804年の遣唐使一行の予算と所持金
遣唐使の予算と持ち金
804年の航海と金銭事情
この遣唐使は、藤原葛野麻呂を大使、石川道益を副使とし、空海、最澄、橘逸勢といった学問僧を伴う重要な使節団だった。史実から明らかなように、当時の日本は唐との外交・文化交流を重視し、朝廷から多額の予算を割り当てていたが、貨幣制度の未熟さと距離の遠さから、金銭の持ち運びは慎重に行われた。
804年(延暦23年)の第16次遣唐使は、日本史上重要な文化交流のイベントであり、空海、最澄、橘逸勢といった学問僧を伴った使節団だった。大使の藤原葛野麻呂は、朝廷の信頼を一身に背負う立場として、使節団の予算管理を担っていた。奈良・平安時代の日本は、唐との外交で多額の経費を投じていたが、当時の貨幣制度は未熟で、金銀や絹織物が主な価値の媒体だった。
ここでは、『日本後紀』『続日本紀』『類聚国史』『入唐求法巡礼行記』(空海の記録)『天台大師伝』(最澄の記録)などの史料を基に、使節団の予算、持ち込んだ貨幣や金、大使・副使の供与、空海、最澄、橘逸勢の持ち金を考察する。金額は当時の相場を推定し、ドル換算(1ドル = 150円、金1両 = 40g ≒ 2000ドル、絹1匹 = 400文 ≒ 8万円=533ドル)とした。
日本は唐の先進文化に憧れ、貢物を通じて外交を維持したが、この金銭事情は両国の経済格差を浮き彫りにする。
当時の唐の貨幣・貴金属・布は、当時の唐・長安の物価を元に換算すると
◯ 1貫=1000文(約20万円)
◯ 金(砂金)1両(40g)≒ 10貫(約200万円)
◯ 銀1両(40g)≒ 1貫(約20万円)
◯ 絹1匹 ≒ 400文相当(約8万円)
であった。
遣唐使の全体予算について。奈良・平安時代の日本は、唐との交流で貢物として金銀、絹織物、漆器、硫黄などを送っていた。804年の使節団は4艘の船で構成され、総予算は朝廷から支給された金銀で数千両相当と推定される。『日本後紀』によると、遣唐使の経費は国家予算の大きな部分を占め、船の建造費、食料、貢物を含めて1万両以上(約20億円)に上った可能性がある。
持ち込んだ貨幣は、当時の日本で流通していた和同開珎などの銅銭ではなく、金銀の延棒や小判状の金塊が主だった。銅銭は重く運びにくく、唐では通用しなかったため、金銀が優先された。遣唐使一行は、金100両(2億円)、銀500両(500貫、1億円)、絹1000匹(1匹 ≒ 400文相当、総額40万文 ≒ 8千万円)、総額3億8千万円を持ち込んだとされる。これらは大使の葛野麻呂が管理し、唐の朝廷への献上品として使われた。
※朝廷からの報奨品で長安で換金可能な物品・交易品は、史実では、
◯ あしぎぬ1疋(約40万円、高級な絹織物として絹5匹分と仮定)
◯ 綿1屯(約6万円、綿織物の反物として、布よりも高級品と仮定)
◯ 布1端(約4万円、麻や綿の一般的な反物として)
◯ 綵帛(染めた絹)1匹(約10万円、通常の絹より高価なため)
◯ 日本の砂金1両(約200万円(唐の金1両とほぼ同等と仮定)
であったが、日本製品と唐の製品が混在すると煩雑になるため、ここでは、全て唐の金、銀、絹相当で換算した。遣唐使一行も長安に到着後、唐の金、銀、絹に交換したと思われる。
金、銀、絹以外に、貢物の品目として、白瑠璃の碗(ガラス器、約1500万円相当)、三彩の壺(陶器、3000万円)、鴛鴦唐草文の錦(絹織物、7500万円)、硫黄、漆器などが記録され(『奈良国立博物館資料』)、総額1.4億円と推定される。
日本は銅銭(和同開珎)が主だが、重いため運びにくく、唐では通用しなかった。代わりに、金銀の延棒や小判状の金塊、絹を貨幣代わりに持ち込んだ。これらは博多津から船に積み、葛野麻呂が管理。航海中の嵐や海賊を避けるため、警備は厳重で、武士や船員が護衛した。
まず、遣唐使の全体予算について。使節団は4艘の船で数百人を擁し、総予算は朝廷から支給された金銀・絹などで数千両相当と推定される。
大使・副使の供与額は、朝廷の位階に基づくものだった。大使が約4億2,900万円、副使が約3億2,600万円と非常に高額に思われるが、遣唐使船の半数以上が難破、遭難、沈没をしていた危険な旅であったので、そのための危険手当の意味合いもあったし、現地での経典、仏典、仏具、儒学書などの購入費も含まれていた。また、唐王朝の皇族、公家、官僚などとの営業で接待も自腹でかなり支払っただろう。さらに、当時の長安の物価は、現在のニューヨーク並に高かった。高級な
◯大使(藤原葛野麻呂、正三位)
派遣前・旅中の給与(旅費・支給品):
あしぎぬ60疋、綿150屯、布150端、砂金200両
帰国後の報酬:
綵帛(染めた絹)100匹。
給与総額(派遣前・旅中):
あしぎぬ60疋 → 60 × 40万円 = 2,400万円
綿150屯 → 150 × 6万円 = 900万円
布150端 → 150 × 4万円 = 600万円
砂金200両 → 200 × 200万円 = 4億円
合計:約4億2,900万円
帰国後の報酬:
綵帛100匹 → 100 × 10万円 = 1,000万円
※大使は旅費や部下の管理費を負担した。
◯副使(石川道益、従四位下)
派遣前・旅中の給与(旅費・支給品):
あしぎぬ40疋、綿100屯、布100端、砂金150両
帰国後の報酬:
綵帛(染めた絹)80匹。
給与総額(派遣前・旅中):
あしぎぬ40疋 → 40 × 40万円 = 1,600万円
綿100屯 → 100 × 6万円 = 600万円
布100端 → 100 × 4万円 = 400万円
砂金150両 → 150 × 200万円 = 3億円
合計:約3億2,600万円
帰国後の報酬:
綵帛80匹 → 80 × 10万円 = 800万円
※実務担当として、物資の点検や交易費を管理した。
同様に、空海、最澄の懐事情は、
◯空海(留学僧、私費):
砂金数十両規模:
讃岐の有力者からの寄付や自身の蓄えで賄ったとされ、持ち込んだ金は砂金や絹相当の私財だった。20年分の滞在費を経典、仏典、仏具、密教の器具、などの購入、師匠への御礼費に充てられ、1年半で使い切り、早期帰国した記録がある。官費の最澄とは異なり、経済的負担が大きかった。
滞在費:
砂金数十両規模と仮定して、例えば30両とすると、30 × 200万円 = 約6,000万円
20年分の滞在費として準備したこの莫大な私財を、1年半という短期間で使い切ったことは、唐での経典や仏具の購入、師への謝礼などが、いかに高価であったかを物語っている。
◯最澄(留学僧、官費):
砂金150両相当:
唐で天台教学を学び、書籍・仏具を購入。費用は空海より安定しており、官費のため負担なし。
滞在費:
砂金150両相当 → 150 × 200万円 = 約3億円
国から潤沢な費用が支給されており、空海のような経済的な苦労はなかったと考えられる。
橘逸勢の懐事情は、
◯橘逸勢(留学生、官費):
砂金100両相当:
滞在費:
砂金100両相当 → 100 × 200万円 = 約2億円
最澄と同様に、国費で留学していたため、安定した経済基盤の中で学問に専念できた。
と史実では見受けられるが、この小説ではこのような潤沢な懐事情では、お話が展開できないので、経典、仏典、仏具、儒学書などの購入費などを除いて、自由に使える遊興費は30貫(600万円)と大幅に減らしたのでご理解願いたい。また、身分も官費の留学生ではなく、私費の学問僧に変更した。学問僧は空海、最澄のようなプロの修行僧ではなく、長安の教育機関での学習をする程度という意味である。
※高階遠成は、延暦24年(805年)第18次遣唐使の大使・藤原葛野麻呂らの帰国直後に、遠成は遣唐使判官として唐に渡る。在唐中の元和元年(806年)に唐朝より中大夫・試太子允の官を与えられる。805年10月に遣唐留学生の橘逸勢や留学僧の空海らを伴って帰国した。
唐の物価(米1石400~600文 ≒ 8~12万円)から、遣唐使の予算は豪華で、ローマの富裕層(年収5千万円)並みだった。こうした金銭事情は、遣唐使の文化的意義だけでなく、日本と唐の経済格差を浮き彫りにする。葛野麻呂の老練な手腕は、こうした予算管理で発揮されたのだろう。
こうした金銭事情は、遣唐使の文化的意義だけでなく、日本と唐の経済格差を浮き彫りにする。日本は唐の先進文化を吸収するため、多額の貢物を送ったが、唐の経済規模(GDP推定10億ドル相当)と比べ、日本は1/10程度(1億ドル相当)と推測される。
現在の下位のGDP国家で、ブルンジのGDPは2021年には約32億ドル、ソマリアは約72億ドル、中央アフリカは約24億ドルだった。空海と最澄が遣唐使として唐に渡った平安時代初期(9世紀初頭)の日本の人口は、約600万人程度であるが、現代の下位のGDP国家に比較しても貧しい国だったのだ。
葛野麻呂の老練な手腕は、こうした予算管理で発揮されたのだろう。『日本後紀』では、葛野麻呂は唐の官僚と交渉し、貢物の価値を最大化して日本に唐の経典や文物を持ち帰り、文化格差を埋めた。
葛野麻呂は私費を補填し、道益と協力して現地調達(絹の売買で利益)を図り、空海・最澄。橘逸勢らの私費不足を朝廷の供与でカバーした。
貢物の運搬
貢物の運搬については、絹1000匹(1匹 ≒ 5kg、総重量5トン)、金100両(4kg)、銀500両(20kg)を馬車や船で運んだ。道中は警備が厳重で、荷駄の馬車は10~20台、武士100名以上が護衛。『続日本紀』に基づき、陸路では馬車列が長く、夜営時は金銀を厳重に隠した。
唐代の金融システム
使節団は、朝廷から多額の予算、金100両(2億円)、銀500両(500貫、1億円)、絹1000匹(1匹 ≒ 400文相当、総額40万文 ≒ 8千万円)を受け、貢物や旅費を賄った。、総額3億8千万円を持ち込んだ
しかし、大使や副使が公邸で金庫と警備員を備えて現金を管理できたのに対し、学問僧の空海、最澄、橘逸勢らが所持金を現物で持っていては、仮住まいでの現金管理に悩まされただろう。
唐代に現代の銀行のような預金システムは存在したのか? 両替商や飛銭(手形)の役割は? 彼らはどうやって金銭を管理し、滞在をやりくりしたのか? 『唐会要』『新唐書・食貨志』『入唐求法巡礼行記』『天台大師伝』などの史料を基に、唐の金融事情と遣唐使の金銭事情を調べた。
唐代(800年頃)の貨幣は主に銅銭(開元通宝、1文≒200円、1貫=1000文=20万円)で、重量は1文あたり約4g(『唐会要』)。高額取引では金(1両=40g≒10貫=200万円)や銀(1両=40g≒1貫=20万円)が使われたが、重い銅銭の運搬は不便だった。
そこで、商人や官吏は「飛銭」という手形制度を利用した。『新唐書・食貨志』によると、飛銭は長安や洛陽の両替商が発行し、銅銭や金銀を預けて手形を受け取り、別の都市で現金化できた。これは現代の銀行の預金や送金に似た初期の金融システムだが、個人預金のための銀行制度は存在せず、飛銭は主に商人や官府の高額取引に限られた。
両替商は、長安の東市や西市、平康坊近くの市場で活動し、ソグド人やペルシア商人が多くを占めた(『北里志』)。彼らは金銀や絹を預かり、飛銭を発行したが、割符(預金の証明書)は一般的でなく、信頼関係や口約束に基づく取引が多かった。
たとえば、東市の錦繍肆(絹織物店)では、絹1匹(400文=8万円)を飛銭で支払い、商人たちは手形を長安から揚州や洛陽に持ち込んで現金化した。しかし、個人、特に外国人である遣唐使の学問僧が飛銭を利用するには、両替商との交渉や手数料(通常10~20%)が必要で、気軽に預金できるシステムではなかった。現代の銀行のような中央管理や金庫預かりはなく、両替商は私的な信用取引に依存していた。
藤原葛野麻呂と石川道益の公邸での金銭管理
大使の藤原葛野麻呂(正三位)と副使の石川道益(従四位下)は、唐の朝廷から公邸を提供され、金銭管理に恵まれた環境にあった。
『日本後紀』によると、遣唐使は長安の鴻臚寺(外交用の宿舎、平康坊や東市に近い)に滞在し、木造の瓦葺き邸宅に住んだ。公邸には金庫(木製の箱、鉄の錠付き)があり、武士や唐の衛兵が警備した。
葛野麻呂は使節団の予算、金100両(2億円)、銀500両(500貫、1億円)、絹1000匹(1匹 ≒ 400文相当、総額40万文 ≒ 8千万円)管理し、貢物や外交費を現金や飛銭で支払った。道益は実務担当として、物資や経費の帳簿を管理し、両替商との交渉を担った。
彼らの高位ゆえ、唐の官僚との接待(10回の接待で金10~20両 = 300~600万円、絹20~50匹 = 150~400万円程度)も頻繁で、平康坊北曲の花月楼で高級歌妓(1~5貫 = 20~100万円)を招いた。
空海、最澄、橘逸勢の仮住まいでの金銭管理
対して、空海、最澄、橘逸勢は公邸ではなく、寺院や民間の仮住まいに滞在し、金銭管理に苦労しただろう。彼らが金50両、20両、10両を現金(金塊や延棒)で持ち歩くのは危険で、以下のように管理したと思われる。
◯ 空海:
私費の留学僧で、青龍寺で恵果和尚に師事。『入唐求法巡礼行記』によると、空海は20年の滞在義務を負ったが、2年で帰国を上奏し、資金不足が背景にあった。金20両は青龍寺の僧に預け、経典の写経(1巻50~100文=1~2万円)や寄付で補った。
両替商との取引は少なく、絹30匹を東市で売却(1匹400文=8万円)し、銅銭や食料に換えた。仮住まい(青龍寺近くの木造平屋、麻の幕で仕切られた部屋)では、金塊を土壁の隠し場所に保管し、盗難を防いだ。空海の瞑想と節約が資金の浪費を抑えたが、物価の高さ(胡饼1文=200円、葡萄酒50文=1万円)で厳しい生活だった。
◯ 最澄:
国費の請益僧として、天台山の国清寺に滞在。『天台大師伝』によると、最澄は国費で支給された金銀を寺院の僧侶に預け、経典の写経や食料(米1石400~600文=8~12万円)に充てた。寺院は安全な保管場所で、僧侶が金銀を管理したが、飛銭は使わず現物取引が主だった。
数年の滞在で金50両は不足し、唐の僧や地方官僚からの寄付(絹や米)で補った。たとえば、茶1杯10文(2000円)や羊肉羹30文(6000円)の物価を考えると、金50両は1~2年で尽きただろう。最澄は節約し、寺での自給自足(菜園や写経の報酬)でやりくりした。
◯ 橘逸勢:
私費の留学生で、詩書に優れるが、おっちょこちょいな性格。『橘逸勢伝』では、平康坊北曲の醉月楼や紅花楼で遊ぶ様子が描かれ、金子袋を落としたり、小蘭に盗まれたりした。逸勢は長安の民間宿舎(東市近く、土壁の簡素な部屋)に住み、持ち金を木箱に隠したが、盗難の危険から両替商を利用した可能性がある。
『新唐書・食貨志』を参考とすると、東市のソグド人両替商に持ち金を預け、飛銭で100文単位で引き出したかもしれない。ただし、手数料(10~20%)で損失が生じ、逸勢は空海から何貫もの金を借りたり、詩を売って50~100文(1~2万円)を稼いだ。絹20匹は一部売却(1匹400文=8万円)し、葡萄酒や羊肉羹の遊興費に充てたが、すぐに尽きただろう。
唐代に銀行のような預金システムはあったのか?
唐代に現代の銀行のような中央管理された預金システムは存在しなかった。飛銭は商人や官吏向けの手形で、長安・洛陽・揚州の両替商が発行したが、個人預金や割符(預金の証明書)は稀だった。『唐会要』によると、両替商は東市や西市の市場で金銀や絹を預かり、手数料を課して飛銭を発行したが、これは商業取引や官府の税金送金に特化していた。
たとえば、商人が1000文(20万円)の銅銭を預け、飛銭で洛陽に送金し、5~10%の手数料を支払った。空海や最澄が飛銭を利用するには、両替商との信頼関係が必要で、外国人である彼らにはハードルが高かった。
逸勢のような私費留学生は、両替商に少額を預けた可能性があるが、盗難リスクを避けるため、金塊や絹を宿舎に隠すか、寺院や知人に預けたかもしれない。
寺院(青龍寺、国清寺)は安全な保管場所として機能し、僧侶が金銀や絹を管理した。『入唐求法巡礼行記』では、空海が青龍寺で経典を借り、写経の報酬(銅銭や絹)を受け取った記述があり、寺院が一種の金融機関の役割を果たした。
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