そして異世界へ

 音が、なかった。


 正確には――

 音が、届いてこない。


 耳鳴りも、風の音も、

 何もない空間に、〇〇は沈んでいた。


 次に感じたのは、

 背中に伝わる、柔らかい感触だった。


 冷たくはない。

 だが、アスファルトの硬さとも違う。


 〇〇は、ゆっくりと目を開ける。


 視界いっぱいに広がったのは、

 濃い緑だった。


 葉と葉の隙間から、

 淡い光が落ちてくる。

 陽射しはやわらかく、

 水の中のように揺れている。


 木々が高い。


 見上げるほどに高く、

 幹は太く、

 表面には苔が張りついていた。


 地面は土。

 踏みしめると、わずかに沈む。

 落ち葉が重なり、

 湿り気を帯びた匂いが鼻に届く。


 〇〇は、瞬きをした。


 呼吸はできている。

 胸は、きちんと上下している。


 ――子どもは。


 その考えが、

 説明もなく浮かんだ。


 横断歩道。

 白線。

 小さな背中。


 助かっただろうか。


 声をかけられていた気がする。

 遠くで誰かが叫んでいた。


 だが、そこから先が、

 はっきりしない。


 〇〇は、上体を起こす。


 服が、やけに重い。


 視線を落として、

 そこで、違和感に気づいた。


 スーツだ。


 確かに、自分のものだ。

 だが――


 大きすぎる。


 袖が、手の甲をすっぽり覆い、

 ズボンの裾が、地面に擦れている。


 〇〇は、自分の腕を見る。


 細い。

 骨張り方も、記憶より浅い。


 足を伸ばすと、

 地面との距離が、妙に近い。


 立ち上がる。


 視界が、低い。


 周囲の草が、

 思っていたより高い位置にある。


 〇〇は、息を止める。


 自分の身体を、

 もう一度、見下ろす。


 中学一年生くらいの体格。

 成長途中の、

 まだ完成していない身体。


 スーツだけが、

 元の大きさのまま、

 ここに残されている。


「……」


 声は、出なかった。


 喉が詰まったわけでも、

 恐怖で固まったわけでもない。


 ただ、

 この場所で音を出すことが、

 ひどく不釣り合いに思えた。


 周囲を見渡す。


 人工物は、ない。


 電柱も、

 街灯も、

 横断歩道も。


 あるのは、

 木と、草と、光だけ。


 森の奥から、

 かすかな音が届く。


 枝が折れる音。

 重たいものが、

 地面を踏みしめる気配。


 生き物だ。


 小動物ではない。


 〇〇は、

 無意識に一歩、後ずさる。


 だが、足は止まった。


 胸の奥で、

 別の感覚が、静かに灯る。


 ――あの子は。


 横断歩道の、

 泣いていた顔。


 もし、また泣いていたら。


 もし、

 今度は誰も来なかったら。


 理由は、

 それだけだった。


 〇〇は、

 ブカブカの袖を握りしめる。


 森の奥、

 木々の影が、ゆっくりと割れた。


 赤黒い影が、

 こちらへ向かって、姿を現し始める。


 静けさが、

 さらに深くなる。

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