第4章「正体の影」

その日から、美咲の世界は少しだけ違って見えるようになった。


教室の窓から差し込む朝の光。

机に並ぶ教科書。

友人たちの笑い声。


どれも昨日までと同じはずなのに、胸の奥に“もう一つの意識”が住み着いている。


(この中に、いるのかな……)


スマートフォンに届く、あのメールの差出人。

顔も知らない、声も知らない。

けれど、確かに自分のことを知っている誰か。


美咲は、教室をぐるりと見渡した。

誰もがいつも通りで、特別な様子はない。

それが逆に、不安を煽った。


「美咲、どうしたの? さっきからきょろきょろしてる」


佐々木未来が小声で囁く。

美咲は慌てて首を振った。


「な、なんでもないよ」


――嘘だった。

でも、正直に言うのは少し怖かった。


昼休み。

美咲は一人、廊下の端の窓際に立っていた。

校庭ではサッカー部がボールを蹴り合っている。

その中に、高橋颯の姿が見えた。


彼は、クラスでも目立つ存在だった。

明るくて、誰にでも気さくで。

時々、何気ない一言で人の心に入り込んでくる。


(まさか……)


そんな考えが浮かんだ瞬間、美咲は首を振った。

――考えすぎ。

根拠なんて、何もない。


けれど、その日の放課後。

颯が、珍しく美咲に声をかけてきた。


「桜井、今日の数学のプリント、ここ合ってた?」


唐突な問いかけ。

心臓が跳ねた。


「え、あ……うん、たぶん」


近い。

思っていたよりも近い距離。

颯の声が、耳のすぐそばで響く。


(……似てる)


メールの文面を思い出す。

丁寧で、少し柔らかい言葉遣い。

今、目の前にいる彼の話し方と、どこか重なった。


「ありがと。助かった」


颯はそう言って笑い、すぐに離れていった。

それだけのやりとりなのに、胸が落ち着かない。


その夜、美咲のスマートフォンにメールが届いた。



――見てたの?


息が詰まる。

胸の奥が、ひやりと冷えた。


(どうして、分かるの……?)


教室。

放課後。

校庭。


全部、学校の中だ。


美咲は布団の上で膝を抱えた。

これまで感じていた“優しさ”が、一瞬だけ別の顔を見せる。


怖い。

でも、それ以上に気になる。



思い切って、そう返信した。

送信ボタンを押したあと、指先が震える。


しばらくして、返事が来た。



たった一言。

それなのに、心のざわめきは消えなかった。


「……何となく、って」


その曖昧さが、余計に不安を掻き立てる。


翌日から、美咲は無意識に周囲を観察するようになった。

誰が、いつ、どこで、何を見ているのか。


友人の視線。

クラスメイトの何気ない一言。

廊下ですれ違う男子生徒。


――誰?


疑いと期待が、心の中で絡み合う。


それでも。

メールが届くと、胸が温かくなる。



その一文に、美咲は画面を見つめたまま動けなくなった。


(……見てる)


でも、嫌じゃなかった。

それが、自分でも怖かった。


正体が知りたい。

でも、知ってしまうのが怖い。


放課後の教室で、一人残った美咲は、窓に映る自分の顔を見つめた。

揺れる瞳。

不安と期待が入り混じった表情。


「……あなたは、誰なの?」


答えは、まだ届かない。

ただ、確実に言えることが一つだけあった。


――この恋は、もう後戻りできない。

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