依頼
敦は、机の上に積まれた書類を一枚ずつ揃え直していた。
整えたはずの端が、わずかにずれているのが気になって、もう一度指先で撫でる。
紙の角が揃う感触に、ようやく息をついた。
「まだやってるのかい、敦君」
背後から気の抜けた声がして、振り返ると太宰が机にもたれかかっていた。
いつもの包帯姿に、軽薄そうな笑み。
(ああ、探偵社に帰ってきたんだなぁ)
「もう終わります。報告書、国木田さんに渡さないと」
「敦君は、真面目だねえ」
「ええ。太宰さんと違って報告書は期限内に確り出していますよ」
書類を抱え、午後の光が差し込む室内を見渡す。
――いつも通りの探偵社の、長閑な午後。
光がまぶしく、一瞬視界が揺れる。
(……まぶしいな)
「敦君?」
「あ、すみません。今行きます」
(......うわ、目がチカチカする)
廊下を歩きながら、敦は何度か瞬きをした。
光に目が慣れるまでの、ほんの一時。
――問題はない。
そう思って、歩調を早めた。
*
任務当日。
敦は、車窓の外を流れる街並みをぼんやりと眺めていた。
依頼の内容は何度も反芻してしっかり頭に入っているし、目的地に着くまでやることが無い。
はっきり言って、ヒマなのだ。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
少し前までなら、電車に乗れば景色を目で追って楽しんでいたが、さすがに慣れてしまって、今はすぐに飽きてしまう。
(……よし。やっぱりもう一回、依頼内容を確認しよう。)
敦は鞄から資料を取り出した。
依頼は単純なものだった。
公園で数日前から人影を見たという通報。夜間の目撃情報が多い。
被害者はおらず、ただ「女性を見た」という証言だけがある。
共通点は、花のある場所に立っていたこと。
「……花、か」
小さく呟いて、敦は視線を紙面に戻した。
公園の名前が記されている。
――春先になると、ミモザが咲くことで知られている。
そこまで読んで、敦は一度瞬きをした。
車内アナウンスが、次の駅名を告げる。
窓の外では、街並みが相変わらず一定の速度で後ろへ流れていく。
特別な違和感はない。
胸騒ぎも、嫌な予感も。
「……いつも通り、だな」
そう自分に言い聞かせて、敦は資料を鞄に戻した。
目的地は、もうすぐだ。
*
公園は、思っていたよりも静かだった。
「......お昼、なのに」
平日の昼間だ。
子どもの声がしていてもおかしくないし、散歩をする人がいても不思議じゃない。
けれど、見渡す限り、目に入るのはまばらな人影だけだった。
ベンチに座っている老夫婦。
通路の向こうを横切っていく、スーツ姿の男性。
風が吹くたび、木々の葉が小さく揺れる。
さらさら、と乾いた音。
「……静かだな」
誰に言うでもなく呟いて、敦は歩き出した。
足元の砂利が、きゅっと鳴る。
資料にあった通り、奥に進めば花壇があるはずだ。
春先になると、花が咲く――そんな説明を、さっき電車の中で読んだ。
視界の端に、色のまとまりが入る。
「あ……」
足が、自然とそちらへ向いた。
花は、思っていたよりも多かった。
群れるように咲いている。
風に揺れて、枝先がかすかに触れ合う。
「……きれいだ」
それは、素直な感想だった。
ただ、どこかで――
ほんのわずかに、胸の奥がざわついた。
理由は、わからない。
思い出したわけでも、何かを見落としたわけでもない。
それでも、敦は立ち止まったまま、
しばらく花から目を離せずにいた。
風に揺れる枝の向こうに、人影があった。
「あの……」
柔らかい声だった。
敦が振り返ると、花壇のそばに一人の女性が立っていた。
「すみません。少し、見ていてもいいですか?」
「あ、はい。もちろん」
女性はほっとしたように微笑み、そっと花に視線を落とした。
その横顔が、揺れる花の色に溶け込んで見える。
「きれいですね」
敦がそう言うと、彼女は小さくうなずいた。
「ええ。ミモザっていうんです。春になると、たくさん咲くんですよ」
「ミモザ……」
敦は花を見つめた。
資料にも書いてあった。
――ミモザは、黄色の花だ。
そう、知っている。
それなのに。
目の前で揺れているのは、光を受けて淡く揺蕩う、青い花弁だった。
風に撫でられて、枝が擦れ合う。
さらさら、と乾いた音。
(……いや、自分が知らないだけで青色のミモザもあるのかもしれない)
「好きなんですか?」
問いかけると、女性は花に触れないまま、そっと目を細めた。
「はい。昔から、なんとなく」
その声を聞いていると、不思議と落ち着いた。
敦は、ふと口を開いていた。
「この花、あなたに似合っています」
女性が、わずかに目を見開く。
「……青は、貴女の色だ」
言ってから、少し遅れて気づく。
ずいぶん、気障な台詞を言ってしまった……
彼女は一瞬、言葉を探すように視線を揺らしたあと、小さく笑った。
「そう、かしら」
「はい」
返事は、それ以上返ってこなかった。
ただ、彼女はゆっくりとうなずく。
風が吹く。
枝が揺れ、青い花が二人のあいだを静かに満たした。
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