名付け親
「……大丈夫ですか?」
背後から、少女の声。
〇〇は鏡の前で固まったまま、ゆっくり振り返った。
少女は布団を胸の前で押さえ、頬を赤くしたまま立っていた。
蝋燭の明かりが揺れ、桃色の髪が淡く光る。
「その……顔色が……」
「……大丈夫じゃない」
〇〇は自分の頬に触れた。冷たい。
胸の奥だけが熱い。
「俺、変わってる」
「え?」
〇〇は鏡を指さす。
「これ……俺?」
少女は鏡を覗き込み、目を丸くした。
「……はい。あなたです」
「即答すんなよ……」
〇〇は短く息を吐き、壁にもたれた。
「俺の顔、思い出せない。元の顔が、ぼやけてる」
少女の表情が、ほんの少し硬くなる。
「名前は……?」
「……それも」
〇〇は言い切って、喉を鳴らした。
「過去のことは薄くあるんだ。……カイシャ、とか。デンシャ、とか。夜の交差点、とか」
少女は眉を寄せ、首を傾げた。
「……その、“カイシャ”と“デンシャ”とは、なんですか?」
「え」
「え?」
二人の「え」が重なる。
〇〇は口を開けたまま固まった。
説明しようとすると、言葉が空中でほどける。
「……いや、えっと……人が……働く……場所?」
「働く場所……?」
「移動する……箱……?」
「箱……?」
少女はますます真剣な顔になった。
「……異国の言葉ですか?」
「……たぶん、そう」
〇〇は自分でもよくわからないまま頷いた。
少女は小さく息を呑み、鏡の少年を改めて見た。
黒髪。鋭い目。寝癖。
その瞬間――少女の顔が、ぱっと明るくなる。
「……あっ」
「な、なに」
少女は布団を押さえたまま、身を乗り出した。
目がきらきらしている。
「似てます!」
「は?」
「あなた、アストンに!」
「……アストン?」
少女は待ってましたと言わんばかりに頷く。
「アストンはですね、黒いモフモフの毛で! 目つきがちょっと鋭いんですけど! 全然こわくなくて!」
勢いがすごい。
「むしろ可愛くて! もふもふで! ころんとしてて! こう、ちょっと針っぽい毛が混じってるんですけど、それがまた……!」
少女は両手を胸の前で握りしめ、声を弾ませた。
「魔物……いえ、魔生物の一種なんです。危害はありません。人に懐きます。人気で……ペットにしてる人も多いんですよ!」
〇〇は、理解が追いつかない。
「魔物……ペット……?」
「はいっ!」
少女は嬉しそうに大きく頷く。
「夜の森で見つけたら、みんな一回立ち止まっちゃうくらい可愛いです。ふわふわで、目がきゅってしてて……」
語彙が急に増えた。
さっきまでの震えが嘘みたいに、声が明るい。
可愛いものの話題になるとスイッチが入るタイプらしい。
「……で」
〇〇は話を戻そうとする。
「それと俺が、どう似てるの」
少女は鏡を指さした。
「黒い髪! ちょっと鋭い目! それに……寝癖!」
「寝癖は関係なくない?」
「あります!」
即答。
「アストンも、寝起きは毛が跳ねるんです! ……たぶん!」
「たぶん!?」
少女は咳払いして、少し真面目な顔に戻した。
「……それで、呼ぶときの名前です」
「そう、それ」
〇〇は額を押さえた。
「救世主様はやめてほしい。俺、何も覚えてないし」
「……わかりました」
少女は頷き、それから、また目をきらきらさせる。
「じゃあ……」
少し間を置いて、嬉しそうに言った。
「“アス”はどうですか?」
「アス?」
「はい! アストンの“アス”!」
少女は胸を張る。
「呼びやすいですし、可愛いですし……その……あなた、守ってくれたし」
最後だけ、小声になる。
〇〇――いや、まだ名前のない少年は、鏡を見た。
知らない顔。
知らない名前。
でも、誰かに呼ばれるための音は必要だ。
「……アス」
口に出すと、思ったより馴染んだ。
少女はぱっと笑う。
「はい! アス!」
その笑顔に、胸の奥がまたむずっとする。
理由は、まだ言葉にならない。
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