第三章 「雄叫び」その2

 夜、ひんやりと冷たい風を頬に感じならがら、ツミキは空を見上げていた。月明かりのほとんどない空には、みかん色のベールが波のように煌めいている。

 それはなんだか、とても幻想的な光景だった。

「……ねぇカイザー」

「ん?」

「僕はミゾレのために、何をしてあげられるかな……?」

 温泉施設からの帰り道、道のそばに設置された木製もくせいのベンチに腰掛けたまま、ツミキは隣に座るカイザーに尋ねた。

 カイザーは、どこかで仕入れてきたらしいお酒の瓶を口元に当てると、それをクイっと傾けて、それからゆっくりと息を吐いた。

「……やめとけ。あんたに何かされても、あの子は喜んだりしないよ。……いや、あの子のためにならない、と言うべきか」

 予想だにしなかったカイザーの言葉に、ツミキは思わず視線を向けた。

 カイザーはどこか哀愁のあるその表情で、再びお酒を口にした。

「どういうこと……? じゃあ僕は、何をしたらいいの?」

「何もしない。俺は最初からそれが一番だと思ってる」

 わからない、と言った様子のツミキを見て、カイザーはゆっくりと続けた。

「……俺にも昔、恋人がいた。いつも無茶ばっかしてた俺をずっと支えてくれて、時には叱ってくれた。本当にいい女だった……。俺は、アイツが大好きだったんだ」

 空を見上げたカイザーの目元は、遠くの景色に笑っていた。愛おしく、懐かしい。そんないつかの風景に、一抹の寂しさを滲ませながら。

「俺がこの『呪い』を受けた時、その存在を知っている人間は周囲に一人もいなかった。誰一人、俺の身に何が起きたのか分からなかった。もちろん、俺も含めてな……。皆、俺が魔獣になっちまったと思ったんだ。そう理解した方が、奴らには都合がよかったんだろうな」

 手元に視線を落としたカイザーは嘲るように笑い、それから、寂しそうに笑った。

「……けど、彼女だけは違ったんだ。彼女は俺を信じてくれた。たとえ自分も後ろ指を差されることになったとしても、最後まで俺と一緒にいてくれようとした。……俺には、それが苦しかった」

 カイザーの言葉に、ツミキは首を傾げた。

「……苦しかった? どういうこと?」

「そんなこと聞くなよ……。あの頃の俺は、自信がなかったんだよ。『呪い』というものを知らなかったし、自分が本当に魔獣になってしまったんじゃないかとも思っていた。自分はいつか彼女を傷つけてしまうかもしれないと思って……、いや違うな。いつか彼女まで、自分のもとから離れてしまうんじゃないかと思っちまった。それがどうしようもなく恐ろしかったんだ。——だから、俺は彼女に別れを告げた」

「…………」

「今はどこにいるのかさえわからねぇ。……だけどそれでいいんだ。あいつとの思い出は、ここんところにあればいい。あいつと過ごした場所は、それと同じくらい大切なんだ。今さら汚させるわけにはいかねえよ。他人にも……、自分にもな」

 カイザーはそう言って胸を二、三度拳で叩くと、残ったお酒を一気に口の中へ流し込んだ。

「……でも僕は、ミゾレに喜んで欲しい!」

(ミゾレだけじゃない。あの子達全員に……)

 ツミキの言葉にカイザーは少し驚いた顔をこちらに向け、それから、どこか試すようにニッと笑って見せた。

「じゃ、探すんだな。あんたがあんたのままで、あの子を幸せにする方法を。……幸い、今のあの子はあんたがそばにいてくれるだけで嬉しいみたいだしな」

 そう言うと、カイザーは立ち上がり宿の方へ向かって歩き出した。

「……うん。やってみるよ!」

 ツミキは立ち上がり、カイザーを追い抜くように走り出した。


     *


 翌日、ツミキはミゾレのそばで一日を過ごした。療養施設で身体を休める彼女のことを、そばで支え続けた。

 その翌日は、早々に活動を再開した彼女について神域を回った。

 それらの時間の中で、ツミキはヒノデとして振る舞いながら、どうすればミゾレを心から喜ばせられるのか——その方法をずっと模索していた。


 次の日、一人で考えてみようと思い立ったツミキは、ミゾレが迎えにくる時間よりも早く宿を出て、一人で神域を散歩していた。

 お昼前になり、そろそろミゾレを探そうと集会所へ向かう途中、突然警鐘の音が神域中に響き渡った。それは、いつもの魔獣の接近を知らせる音とは少し違った。

「魔獣が出たの? どこ?」

「ヒノデ様! ああ良かった、探してたんですよ! それが、魔獣じゃないんです……。東の平原に、王都の軍勢が現れたんです。それも、女王を連れて」

 王都、女王。その言葉を聞いて、ツミキはすぐに踵を返し走り出した。

「ミゾレ様はすでに現場に向かいました! ヒノデ様も、急いで向かってあげてください!」

 男の叫び声を背に、ツミキは神域の東側——王都がある方角の平原へ向かった。


 木々の生い茂る坂道を下っていくと、鎧をまとった男達の隊列が見えてきた。

 ゆうに二百はいるであろう武装した男達。その多くは馬に跨っている。そんな彼ら後方に、何やら巨大な黒いおりが見えた。全部で四つだろうか。数台の馬で引いてきたのが見て取れる車輪付きのその檻の中には、獰猛どうもうに吠える四種の魔獣が閉じ込められていた。

 王都軍の向かいには、鎧こそまとっていないが同じく武装した神域の男達が三十人ほど立っており、その先頭にはミゾレが立っていた。

「ミゾレ——っ」

「バカ! 隠れろ!」

 飛び出そうとするツミキの前に、足元からカイザーが現れ、転ばせるような形で木を近くの茂みに隠した。

「カイザー! どういうこと? なんで隠れるの?」

「バカか! あれを見ろ! 信じられねぇが、今ここには女王が来てるんだよ!」

 カイザーが指差した方向、王都軍の先頭であるその位置には、赤いドレスをまとった女性——かつて王宮で木と面会した、女王ハリマが立っていた。

「あんたは王宮で、女王に謎の力を見られてるだろ? もしここで飛び出して、そのことをミゾレ・シオンの前で言われてみろ。一巻の終わりだ!」

 カイザーの言葉で、ツミキは自分が王宮を逃げ出してきたことを改めて思い出す。

「でもカイザー、僕が何もしなくても、あの人は言っちゃうかもしれない! そうしたら——」

「そうなったらその時だ。……証拠がなければミゾレ・シオンも簡単に女王の言葉を信じたりはしないだろう。幸いにも、あの二人は今、仲良しってわけじゃなさそうだからな」

 カイザーに釣られるように、ツミキは両軍の先頭で顔をあわせるミゾレと女王に目をやった。


「——正直驚いたわ。あなたからこのお手紙が届いた時には。それで、わざわざこんな場所まで呼び出して、一体何のお話かしら?」

 数百の兵を背に、女王が口を開いた。その長く伸びた髪は、ヒノデのそれによく似た栗色をしていた。

「……単刀直入に言う。私は、あなたと交渉がしたい!」

 ミゾレの言葉に、女王はもちろん、ミゾレの周囲にいる神域の男達も驚いた顔を見せた。

 真意を確かめるような目を向けてくる女王に、ミゾレは視線を逸らすことなく続けた。

「落ち着いて聞いてほしい。女王ハリマ、実は先日、この神域にヒノデが帰ってきたの」

 その言葉を聞いて、女王の空気が明らかに変わるのがわかった。急激に高まる緊張感に、少人数である神域の男たちの肩に力が入る。

「信じられないのはわかる、でも本当なの! もうすぐ、私の仲間が彼を探して連れてきてくれる」

 ミゾレの言葉に、ツミキは先ほど塔の下で会った男の態度を思い出した。

 女王は何も言わない。その居住まいから、彼女が抱いている感情を読み取ることは難しい。

 ミゾレは構わず、話を前に進めた。

「実はヒノデは、記憶をなくしているの……。……私が神域を守るのは、ヒノデが私にそれを託したから。だから私は、あなた達にこの神域を破壊させるわけにはいかない! でも、ヒノデの記憶が戻ったら? ヒノデなら、神域のクリスタルを破壊する以外の道を示してくれるかもしれない。あなた達の計画だって、ヒノデが帰ってきたら全て変わるでしょ? ——だから、協力してほしいの。ヒノデが記憶を取り戻せるように、全員で協力したい。争いはやめて、協力し合いたいの」

「ミゾレ様……」

 ミゾレの力強い言葉に、おそらく話の内容を知っていたであろう神域の男達も言葉を漏らした。そこに宿った確かな熱は、前に並び立つ王都の兵士たちの心も、少なからず動かしたように思えた。

「……フ。フフ、フハハ! アーッハッハ!」

 突然笑い出した女王に、ミゾレは少し顔にイラつきを見せた。

「……何がおかしい?」

 女王は笑い続け、それから涙を拭うようにして、嘲るような目でミゾレを見た。

「そう……、あなたは知らないのね」

 その言葉で、ミゾレのすぐそばに立っていたハナコが険しい表情をするのがわかった。何もわからないミゾレの横で、ハナコは何かを察したように唇をグッと噛み締めていた。

「ミゾレ・シオン、よく聞きなさい……。その男はヒノデではない! したがって、私はその申し出には応えられない! 私の目的は、あの子が作った新しいこの世界で、あの子が守ったこの国を繁栄と平和で満たされる場所にすること。勇者を必要としない世界を作ること!」

 両腕を広げ、女王が言う。その背後では、王都の兵隊達が歓喜の声を上げていた。

「……あの子は死んだの。決して帰ってこない。私は、あの子を一人で行かせ見殺しにした、あなた達『シオン』を許していない。——さらにあなたは、ヒノデを名乗るあんな卑劣で不快な存在に踊らされてしまう、その程度の統治者だった。そんな人間の言動を、これ以上放置しておく道理はないわ」

 どこか和やかだった女王の目つきが、この瞬間ハッキリと鋭いものへと変わった。

 それは、一国の主を務める女王ハリマの、統治者としての格の違いを見せつけるのに十分なものだった。

「っ、信じられないのはわかる! けど本当に——」

「——残念ですがミゾレ様、本当にその男は勇者ヒノデではないのです。我々は王宮で、その者に会っている。だからわかるのです」

 ふいに、女王の背後から一人の男が現れた。えんじ色の短髪をオールバックにした長身の男性。その顔には、目と鼻を覆い隠すような黒色の仮面をつけている。

「あなたは……?」

「王宮で女王ハリマの補佐をしております、大臣のロウリュウと申します」

「——っ! あなたが、神域の地下に資源があるなんていうデタラメな噂を流した男!」

 仮面の男の登場に、ツミキも思わず息を呑んだ。ツミキがこの男と出会ったのは、王宮で女王と面会した時。どこか危険な雰囲気を放つこの男を、ツミキは討伐しようとしたのだ。

 ——結果として、腕が切り落とされる事故が発生し、ツミキは正体を見られることになった。

「人聞きの悪いことを言わないでいただきたい。仮にも一国を動かせるほどの情報ですよ? あなたが思っているような、適当な話ではない。これは本当に、この国のためなのです」

 笑みを浮かべるような穏やかなトーンで、仮面の男は言った。その言葉に、ミゾレは強い拒否感を示す。

「……あなたの話には、信用できるだけの情報が全くない! そんなに言うなら、まず私達が納得するだけの説明をしてみせなさい!」

「いいえ、その必要はありません。そもそも我々は、あなたと話すためにここに来たわけではないのです」

 調子を全く変えることなく、にこやかな笑みと共に仮面の男が言った。その言葉の意味するところを想像した神域の男達が、戦闘に備えて密かに身構える。

「我々の目的は、神域を開拓しエネルギー資源を得ること。そのために、神域を一度破壊する必要がある。そして、神域を破壊する方法はクリスタルを破壊することだけじゃない。……私の言っている意味が、お分かりですか?」

「? 何を言っているの? クリスタルがある限り、神域は崩壊しない。そして、そのクリスタルを破壊することなどできはしない! なぜなら、私が——」

「——そう、あなたです。あなたを殺せば、神域は崩壊する」

 その瞬間、仮面の男の口元が不敵に歪んだ。

「危ない! ミゾレ様!」

 ハナコが危険に気づくのとほぼ同時に、三本の矢がミゾレに向かって放たれた。それは刹那の時を経てミゾレのそばに到達し——、ミゾレをかばうように立ち塞がった神域の男の身体を、その心臓を貫いた。

「え……?」

 倒れていく男を、どこか信じられないという目で見つめるミゾレ。そんなミゾレに、次の矢が放たれる。第二の矢はハナコによって受け止められ、その肩を傷つけた。

 ミゾレは恐る恐る、倒れた男を抱え上げた。

 男はミゾレの呼びかけに応えることはなく、流れ出すその鮮血が、彼女の手を真っ赤に染めた。

「あ……、あぁ……」

「ミゾレっ‼︎」

 完全にパニック状態に陥ってしまったミゾレを見て、ツミキはたまらず飛び出した。

 突然現れた勇者ヒノデの姿をした者の存在に、王都の兵士たちが動揺するのがわかった。

「出たな……!」

 仮面の男が、そう呟き剣を抜いた。その刃が向かう先は、放心状態でへたり込むミゾレ。

 ミゾレの元へ走るツミキ。振り下ろされる凶刃。

 ——そして、ツミキの腕が落ちた。

「っ、ヒノデ……⁈」

 ツミキの背後で、ミゾレが叫んだ。立て続けに色々なことが起きて、感情が追いついていない。けれど、彼女は確かにツミキの負傷に動揺を見せた。

「ふは! ふははは! 学ばないな貴様は!」

 嗜虐的に笑う仮面の男。その合図を受けて、背後に立っていた二百人以上の兵士たちが一斉に臨戦態勢に入った。

 迫る男達、飛来する矢。

 ——ツミキは自身の身体から、数多の木の枝を展開した。それら雨だれを防ぐように、ミゾレ達を王都軍の攻撃から守り、彼らをしりぞけた。

「見なさい……。これがその男の正体。そいつがヒノデではない、確固たる証拠よ」

 目の前に広がった歪なバリケードを見て、女王が言った。背後でミゾレが息を呑み、カイザーとハナコが口を強くつぐんでいるのがわかった。

 ツミキが振り返ると、ミゾレはその瞳を震わせたまま、うすら笑いと共に口を開いた。

「……違うよね? これは、呪いだよね? ヒノデはあの戦いで呪いを受けて、それで、こんな風になっちゃったんだよね……?」

「ミゾレ……」

 懇願するように、そう這い寄ってくるミゾレ。痛みに歪むその顔を、ツミキはそれ以上見ていられなかった。——だから、ツミキは顔を逸らしてしまった。

「……嘘を、ついていたの?」

 ミゾレの声から、笑顔が消えていく。

「あなたは、ヒノデじゃないの……?」

「……ごめんなさい」

 すがりつくようなミゾレの声に、けれどツミキはそう答えていた。

 ——もう誤魔化しても、しょうがないところまで来てしまった。

 ツミキが謝ると、ミゾレは目を見開いてゆっくりと立ち上がった。

「っ! なんで……、なんで私の前に現れたの⁈ なんで私に優しくしたの⁈」

 悲痛をの叫び声と共に、ミゾレの拳がツミキの胸に叩きつけられる。見上げられ向けられたその目には、強い怒りと憎しみが宿っていて、言うまでもなくそれはツミキが初めて見る彼女の表情だった。

「あなたさえ! あなたさえ現れなければ、私はこんなに傷つかなかった! あなたさえいなければ、私はこんなに苦しくならなかった! あなたさえいなければ、私が淡い期待を抱くこともなかった! 私は今までの私であれた! あなたのいない世界を、これまで通り歩けた! 叶わなかった未来を、望むこともなかった! あなたがいなければ‼︎ あなたが——」

 ミゾレの身体が、膝から崩れ落ちた。

 先ほどの位置に留まった彼女の手が、ギュッとツミキの胸元の服を握り込む。

 そうして彼女は、ツミキの足元に大粒の涙を落とした。

「……あなたがいなければ、私はこんなに……、愚かにならずに済んだのに……」

 そう言って、彼女は泣いた。地面にうずくまり、ぐちゃぐちゃに泣いた。

 そこに宿った痛みを、ツミキは言葉で推し量ることができなかった。

「ミゾレ様を殺させやしねぇ‼︎」

「俺たちの守護者を、俺たちの手で守るんだ‼︎」

 そんなミゾレの周囲を、神域の男達が囲んだ。

 怒りに吠える男達。そして、今なお木のバリケードを展開し続けるツミキを見て、女王ハリマは毅然とした態度で口を開いた。

「女王、リン・ハリマの名において宣言します! 明日の朝までに、神域、もしくは守護者ミゾレ・ハリマを引き渡しなさい。その要求が受け入れられない場合は……、実力行使にて目標を達成します。神域に滞在する人々の安全は考慮しません」

 雄叫びを上げる王都軍。反発するように吠える神域の男達。

「なんで、こんなことに……」

 崩れゆく日々を前に、ツミキは小さくそう呟いた。

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