第四章 「日の出と共に」その2
「——ツミキ! こっちだこっち!」
日が西の山の陰に差し掛かった頃、約束の川のそばでカイザーが叫んだ。
「危なかったな、もう少し遅かったら真っ暗で何も見えなくなるところだったぜ」
そう言うと、カイザーはツミキに人間サイズのリュックサックを預けてきた。中を覗くと、そこにはパンや干し肉、水などの食料が詰め込まれていた。
「明日の朝、神域の連中の注意は東の平原に集中するはずだ。俺たちはそこを狙って、西の山から脱出する。馬を一頭
そう言って、カイザーは川上の方へと歩き出した。
「あの、カイザー……」
「今晩は野宿だ。火を焚かなきゃならねぇが、連中に見つかるリスクがある……。だが、問題ない! 俺がさっき最適な場所を見つけたからな! ほら、こっちだ行くぞ‼︎」
「——カイザー! あのさっ‼︎」
放たれたツミキの叫びに、カイザーは振り返り鋭い目をこちらに向けてきた。
「……なんだよ」
「僕には、何ができるかな……?」
ツミキの言葉に、カイザーは顔をしかめ「ハァ」と息を吐いた。
「……何があった? 集会所で、何を見た?」
ツミキはカイザーに、集会所での出来事を洗いざらい話した。情報を得た方法から、ミゾレの立案した作戦の内容、それに対する人々の反応まで含め、全てを。
一通り話を聞き終わると、カイザーはどこか突き放したような視線をツミキに向け、それから口を開いた。
「あんたは、何がしたいんだ?」
一言目としては少々意外なその言葉に、ツミキは少し戸惑う。
「僕? 僕は……、ミゾレを笑顔にしたい」
「——無理だ、諦めな」
「え?」
再び背を向け歩き始めるカイザー。すかさず、ツミキはその正面に回り込む。
「ちょっと待ってよ! 無理ってどういうこと⁈ 僕は、真剣に——」
「——言った通りだ。あんたにできることなど何もない ……はっきり言ってやる。ツミキ、あんたじゃ彼女を笑顔にすることはできないよ。あんたがあの子に近づけば近づくほど、あの子は傷つくことになる。——それはあんたが、勇者ヒノデの姿をしているからだ」
「——っ〜!」
カイザーの言葉に、ツミキは走り出した。カイザーを置いて、川下の方へと——集落の方へと駆けだした。
「……バカが」
背を向けあったまま放たれたその言葉は、離れゆくツミキの耳へは届かなかった。
*
陽が沈んで数刻が経過した頃、ツミキは神域で一番大きな温泉施設にいた。
そこは、毎晩ミゾレが湯浴みをする場所。かつて、ツミキが苦労の果てに見つけ出した、ミゾレと二人きりで話ができる場所だった。
施設の近くの森に身を隠していたツミキは、ミゾレが施設に入ったタイミングで森を出た。
かつてと違い、施設の周辺は蚊の一匹も見逃さないほどの厳重な警備が敷かれ、侵入は困難に思われた。
しかしツミキは、わかっていた。警備が厳しいのは周辺だけ、施設の中には警備の人間は一人もいない——それが、ミゾレによって決められた入浴の際のルールだと。
だからツミキは、地に根を生やした。最初は一本の細い根を、次にそれを複数に、それから徐々に太い根を加え、人間大の木の肩幅と同じ直径を持つ太い一本の根を地面に伸ばした。それは地中を半円を描くように進み、施設内部の床を突き破る形で再び地上に出た。
「よし……!」
ツミキは根の先端をしっかり施設内部に固定すると、伸ばした根をゆっくりと縮め始めた。それによりツミキの身体は地中へと引き込まれ、根が作った細い地下通路を通過、そしてついに、施設の内部に侵入することに成功した。
「……後で説明しよう」
通路の真ん中に空いた大きな穴、根が食い込んだことで生まれた壁のヒビなどを見て、ツミキはつぶやいた。
しかしすぐに視線を切ると、記憶を頼りにミゾレがいる大浴場を目指した。
「……貴様、ここで何をしている?」
「っ‼︎」
更衣室に続く角を曲がった先に立っていたのは、左肩を三角巾で吊り、腰には短剣を差したハナコだった。
「ハ、ハナコ……。っ! 僕は、ミゾレと話に来たんだ!」
今さら逃げるわけにもいかないツミキは、ハナコの目を見て叫んだ。そんなツミキを、ハナコは笑うでも睨むでもなく、ただまっすぐに見つめ返していた。
数秒の沈黙の時を経て、ハナコがツミキの方へと近づいてくる。身構えるツミキ。そんなツミキの横を、ハナコは正面を向いたまま、なんでもない顔で通過した。
「……ミゾレ様は入浴中だ。その間、この扉の奥に進んでいい『人間』はいない。わかったら、とっとと帰れ」
そう言って、ハナコはツミキの来た角を曲がり、どこかへ立ち去った。
ツミキは最初、そんなハナコの背中を驚いた顔で追っていたが、やがて覚悟を決めると正面に向き直り、両手で軽く頬を叩いた。
「ハナコ……、ありがとう!」
そうして『木』は、扉の奥へと進んだ。
扉を開けると、白い湯気よりも先に、ひんやりとした夜風がツミキの身体を包んだ。
ツミキの探していた人物は、浴槽にはいなかった。
ミゾレは浴槽のそば、身体や髪を流す場所にある小さな椅子に腰掛け、何やら思い詰めたように一糸纏わぬ姿でうつむいていた。
ツミキはミゾレを驚かせないように、遠くから声をかけようと息を吸った。
「——なんであなたがここに?」
その瞬間、ミゾレがこちらを振り返るでもなくそう言った。
その顔に恥じらいや動揺は見られず、浮かんでいたわずかな驚きや疑問の表情も、数秒後には納得した表情に変わっていた。
「……なるほど、ハナコはあなたのことを知っていたのね。どうりで、あの時反応が大人しいと思った。ケガを負ってしまったとはいえ、誰よりもあなたの正体を疑っていた彼女にしては、おかしいと思ったんだ」
ミゾレはそう言って、ようやくツミキの方を見た。前回と違い、その身体にはタオルが巻かれている。かく言うツミキも、カイザーからのアドバイスを得て今回は腰にタオルを巻いていた。
交わる視線。声が届きやすくなるよう、ツミキは数歩だけ前に踏み込んだ。
「本当は、戦いたくないんじゃない……?」
「っ!」
ツミキの言葉に、ミゾレは息を呑んだ。平静を装いながらも、確かに動揺が現れたその手足が、ツミキの指摘が的を射ていることを示していた。
「……戦いたくない? 何を言っているの? 向こうからやってくるんだよ、黙って立ち尽くしていたいわけがない! 私は、戦うよ」
ハッキリとした意志の宿ったミゾレの声。けれどツミキは、それは真実ではないと感じた。
「でも昼間、集会所での君はなんだか戦いを避けているように見えた。ここの人たちに、戦ってほしくないみたいだった……!」
直後、ミゾレの顔がスッと冷たく鋭さを帯びる。
「聞いてたんだ……。盗み聞きなんて、最悪ね。思えば、あなたの行動はどれも最低なものばかりだった。今だってそう……。これ以上その姿で、私の大切な記憶を汚さないで!」
そう言って、ミゾレは座ったままツミキに背を向けた。
——私の大切な記憶を汚さないで!
その言葉に、ツミキは動けなくなってしまった。
ヒノデの姿をしたツミキが何をしても、ミゾレを傷つけることに繋がってしまう。ゆえに、ツミキにできることは何もない。それはまさに先ほどカイザーに言われたことで、ツミキにとっては受け入れ難く否定したい事実だった。
「う……、ミゾレ、それでも僕は——」
「出ていって」
「……でも」
「——出てってと言ってるでしょ‼︎」
ミゾレの怒鳴り声に、ツミキはついに視線を落とした。
「……ごめん」
それだけ言って、ツミキは踵を返した。なんの手がかりも得られないまま、むしろ、道などないことだけを明確にして、浴場をあとにしようとした。
——そんなツミキの背中を、背後からミゾレが抱きしめた。
「え……?」
状況が理解できず混乱するツミキ。今何が起こっているのか、彼女の行動の意図が全く理解できない。
「……何も言わないで」
背中越しに、ミゾレがそう呟いたのが聞こえてきた。何も理解できないツミキは、黙ってその言葉に従う。そうしていると、ミゾレは腕に込める力を次第に強め、額をツミキの背中に押し当てるように寄りかかってきた。
「なんでこうなっちゃうの……? ヒノデ……」
それは、消え入るような声。独り言のような——事実、ここにいる誰に対しても向けられていない言葉。ツミキが黙ってそれを受け入れていると、ミゾレの指がツミキの肌をギュッと掴んだ。
「……戦ってほしくない」
彼女の感情が、ツミキに流れ込んでくる。
「もう誰にも、いなくなってほしくない」
それはどこか、寂しさにも似た痛み。悲しみ、後悔、そして恐怖。
「……戦いたくない。人を、殺したくないよぉ」
震える声は、もうどこにも隠れられないむき出しの心。それは脆く儚く、触れ難い。
ツミキはそっとミゾレの手を握ると、振り返り彼女を抱きしめた。震え、涙を流す少女を、ぎゅっと抱きしめた。
「……逃げたらいい。逃げる、僕たちには、それができるんだから」
ツミキがささやくと、ミゾレはハッとしたように涙を止め、腕をほどいて押しのけるようにツミキから一歩距離をとった。
突然の行動に困惑し、何か間違えてしまったのではと不安になるツミキ。そんなツミキの前で、彼女はうつむいたまま、独り言のように呟いた。
「逃げる……。そうだ、あの時もそうだった。ハナコがやってきて、逃げてと叫んだ。でも本当は、ハナコに見つかったことを言い訳にして、私が私から逃げたんだ……」
ふいにツミキは、前回この場所で会った時のことを思い出した。あの時もミゾレは、背中から抱きついて、何か大切なことを口にしようとしていた。そしてそれを聞く前に、ツミキはハナコから逃れるためこの浴場を離れたのだ。
「……やっぱり、ヒノデじゃないね」
ミゾレが、フッと儚げに笑った。どこか
「逃げないよ……。私は守護者。この場所を守るために、最後まで戦う! 運命に、抗って見せる……‼︎」
そう言うと、ミゾレはツミキの横を通って建物の中へと去っていった。
一人きりになったツミキは、彼女に握りしめられた跡の残る肌を見て、それからスッとミゾレが去ったドアを見つめた。
「ミゾレ……。僕はこれ以上君に、悲しい顔をしてほしくないよ……」
ふいに視線の端の鏡が目にとまった。そこに映し出された、ヒノデの顔をした自分に目がとまった。
ツミキは腕から枝を伸ばすと、それをムチのようにしならせ、その鏡を叩き割った。
「……僕は、神域を守る。王都軍を追い返して、ミゾレが大切にしているこの場所を、僕の手で守ってみせる……‼︎」
直後、塀の向こうから足音が聞こえてきた。鏡が割れた音に反応して、周囲の護衛がミゾレの名を呼びその安否を確かめている。ミゾレの返事がなければ、数秒後には塀を超え乗り込んでくるだろう。
——ツミキは全身から、複数の太い根を伸ばした。そしてそれを地面に潜らせることなく押し当てると、屈伸の要領で根を勢いよく伸ばし、自身を暗い夜空へと跳ね上げた。
遠ざかる喧騒。月の見えない空に、蜜柑色のベールが揺らめいている。ミゾレが守りたいと願う神域も、この場所からは見渡すことができた。
覚悟を新たに神域東側へ着地したツミキは、空から見た情報を頼りに、もう一度東へ跳んだ。
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