青の人

未だに信じられないまま、敦は日記を捲っていた。


けれど――

確かに、違う。


僕の記憶と、少し、違う。


僕は、彼女に誘導されて、ここまで来たのだと、そう思っていた。

けれど、ここに書かれているのは、ただの記録だ。

日々の出来事と、花のことと、些細な感情。


そこには、僕を導く言葉なんて、どこにもない。


「待ってる」


あの言葉は。


……僕が、作ったものだったのだろうか。


そこでふと、裏表紙に、何かが書かれているのに気付いた。


日記を閉じかけた指が、止まる。

紙の端に、かすれた文字。

本文とは違う、少しだけ力の抜けた筆跡だった。


敦は、ゆっくりと裏表紙を開いた。


そこにあったのは、短い、歌だった。


青い花

抱きて微笑む 白き君

春の黄にこそ

映えて輝く


青い花を抱く......僕? 黄色にこそ映える......


息を、吸い損ねる。


——嗚呼。


嗚呼、嗚呼。

分かっていたのだ。

彼女は、分かっていた。


ミモザが、青に見えていた僕のことを。

黄色であるはずの花が、僕の目には、最初から青だったことを。


それでも彼女は、何も言わなかった。

間違いだとも、可笑しいとも。

訂正しようともしなかった。


ただ、受け取ってくれたのだ。

僕が見ていた色を。


——「青は貴女の色」、だからですよね。


胸の奥で、言葉にならないものが、静かに崩れる。


青は。

青は、彼女が選んだ色だった。



*



敦は、日記を閉じた。

裏表紙に触れた指先が、わずかに震えている。


言葉にすれば、壊れてしまいそうだった。

だから何も言わないまま、歩き出した。


病院を出ると、外は春だった。

光が強くて、少しだけ目を細める。

風が吹く。

葉が揺れる。

どこにでもある、普通の午後。


——あの場所だ。


説明しなくても、身体が覚えていた。

道順も、坂の角度も。

かつて何度も通った気がするその道を、敦は一人で辿った。


ミモザ畑は、変わらずそこにあった。


枝いっぱいに咲く、小さな花。

風に揺れる、黄色の花。


敦は、立ち尽くした。


「……ああ」


声が、零れた。

ようやく、すべてが噛み合う。


ここに、青い世界が広がっていた。


けれど、それは——

僕の中だけの景色だった。


足元が、ふらつく。

視界が、滲む。


「……っ」


息を吸おうとして、失敗する。

喉が鳴る。

音にならない声が、胸につかえる。


「……ごめ……」


誰に向けた言葉かも、分からない。


彼女は、知っていたのだ。

僕の見ている世界が、他の人とは違ったことを。

それでも、何も言わなかった。


ただ、隣に立って。

同じ花を見て。

同じ色の中に、いてくれた。

黄色のワンピースを纏い、黄色の花を好んだ彼女は、僕の前だけでは「青の人」でいてくれたのだ。


「……っ、あ……」


耐えきれず、膝をつく。

指が、土を掴む。

肩が、小さく跳ねる。


嗚咽が、遅れてやってきた。


声にならないまま、何度も。

呼吸が乱れ、視界が揺れる。


黄色の花の中で、

かつて確かに存在した、青の世界を思い出しながら。


敦は、泣いた。


彼女の色を、

彼女が守ってくれた沈黙を、

もう二度と触れられない、そのすべてを。


風が吹き、ミモザが揺れる。



『また、この場所で会いましょう』


そう云って笑った彼女の笑顔を何度も反芻する


『また、この場所で会いましょう』


『また、この場所で会いましょう』


「『また、この場所で会いましょう』」


気づけば、自分の口も同じ言葉を形づくっていた。


「『また、この場所で会いましょう』」


「また、この場所で……」


敦は、黄色を摘み取って、花輪を作った。


それを抱きしめながら云う。


「この花も、屹度似合うでしょう」


貴女が僕に、くれた色。

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