第2話 トラウマは聖夜の鐘と共に
北関東の某所にあるアパートの一室に、乾いたフリック入力の音が響く。
サファイアの「物語を調理しろ」という言葉を受け、月影は憑りつかれたように執筆を続けていた。
画面の中の信長は、もはや天下布武など二の次で、ひたすらに卵料理の奥深さに悶絶していた。
『……違うね。まだ固い』
サファイアが、月影の肩越しに画面を覗き込み、冷徹に告げる。
『「美味かった」なんて言葉で済ませるんじゃないよ。読者が知りたいのは、舌触りだ。
卵液が舌の上でどう溶けたのか、出汁の香りがどう鼻腔を抜けたのか……。
アンタ、さっき自分で焼いた卵の味をもう忘れたのかい?』
「くっ、注文の多い猫め……!」
月影は額の汗を拭い、バックスペースキーを連打する。
料理人としての記憶を総動員し、文字という食材を文章という皿に盛り付けていく。
「……これなら、どうだ」
修正した一節を、月影は恐る恐る差し出した。
『……ふん。悪くないね。さっきまでは「コンビニのゆで卵」だったが、今は「老舗料亭の出汁巻き」くらいの
「よ、よし……!」
月影は小さくガッツポーズをした。
この黒猫の毒舌は腹が立つが、悔しいことに的確だ。
これならいける。大賞は無理でも、最終選考の末席、いや、せめて『奨励賞』くらいには引っかかるかもしれない。
◌mzonギフト券と、プロからの講評。
それさえ手に入れば、俺のささやかな作家人生は報われるんだ。
ふと、安堵の息を吐いた時だった。
窓の外で、ヒュウウウウ……と、風が奇妙な唸り声を上げた。
ビクッ!
月影の肩が大きく跳ねた。
彼は血相を変えて窓の方を振り返り、カーテンの隙間を凝視した。
『なんだい? 随分と臆病だねぇ。借金取りでも来るのかい?』
サファイアが呆れたようにあくびをする。
足元では、さくらが幸せそうに寝息を立てていた。
「……借金取りなら、土下座で済む」
月影は脂汗を滲ませながら、低い声で答えた。
「もっと恐ろしい……『鳥』がいるんだ」
『鳥?』
「ああ。カクヨムのマスコット、トリさんだ」
月影は身震いした。あのクリスマスの夜の記憶が、鮮明に蘇る。
「つい数日前、クリスマスの夜のことだ。俺が自分へのご褒美として用意していた半額セールのローストチキンを、あの鳥は強奪していったんだ。そして、代わりに置いていったのが……」
『置いていったのが?』
「塩鮭の切り身と、鮭フレークだ」
『……プッ』
サファイアが前足で口元を隠して吹き出した。
『なんだいそのコントみたいな話は !?
チキンの代わりにシャケ?
随分と義理堅い泥棒じゃないか』
「笑い事じゃない! あの鳥は、シャケを置いていっただけじゃない。俺に呪いのような言葉を残していったんだ。『来年の新作は、シャケを愛した武将の話にしろ』とな!」
月影は頭を抱えた。
あの日以来、スーパーの鮮魚コーナーで鮭の切り身を見るたびに、あの甲高い「……だホッ!」という幻聴に悩まされているのだ。
『なるほどねぇ。それで、アンタはビクビクしてるってわけかい』
サファイアはニヤニヤと笑いながら、月影のスマホ画面を尻尾で叩いた。
『でも、安心していいんじゃないかい? 今回のアンタの小説は、どこをどう切っても「卵」だ。シャケの入る余地なんて、卵の殻の隙間ほどもないよ』
「そ、そうだな……!」
月影は自分に言い聞かせるように頷いた。
「今回のお題は『卵』だ。鮭じゃない。魚介類ですらない。完全なる陸上の産物だ!
いくらあの鳥が無茶苦茶でも、卵焼きの話に『シャケを書け』とは言えまい!」
そう、論理的に考えれば、今回は安全圏なのだ。
月影は恐怖を振り払うように、再びスマホに向き直った。
「よし、ラストスパートだ。本能寺の変の夜、信長が最期に食べたかったのが、この『黄金の卵焼き』だった……というオチで締める!
これで奨励賞は俺のものだ!」
指先が軽やかに動く。
物語はクライマックスへ向かい、美しく収束しようとしていた。
平和だ。このまま書き上げれば、平穏な年末が……その時だった。
ガタガタガタガタッ!!
突然、閉め切ったはずのアルミサッシの窓が、暴力的なほど激しく振動した。
地震ではない。何かが、外から強引に部屋に入ろうとしている震動だ。
「な、なんだ!?」
月影が叫ぶと同時に、部屋の温度が急上昇した。
まるで真夏の日差しを至近距離で浴びせられたような、強烈な熱気。
そして、部屋の中にあの音が響き渡った。
ピロリン♪
Webサイトの更新通知音を、巨大スピーカーで流したような電子音。
月影の顔から血の気が引いた。
「ま、まさか……嘘だろ……? お題は『卵』だぞ!? シャケは関係ないはずだろ!?」
『……おい、月影』
それまで余裕を見せていたサファイアが、ガバッと起き上がり、耳を伏せて低い唸り声を上げた。
『窓から離れな……とんでもない「圧」が来るよ。これは、ただの鳥じゃない……!』
次の瞬間、空間そのものが、ゴムのようにぐにゃりと歪んだ。
物理法則を無視して、その何かは、閉ざされた窓をすり抜けて部屋の中へと侵入してくる。
鮮やかな
身体の大きさの割りに不釣り合いなほど小さなクチバシ。
そして、その両翼には――スーパーの袋にパンパンに詰め込まれた、赤黒い粒々の塊が抱えられていた。
月影は絶望的な悲鳴を上げた。奨励賞の夢が、遠のいていく音がした。
「……ト、トリさぁぁぁぁぁん!!!」
── 続く ──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます