「協会」事件簿 その3 「低層マンション上層階のクロ」

二式大型七面鳥

第1話

 週末のある日。休日であっても、警察庁刑事局けいさつちょうけいじきょく捜査支援分析管理官付調査班そうさしえんぶんせきかんりかんつきちょうさはん、通称分調班ぶんちょうはん所属の警部である酒井源三郎さかい げんざぶろう三十五歳の朝は早い。

 就業形態としては完全週休二日制、土日は基本的に休み、なのだが、そうは問屋が卸さない仕事柄、休日出勤もままある。

 そのような不規則で不健康な生活を正す意味もあって、酒井は、休日の朝は必ずジョギングに出ることにしていた。

 勤務のある平日同様、朝五時半に起床、軽く体操して顔を洗って目を醒まし、タイマーで起床に合わせて炊いておいた米を握って塩むすびを作り、前の晩に茹でておいた卵を剥いて付け合わせ、バスケットに詰めてペットボトルの水と一緒にナップザックに入れる。トレーニングウエアに着替え、ジョギングシューズを履いて、部屋を出るのがきっかり朝の六時。

 川と言えば渓流しかイメージ出来ない、山生まれ山育ちの酒井の目には、たゆたう水面みなもの親水公園沿いのランニングは、まだまだ充分に新鮮な体験であった。


 東京メトロ西葛西駅から徒歩十分、西葛西七丁目の自宅マンションを出て真っ直ぐ西に進むと、ほんの数分で新長島親水公園に繋がる遊歩道に出る。これを南に下って、新左近川親水公園を水面みなもを見ながらぐるりと二周。ジョギングより少し速いペースで約一時間。適度に汗をかいたところでベンチで休憩、ナップザックの水と握り飯で朝食、というのが、ここ最近の酒井のお気に入りの朝のルーティンだった。

 この日も、そんな、何度も繰り返した同じ休日の始まり。

 穏やかな一日の始まり

 その、はずだった。


「……ん?」

 一つ目の塩むすびをほおばっていた酒井は、自分を見つめるその視線に気付いて、その視線のぬしに目を向けた。

 そこに居たのは、年の頃は三、四歳だろうか、赤みの強い、というよりほぼ赤毛の髪を肩より少し長く垂らした、赤いスモックを着た幼女。酒井の腰掛けているベンチに手をつき、黒目がちのつぶらな瞳でじっと酒井を、正確には酒井の手に持つおにぎりを見つめ、たまに口をパクパクさせている。

「……食べる?」

 酒井が子供の頃ならいざ知らず、今のご時世、見ず知らずの子供に何かあげるのは、コンプライアンス上とか色々と気を付けた方が良い。その事は、警察官である酒井も重々承知してはいる。

 が、その時の酒井は、そうせざるを得ない『何か』を感じ、食べかけの塩むすびをもった右手はそのままに、左手でナップザックからもう一つ握り飯を取り出し、片手で器用にアルミホイルをめくってその幼女に差し出していた。

 最初、それが何か分からない様子でじっと握り飯を見つめていた幼女は、自分の手で握り飯を受け取るより早く、ぱくりと口から先に一口、握り飯にかぶりついた。その様子に少しだけ驚く酒井をよそに、幼女は握り飯を両手で受け取ると、一心不乱に食べ始める。

――よほど腹が減っているのか?――

 その様子を見ながら、酒井は食べかけていた塩むすびを三口ほどで急いで片付け、水を一口含むと、最後の一個の握り飯と、付け合わせの茹で卵をバスケットから取り出し、そして気付いた。

――この子、裸足だ……――


育児放棄ネグレクト?ですか?」

 親水公園からの帰り道、酒井は、少し遠回りして、葛西警察署の清新町交番に立ち寄っていた。

「ああ。腹を空かしていたようだし、裸足だったんでね……」

 先ほど、酒井が握り飯を与えた幼女。塩むすび二つとゆで卵三つをペロリと平らげ――それ自体、三、四歳の幼児としては驚異的な食欲だ――、もう何も出ないと見ると、ぱっとその場から居なくなり、あっという間にその姿は植え込みの向こうに消えてしまった。

 万が一という事もあるし、ましてや、逆に自分がそのやりとりを見ていた誰かから不審者扱いされても困るので、念のため、先手を取って交番――酒井が現役の制服警官だった当時はまだ派出所呼びがあたりまえだった――に一言入れておこうと思ったのだ。

 幸いにしてと言うか、酒井がこの土地に引っ越してきてすぐに挨拶を済ませてあるおかげで、交番の担当は大体顔見知りである。それは、巡回連絡票の記載でいちいち出向かせるのも申し訳ないという理由もあったが、何の事はない、つい最近まで地方の駐在所勤めだった酒井は、慣れない都会暮らしで多少なりとも慣れている空気を感じたかったからでもある。

「三、四歳くらいの女の子、ですか?」

「ああ、それくらいに見えたな」

「とりあえず、自分はそのような案件は引き継いでませんが……」

 若い巡査は、首を傾げつつ答える。

 警察学校を出て間もない若い巡査にとって、色々な意味で雲の上の存在――交番勤務の一巡査から、常識ではあり得ないスピードで警部に昇進し、あまつさえ地方警察から警察庁の中枢に抜擢された、ある意味キャリア警官よりもものすごい出世をした人物――である酒井の言うことだから無碍には出来ないけれど、夜勤明けで交代を控えたタイミングとあってはあまり面倒ごとを抱え込みたくもない。

 そんな気持ちも理解出来る酒井は、

「まあ、俺の思い過ごしかもしれないから。とにかく、そういう子を見かけたって事だけ申し送っておいてくれないか?」

「は、了解です」

 椅子から腰を浮かせて敬礼する巡査に、酒井は、よろしく頼むと会釈して交番を出た。


 それが只事ではなさそうだと気付いたのは、隣室の、遅く起きた青葉あおば五月さつきに昼食を呼ばれた時のことだった。

 桜田門の隣の合同庁舎にある警察庁勤めのサラリーマンと言える酒井に対し、言ってしまえば夜の女である五月は、生活時間帯がどうしても半日程度ズレている。最近は日中の占いの客もボチボチきているようで、それなりに生活時間帯を改善しようとしているようだが、帰宅が午前様ではなかなかどうにもならないようでもある。

 そんな五月と、酒井が勤務のない土日は昼食を共にすることが多く、そしてたいがい五月の部屋のDKダイニングキッチンに『お誘い』があってお邪魔するのだが、この日は玄関を開けた瞬間に、五月の顔色が変わった。


源三郎げんざぶろうさん!何、けがれなんか付けて来てるんですか!」

「……え?」

 玄関扉を開けた瞬間の笑顔から、一瞬にして凄い剣幕で怒られて、酒井はフリーズする。

 どこから出したのか、小さな霊符ふだとコップを取り出した五月は、

唵 金剛火 薩婆訶オン・バザラナラ・ソワカ!」

 コップの上で手品のように札を霊符ふだを発火させ、その灰をコップの水に溶かして、

「はいこれ飲んで!」

 有無を言わさず酒井に渡し、酒井が飲む間に塩を振りかけ、

唵嘛呢叭咪吽オンマニパドメフン!」

 真言マントラを唱えつつ、パンパンと酒井の体を叩く。

「……ふう」

 うっすらと額に汗をかいた五月が、その額に貼り付いた乱れ髪をかき分ける。

「よし」

「……あの……」

「……で、源三郎さん」

 結構怖い目で、五月はちょっとだけ腰を曲げて――五月と酒井は身長がほとんど変わらない――下から睨めつけるように酒井を見て、言う。

「どこで、穢れなんて付けて来たんです?」


「……辿れるもんなんだな……」

 比較的高級なハイツを見上げて、酒井は呟く。

「いいんだか悪いんだか分からないですけどね……」

 苦笑しつつ、五月が答えた。


 咄嗟の応急処置的なやり方で酒井の穢れを祓った後、昼食を摂りながら、五月は根掘り葉掘り酒井から穢れについて聞き出した。

 と言っても、酒井自身に、穢れに触れた記憶は無い。仕方ないので、朝からの一部始終を五月に話して聞かせることになった。

「……あるとすると、じゃあ、その子くらいしか考えられないって事ですね」

「そうなるな……」

 特にこれといって変わった事をした覚えのない酒井にとっても、今朝方に起きた、日常から逸脱した出来事と言ったら、件の幼女に握り飯を与えた一件以外に思いつかない。

「確認、してみます?」

 食器を流しに運びながら、五月が聞く。

「親水公園ですよね?腹ごなしの散歩がてら、穢れの痕跡、探してみます?」

「そうだな……」

 片付けを手伝いながら、酒井が頷く。

 そして、思ったより簡単に、思ったより濃く残っていた穢れの痕跡を発見し、追跡し、今に至る。


「……言いたくないですけど。これだけ濃い穢れだと、多分……」

「……人死にが絡んでる、か?」

 酒井に聞き返され、五月はこくりと頷く。それを見て、酒井はため息をつく。

――そういう事なら、何となく事情は腑に落ちるけどな……――

 内心穏やかでないものを呑み込みつつ、酒井はそのハイツを見上げる。

 古くは葛西沖団地と呼ばれ、公団・公社・都営の三団体がそれぞれ管理するその巨大団地の一角に立つその賃貸物件は、四階建ての比較的賃料の高い物件ハイツであって、恐らくはそれなりに裕福な家庭が入るようなものなのだろう。

 五月によれば、穢れはその最上階、四階のどこかから外階段越しに続いており、近づくほどに強くなると言う。

――……何らかの理由で親が亡くなって、途方に暮れた子供が一人で外に出た、そんなところか……――

 それでも色々と納得のいかないところはあるが、一息深呼吸して、酒井は覚悟を決める。

「乗りかかった船だ、行きましょう」

「はい」


 独身時代の交番勤務でも、結婚してから離婚するまでの駐在所勤務でも、不審死、孤独死に関する事件は無かったわけではない。五月が示す、穢れの最も強い玄関扉のノブに手袋をした手を載せながら、酒井は過去の経験を思い出す。

 気持ちのいいものでは、ない。

 予想したとおり、玄関扉に鍵はかかっていない。

 もう一度、ため息にも似た深呼吸をしてから、酒井は意を決して玄関扉を開け放った。


 玄関を入った途端に、酒井は、五月も、その異臭に気付く。

 生ゴミと、酒と、そして。

 普通の人はあまり触れる機会がないであろう、血反吐の匂い。

 思わず顔を見合わせた酒井と五月は、小さく目で頷き合ってから、靴を脱いで、万一を考えて持って来ていた使い捨てスリッパを履いて玄関から室内に上がった。


 そのハイツは、思った通りに余裕のある設計のもので、広めの部屋を持つ3LDKで玄関を入って廊下が左右につながり、右手に和室と洋室、左手に和室とLDKのある構造になっていた。風呂トイレは玄関から見て廊下の奥側、玄関からは直接見えない位置に扉がある。

 さて、左右どちらから行ったものか。酒井は左右を見まわし、五月が左手を見ていることに気付く。

 酒井が自分を見ていることに気付いた五月も目を上げ、視線で左手奥を示す。

 ホステスでもあり、占い師でもあり、その筋では腕の立つ部類の拝み屋でもある五月は、左手奥の穢れが最も強い事に即座に気付いていたのだと酒井は理解し、そして、気付く。

 廊下の左手奥から玄関に向けて、奥が濃く、手前に来るに従って薄く、玄関では光の加減で殆ど見えないが、小さな子供の足跡のようなものが幾つもあることに。


 その足跡を踏み消さないよう注意しながら、酒井と五月は左手奥に進む。

 意識して嗅ぐまでもなく、一歩ごとに異臭は強くなる。

 強い、酒の匂い。

 えた、生ゴミのような匂い。

 そして。

 何度嗅いでも慣れる事のない、放置された、死体の匂い。

 リビングで、酒井は、五月も、見た。

 どす黒くなった血の海に横たわる、部屋着姿の男の亡骸なきがらを。

 酒井より一回り近く年上だろう、土気色の顔を床に押しつけるように、胸を掻きむしり、足はあがいたであろう跡の残るその亡骸。

 周囲に散らばる酒の空き瓶は、まだ中身の残るものもあるが、あがいて蹴られたであろうテーブルから落ちて散らばったのだろう。水割りの氷でもぶちまけたか、その周囲は水で濡れている。よく見れば、その周囲には、テレビボードの上に置かれた水槽の金魚の為のものだろう、粒状のエサが散乱している。

 酒井にも、五月にも、一目で分かる。

 何らかの理由で酒浸りになり、その挙げ句として大量の吐血をして、出血ショックか、もしかしたら自分の吐く血で溺れたか、どちらにしても安らかではなかったであろう最後を迎えた、哀しい男の姿。

「源三郎さん……」

 それなりに修羅場の経験もある五月が、それでも慣れないのか、酒井の上着の袖を掴む。

「ああ。こりゃあ、正真正銘、地元警察の仕事だ。俺達のお節介もここまでだな」

 酒井は、懐から携帯電話を取り出す。

「……私、ここの穢れだけ、払っておきます」

 懐から、こちらは霊符ふだを取り出しながら、五月も言う。

「公園からここまでも、要所要所で払っておきます。悪いもの・・・・呼んじゃいそうだから」

「お願いします」

 地元の葛西警察の刑事課の短縮番号を押しながら、酒井は答えた。

 答えて、ふと、気付く。

 リビングのテレビボードの上、大型液晶テレビの横の水槽の中、細身の金魚が、じっとこちらを見ていることに。

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