出会い
硬い匂いがした。
木と、古い布と、乾いた埃。それから、ほんの少しの焦げ。
〇〇は、ゆっくり目を開けた。
視界がぼやけている。
天井の板が、薄暗い。梁が見える。
どこかの古い木造家屋――そんな印象だけが先に入ってくる。
体の下は、柔らかい。
藁のような詰め物が沈み、背中を支えている。
ベッドだ。
息を吸うと、喉の奥がわずかに熱い。
けれど痛みは強くない。
目を瞬く。
焦点がゆっくり合って――
視界の端に、淡い色が映った。
桃色。
髪だ。
揺れもしないのに、光を含んで見える。
まるで、春先の桜の花びらを束ねて、そのまま髪にしたみたいだった。
〇〇は、ぼんやりと感心した。
……桜。
その単語が頭に浮かんだ途端、
記憶が勝手に別の方向へ滑る。
花見。
日本の春。
河川敷の青いシート。
缶ビール。
笑い声。
――そういえば。
学生時代、サークルにも入らず、
授業とバイトと、漫画と、寝ることだけで過ぎていった。
イベントも、青春っぽいことも、
何ひとつ自分から掴みにいかなかった。
彼女だって、一度もできなかった。
……せめて死ぬ前に、
誰かと花見デートくらい、してみたかったな。
そこで、〇〇の意識が跳ねた。
死ぬ前?
花見?
何を――
視界が一気にクリアになる。
〇〇は、ゆっくり首を動かした。
ベッドの中。
同じ布団。
桃色の髪の持ち主が――
隣で眠っていた。
「……え?」
声が掠れて、やっと出た。
少女だ。
森で泣いていた、あの少女。
近い。
近すぎる。
布団の中で、肩と肩が触れそうな距離。
頬に落ちた髪が、こちらの腕にかかっている。
〇〇は息を止める。
彼女の衣服は、ところどころ焦げて破れ、
ベッド脇に掛けられていた。
布の端が裂け、焼け跡が不規則に残っている。
そして少女自身は――
薄い肌着だけだった。
部屋の隅に立てられた蝋燭が、ちろちろと揺れている。
その明かりが、少女の肌を柔らかく照らし、
鎖骨から胸元にかけて、淡い影を落としていた。
〇〇の喉が鳴った。
心臓が、胸の内側を叩く。
早い。速すぎる。
手のひらが湿る。
背中にも、首筋にも、汗が噴き出す。
(やばい……!)
(いや、助けた…助けたんだよな? 俺……?)
(ていうか俺、服……)
思考が絡まり、どこにも着地しない。
〇〇が身じろぎした瞬間、
布団がわずかに揺れた。
少女が、寝返りを打つ。
ゆっくり、こちらに向き直る。
距離が、さらに縮まる。
髪が頬を撫で、甘い匂いが鼻先をかすめた。
蝋燭の光が、艶のある唇を照らす。
そして、ざっくり開いた胸元が――
視界の中心に入ってしまう。
〇〇の目が固まった。
(いかんいかんいかん!!)
反射的に目を閉じる。
何も見てない、何も見てない。
そう自分に言い聞かせながら、呼吸だけが乱れる。
――そのとき。
布団が、もう一度動いた。
少女の瞼が、ふっと持ち上がる。
目が、合った。
「……!」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「救世主様!!」
次の瞬間、
少女は勢いよく上体を起こし、〇〇へ顔を寄せた。
近い。
あまりにも近い。
呼吸がかかる距離。
桃色の髪が肩に降りかかる。
〇〇の心臓が、限界みたいに跳ねた。
ドキドキが、マックスに達する。
息が、できない。
「おきてくださって……よかった……っ」
少女の声はまだ震えていた。
けれど目だけはまっすぐで、
そこに涙がまた溜まり始めている。
〇〇は、目を逸らそうとして、逸らせなかった。
「……救世主様!!」
少女の顔が近い。
近すぎる。
息がかかる。
桃色の髪が頬に触れる。
蝋燭の明かりが揺れて、影がふわりと踊った。
「い、生きて……!」
涙が溜まった瞳がこちらを覗き込む。
〇〇は、喉を鳴らし、やっと声を出した。
「……だ、だれ……?」
「わ、わたしです! 森で……!」
少女は必死にうなずき、胸の前で手を握りしめる。
「デーモンに襲われていたところを、あなたが……!」
「デ……?」
言葉が途中で途切れた。
〇〇の視線が、少女の肩から下へ滑りそうになり、慌てて止まる。
(見ちゃだめだ……!)
(いや、見てない! 見てないけど近い!)
それより、と〇〇は必死に別のことを探す。
ここはどこだ。
なんでベッドだ。
どうして――
そこで、〇〇は自分の状態に気づいた。
肌に布の感触がない。
肩が寒い。
腹が、風に撫でられる。
視線を落とす。
布団の中から、細い腕と、裸の胸元が見えた。
「……あ」
〇〇の脳内で、警報が鳴った。
遅れて、顔が熱くなる。
「ちょ、ちょっと待って!」
〇〇は布団をぐっと引き上げ、首元まで被った。
「いま……俺……」
声が裏返る。
「……裸!? 俺、裸!!?」
「はい!」
少女は即答した。
「うん!」
悪気ゼロで、力強く。
「うん、じゃない!!」
〇〇の声が一段上がる。
「なんでこんなことになってんの!? え!? え!?」
少女はぱちぱちと瞬きしてから、慌てて手を振った。
「ち、違います! えっと、その……!」
ベッド脇に掛けられた、焦げた服を指さす。
「ほら、燃えて……! 全部、あの光で……!」
〇〇は視線だけで確認する。
スーツの名残。
裂けた布。
灰。
そして――少女の服も同じように焦げ、破れている。
「わ、わたしも……この通りで……」
少女は急にしおらしくなり、胸元を押さえながら顔を赤くした。
その動きで布地がずれて、蝋燭の光が肌に反射する。
「……っ!」
〇〇は思わず目をぎゅっと閉じた。
「み、見てない! 見てないから!」
「見てます!」
「見てない!!」
〇〇は布団の中で身を縮める。
(落ち着け……)
(これは事故だ……事故……)
(でも、俺、人生で彼女いないし、こういう距離、初めてで……!)
汗が出る。
背中も、手のひらも、脇腹も。
布団の中が、じわじわ暑い。
少女は、顔を近づけたまま、心配そうに覗き込む。
「だ、大丈夫ですか……? どこか痛いところは……」
「だ、大丈夫じゃないのは……その、いろいろだよ……!」
〇〇は布団をさらに握りしめる。
「ていうか、“救世主様”って何! 俺、何もしてない……いや、したのかもしれないけど、覚えてない!」
少女の表情が、一瞬だけ固まる。
それから、早口で言った。
「覚えてない……?」
「うん。森のことも、途中から……っていうか、ここがどこかも……」
少女は唇を噛み、視線を落とした。
そして、ぽつりと言う。
「……あなた、倒れていました。終わったあと」
「終わったあと?」
「光が……全部を焼いて……デーモンが……」
少女の喉が震えた。
「足だけ残って、崩れて……」
〇〇の背筋が冷えた。
自分の知らない話なのに、
なぜか光景が浮かぶ。
白い光。
熱。
焼けた匂い。
「わたし……怖くて……でも、あなたが倒れて……」
少女の瞳が潤む。
「起きてって、何度も……でも起きなくて……」
〇〇は反射的に口を開いた。
「……泣くな」
言った瞬間、自分で固まった。
あの夜と同じ言葉。
少女も、ぴたりと動きを止める。
「……いま、なんて」
「……いや、違う。なんでもない」
〇〇は慌てて言い直す。
「その、泣くなっていうか……えっと……!」
脳内で、宇宙っぽい台詞が喉まで上がってくる。
(やめろ! いま言うな!)
〇〇は必死に飲み込んだ。
少女は涙を拭い、少しだけ胸を張った。
「わ、わたし……訓練中だったんです。ひとりで森に入って……」
「訓練……?」
「はい。だから、ここに護衛とか……誰もいなくて……」
その言い方には、どこか“事情”があった。
言える範囲だけ言っている、という区切り方。
〇〇はそれ以上は聞けなかった。
それより、もっと切実な問題がある。
「……服」
「はい!」
少女はまた即答し、部屋の隅に目を向けた。
そこには、古い木箱と、布の束。
「この家に、替えの服がありました。多分、前に住んでた人の……」
少女は布の束を持ち上げた。
どう見ても、粗い麻布の服だ。
「……これを?」
「着てください!」
〇〇は布団の中で固まった。
「……え、いま?」
「いまです!」
「……いや、待って。待って、待って」
〇〇は布団を死守する。
「君も……その……」
言いにくそうに視線を泳がせる。
「肌着だけで……」
少女は、ようやく状況を理解したらしく、耳まで赤くなった。
「……っ」
少女は勢いよく布団を引っ張り上げ、自分の胸元を隠す。
「み、見ないでください!」
「見てないってば!!」
二人の声が重なり、
古い木造家屋の壁に反響した。
蝋燭の火が、揺れる。
外から、虫の声がかすかに聞こえた。
〇〇は息を吐き、布団の中で小さく呟く。
「……なにこれ……」
少女も、同じくらい小さい声で返した。
「……わたしも……わかりません……」
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