりと弾ける。
翌日、フレアは晴れて十六歳となった。
彼女の人生は、静かに動き始めようとしていた。
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