「0」
ふと、フィンは目を覚ました。
最初に感じたのは、鈍い頭痛だった。
こめかみの奥がズキズキと脈打ち、先ほどの出来事が夢だったのではないか、という考えが一瞬よぎる。
だが――
腹に手を当てて、指が止まった。
傷が、ない。
服をめくる。
血の跡も、裂けた痕も、痛みさえも残っていなかった。
確かに、あの時は――剣を落とし、倒れ、もう立てなかったはずなのに。
「……幻覚?」
そう呟いてみるが、声は妙に現実感があった。
周囲を見回す。
木々の配置、湿った土の感触、踏み荒らされた獣道。
全て、記憶と一致している。
そして、少し離れた場所。
倒れ伏したまま、動かないヘルハウンドの死骸があった。
「……倒した、のか?」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
剣を探し、拾い上げる。
刃には乾いた血がこびりついていた。
魔物のものか、それとも――自分のものか。
思い出そうとすると、記憶がそこで途切れる。
逃げた覚えはない。
勝った覚えもない。
ただ、最後に――
声が、した。
「……やっと、0になりましたのね」
背筋が、ひやりと冷えた。
確かに聞いた。
夢ではない。幻でもない。
あの場に、“誰か”がいた。
周囲を見渡すが、林の中に人影はない。
風が枝を揺らす音だけが、やけに大きく響く。
「……気のせい、か」
そう言ってみる。
言葉にすれば、現実になる気がした。
だが、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
立ち上がる。
体は、驚くほど軽い。
剣を構え、軽く素振りをしてみる。
いつもと同じ動き――のはずなのに、刃の軌道がぶれない。
「……あれ?」
偶然だ。
たまたま調子がいいだけだ。
自分にそう言い聞かせ、フィンは剣を収めた。
冒険者は、考えすぎるとろくなことにならない。
生きて帰れたなら、それでいい。
そういう生き方を、彼は選んできた。
林を抜け、街道へ戻る。
朝の光が差し込み、世界は何事もなかったかのように動いていた。
太陽は沈み、コオロギは鳴き、行商人は歩いている。
――世界は、いつも通りだ。
変わったのは、きっと自分の気のせい。
そう結論づけようとした、その時。
すれ違った冒険者が、足を止めた。
「なあ……」
声をかけられ、フィンは振り返る。
「おまえ、目……どうしたんだ?」
「え?」
問い返しながら、思わず目元に触れる。
だが、何も分からない。
痛みも、異常も感じない。
「いや……なんでもないならいいんだ」
冒険者は首を傾げながら、そのまま去っていった。
取り残されたフィンは、しばらく立ち尽くす。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
――気のせいじゃない。
そう、直感だけが告げていた。
だがまだ、彼は知らない。
自分が「0」になったことの意味を。
そして、あの声の主が、どこから見ているのかを。
この世界が、彼を数え直し始めたことを。
世界の計算に入っていない俺と、混沌の厄災 K. Alder @BotBreaker105
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