第2話

 宮尾との繋がりを得た俺は、生活の全てを眠りに捧げた。夢の中で宮尾を支配する時間が俺にとって唯一の「真実」だった。

 講義中も、食事中も、いかに効率よく眠り、深い夢へと潜るかということしか考えていなかった。心療内科で嘘を吐き、睡眠剤を掠め取った。

 夜になれば「今夜は右の手首を折る」と予約するように書き殴った。

 酒と睡眠剤を半分、胃が焼けるような痛みと吐き気が込み上げるが、俺は日記の上で気絶するように眠った。


 大学の廊下ですれ違った宮尾もかつての輝きを失っていた。真夏だというのに首元にストールを巻き、笑顔もどこか引き攣っていた。サークルの仲間たちは心配そうにしているが、俺だけは知っている。

 そのストールの下にある、俺が昨夜、夢の中で熱心に刻み付けた「証」を。


 俺の体も限界を迎えていた。頬は痩け、目が血走った俺の姿は黒い液晶の中で青白い幽霊のように映る。

 だが、それでいい。現実の俺が削れるほど、夢の中の宮尾は鮮明になり、より深く、より残酷に愛でることが出来る。


 講義中、カフェインで無理やり引き摺り出した覚醒と、睡眠剤が誘う強烈な眠気が、俺の脳内で激しく衝突し、視界をセピア色に染め上げる。


「乾さん、本当に顔色悪いよ。休んだほうが…」


 覗き込んできた宮尾の顔が、三重にも四重にも重なって見える。俺は返事をする代わりに、喉元のストールを睨みつけた。昨夜、俺が夢の中で必死に噛みついた場所だ。俺は震える指でストールを握った。


「俺だけは知っている。ストールの下、何があるのか」


 宮尾は俺の手を払い除けると、ストールを握り締め、俺の目を見て距離を取る。


「あんた、気持ち悪いよ。薬でもやってんの?」


 俺はぼんやりとする頭で、蔑むような憐れむような顔の宮尾を見た。


「そこ。私語厳禁だぞ」


 教授の注意する声が、夢見心地の俺の頭を引き戻した。宮尾は俺を見て、それから再びホワイトボードへ目を戻す。払い除けられた手が痛む。俺は細枝のようになった己の指を見つめた。

 視界が歪み、脳漿に激しく金切り声のような不協和音を響かせる。


 俺はアパートへ帰るなり、酒を煽り、胃が焼けるような不快感に身を委ねる。

 早く、早くあいつを連れてこい。

 現実という名の雑音を消し去るために、俺は今日も自分の肉体を削り、どす黒い眠りの海へと身を投じる。


 次に目を開けたとき、視界を刺したのは泥のような暗闇ではなく、ガラス張りの壁から差し込む太陽光だった。

 大きな展示ホールを埋め尽くす熱気、紙の匂い、そして数百人分の吐息が混じり合い、俺の鋭敏になった鼻腔を容赦なく蹂躙する。数日間の絶食と過剰な薬物摂取のせいで、俺の平衡感覚は死にかけていた。歩くたびに、地面が湿ったスポンジのように沈み込む感覚がある。

 サークルの共同ブースには、華やかに装飾された宮尾たちのスペースとは対照的に、俺の「評論」が置かれた一角だけが、まるで遺影を飾る祭壇のように冷え切っていた。


「乾さん、生きてる?」


 横から声をかけてきたのは、ストールを外し、いつもの明るい笑顔を貼り付けた宮尾だった。

 講義中、俺を「気持ち悪い」と切り捨てたあの蔑みの表情は夢だったのか。それとも、こいつの記憶から都合よく消去されたのか。

 宮尾は、俺が命を削って喉を締め上げ、痣を刻みつけたはずのその首筋を、無防備に晒して笑っている。


「…執筆に、少し命を使いすぎただけだ」

「はは、相変わらず大袈裟だなぁ」


 宮尾は楽しそうに笑い、手際よく自分の新刊を並べていく。あいつの書く物語は、ただ消費されるだけの退屈な娯楽だ。それなのに、あいつのブースには人だかりができ、小銭が落ちる音が絶え間なく響き始める。

 俺の本は、一冊も動かない。

 俺の魂の排泄物。宮尾との血の滲むような夢の記録。

 世界に拒絶されている。

 俺は机の下で静かにエナジードリンクの空き缶を握りつぶした。不協和音が、会場の喧騒と混ざり合い、巨大な耳鳴りとなって俺を包囲していく。

 そんな時だった。

 客足が途切れた一瞬、宮尾が無造作に俺の本を手に取った。

 宮尾は、俺が血を吐く思いで綴ったその一冊を、まるでコンビニの棚にある雑誌でも選ぶような軽薄な手つきでパラパラとめくった。

 俺の心臓は、壊れた時計のように不規則な拍動を刻む。その一頁一頁には、俺が夢の中で宮尾に加えた陵辱が、吸い上げた熱が、形を変えた言葉となって刻まれている。

 読まないでくれ。いや、跪いて読み耽ってくれ。

 矛盾する二つの祈りが脳内で激突する中、宮尾は数頁で本を閉じると、あろうことか満足げに微笑んだ。


「あぁ…うん。悪くないね」


 視界が、真っ白に弾けた。


「…悪くない、だと?」

「うん。少し表現が凝りすぎてて読みづらいところもあるけど、独特で面白いんじゃないかな。俺は好きだよ」


 その言葉は、俺の鼓膜を通り抜けた瞬間に汚物へと変わった。

 宮尾は、俺の「真実」を理解したのではない。ただ、自分の理解できる範疇の「エンターテインメント」としてレッテルを貼っただけだ。俺が命を削って刻んだ痣の痛みも、執着も、こいつにとっては「独特な表現」という一言で片付けられる程度に過ぎなかったのだ。

 俺の文学は、こいつに消費された。


「…そうか」


 耳の奥の不協和音が、今や地鳴りのような轟音となって俺の意識を支配する。宮尾は「あ、客が来た」と、すぐに自分の輝かしい世界へと戻っていった。俺は自分の本をひったくるように掴むと、逃げるように会場を後にした。


 アパートへ戻る道すがら、俺は何度も嘔吐えずいた。

 現実が、あまりにも汚らわしい。あんなに近くに感じていたのに、首には確かに俺の指の跡があったはずなのに、言葉を交わした瞬間にすべてが偽物になった。

 

 アパートのドアを閉めた瞬間、俺はガムテープを二重に貼り、一筋の光も許さなかった。

 残っていた睡眠剤をすべて手のひらにぶちまけ、酒と共に一気に流し込む。

 喉が焼け、胃が痙攣する。だが、その激痛が心地よい。

 

 殺してやる。夢の中の従順な宮尾ではなく、俺をあんな薄笑いで肯定した、あの現実の宮尾を。

 

 日記を開く。文字を書く手はもはや震えていなかった。

 「殺す」

 狂ったように一文字を並べ続け、俺は昏睡に近い眠りへと沈んでいった。


 気がつくと、俺は自分の部屋にいた。

 暗い、いつもの部屋。だが何かが違う。インターホンが、執拗に鳴り響いている。

 チェーンをかけたままドアを開けると、そこには宮尾が立っていた。

 ストールも巻かず、講義で俺を拒絶したあの冷たい瞳でもなく、ただ困ったような顔をして。


「ノート、取り忘れたから貸してほしいんだ。…それから、さっきはごめん。あんたの言葉も、本も、本当は好きなのに」


 「気持ち悪い」と言ったことさえも忘れ、「悪くない」と軽く評したあいつがこんな所へ来るはずがない。

 俺の歪んだ願望が、夢の宮尾にそう「告白」をさせたのだと即座に理解する。俺は宮尾を部屋に押し入れ、そのまま床に押し倒した。


「あぁ、いいよ。全部、俺が教えてやる」


 俺は両手を、宮尾の細い首にかけた。

 今までの愛撫とは違う、殺意の硬度を持って力を込める。宮尾の喉の軟骨が、嫌な音を立てて軋む。

 顔が驚愕に染まり、やがて赤黒く鬱血していく。指に伝わる、必死に生きようとする脈拍。それが一つずつ途切れていくたび、不協和音は、音楽のような調和へと変わっていった。

 

 全ての拍動が完全に動かなくなった宮尾の体の上に、俺は崩れるように重なった。

 今までで一番深い、泥のような疲労が全身を包む。

 俺は勝利の余韻に浸りながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

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