第三章 「雄叫び」その1
神域に着いて三日目の朝。浴場での会話によってヒノデのふりをする決意を新たにし、山の中でハナコに木の力を見られてしまった、その翌日。
あの後、こちらにナイフを向けるハナコを前に、ツミキは全速力で逃げ出した。無論、これまで通りならすぐに引き離すことなどできなかっただろう。身体から伸びた木の枝や根が、それを可能にした。ツミキはそれらを自分の意思でコントロールする術を知った。
ツミキとハナコとの距離はぐんぐん離れ、このまま逃げ切れる——と思った瞬間だった。ツミキは急激な
——目覚めると、昨日と同じ宿にいた。
すでに陽はのぼり、清潔な服と柔らかいベッドが身体を包んでいる。隣を見ると、ベッドのそばに置かれたテーブルの上で、リスのカイザーが腕立て伏せをしていた。
「おっ、やっと起きたか。驚いたぜ、あんたが神域のマッチョに運ばれてきたときにはよ。昨日はうまくいったか?」
何やら奇妙なことが起きている——そう感じつつ、ツミキは昨日あったことを話した。
「——正体がバレた⁈ おいおいおい! マジかよ!」
そう言うや否や、カイザーは荷物の整理を始める。
「おいツミキ、これ持ってくれ。逃げるぞ!」
「でもカイザー、変なんだ。なんで僕は、追い出されてないのかな」
「そりゃ確かに妙だ! けど、今それは重要じゃない! ともかく今は、守護者やあのメイド野郎に見つからないようにここを——」
——ガチャ
「え? あっ!」
「あっ……」
「ちょ、ちょうど良かった! 今朝はまだ姿を見かけてなかったから、心配になってね? それで……」
ドアを開けた瞬間、一番最初に目に飛び込んできたのは空でも山でも他の建物でもなく、どこか照れた様子のミゾレだった。昨日と違い、その身体には平原で出会った時と同じ白銀の軽鎧と純白のマントをまとい、腰には白い鞘の長剣をさしている。
「だから言ったでしょう。ただの寝坊だろう、と」
驚くべきことに、その背後にはいつも通りの格好をしたハナコ・シマダまで立っていた。
「それはそうかもしれないけど……、万が一ってことがあるでしょ。ヒノデ、昨日は大丈夫だった? 山道で頭を打ったって聞いて、本当は私の宿で意識が戻るのを見届けたかったんだけど、ハナコが絶対に大丈夫だって言うから……」
そう言って心配そうにこちらを見上げるミゾレ。隠してはいるものの、その目には確かな不安が感じ取れた。
「……大丈夫だよ。身体の方は、なんともない」
状況がよく分からないままのツミキは、ひとまずそう答えた。そんなツミキの言葉に、ミゾレは心底安堵したように息を吐き、顔面の緊張を解いた。そして、そのままゆっくりとツミキの胸に自身の両手とおでこを触れさせた。
「良かった……。またヒノデがいなくなっちゃうんじゃないかって思って、不安で……」
どうしたらいいのか分からず固まるツミキ。ふとハナコの方を見ると、彼女はどこか悲しそうな面持ちでミゾレのことを見ていた。
「ま、頭打って記憶まで戻ってくれりゃ言うことなかったんだがな! あっははは!」
カイザーが大きな声でそう言って笑い、ミゾレもキョトンとした後でクスリと笑った。
——カンカンカンカンッ‼︎
「
昨日と同じように、魔獣の接近を知らせる鐘が鳴り、ミゾレはあっという間に塔の方へと駆けて行った。
「え、それってどういう——」
「——ミゾレ様は、今日はどうしても外せない予定があるんだ」
その場に残っていたハナコが、そう補足してくれた。
ミゾレがこの場から去り、必然的に緊張感が高まる。警戒するツミキ。疑問も多い。
一つ分かったのは、ハナコは昨日、ミゾレにツミキの正体を明かさなかったということ。ハナコは昨日、自身が見たものについて話さず嘘をついた。結果として、ツミキは今日もミゾレとこれまで通り接することができた。
しかし、理由が分からない。あれだけツミキを警戒し、その正体を見たときにはあれだけ敵意を向けていたハナコが、なぜそんなことをするのか? ツミキにはさっぱり分からなかった。
「どうして——」
「——ミゾレ様は、お前が来てからずっと、楽しそうなんだ」
被せるように、あるいはただ呟いただけというように、ハナコが言った。その目はツミキではなくミゾレが去っていった方へ向けられ、そこに宿った感情は、何というかとても読み取りづらいものだった。けれどそこに現れたわずかな憐憫は、彼女がいかにミゾレを慕っているのかを示しているような気がして、ツミキはなんだか暖かい気持ちになった。
そんな風にしていると、ハナコはパッとこちらを振り返り、ツミキの目をまっすぐ見て言った。
「……勘違いするなよ? お前がミゾレ様に危害を加える存在と判断したら、その時は必ずお前を始末する。たとえ、ミゾレ様に恨まれることになろうともな……。あの方をお守りすることが、私の使命なのだから」
そう言って、ハナコはミゾレのあとを追うように去っていった。
「アイツ、案外悪いやつじゃないのかもな……」
足元でつぶやくカイザーの言葉に、ツミキは小さくうなずいた。
ミゾレ、ハナコとの会話を終え宿を出たツミキは、あの火口を目指して走っていた。
ツミキには、一つの懸念があった。それは、あのクリスタルだった。今回はたまたま乗り切ることができたが、やはり木の力を見られてしまうことは絶対に避けなければならない。そのために、あのクリスタルの謎を解き明かしておく必要があった。火口の中で木の根が生えた理由、それがあのクリスタルにあると、ツミキは考えていたのだ。
「でもよツミキ、行き方は覚えてるのか? あの洞窟、結構複雑だったぜ? それに、警備だっているはずだ」
肩に乗っているカイザーがそう忠告してくる。
「? どういう意味? 迷うような場所じゃないよ。それに、見たところ誰もいない」
ツミキは、行手に広がる森が消えた地平を見つめた。当然、その先にあるのは火口、あの空間に繋がる深い穴だ。
「おいおいおい……、ウソだろっ⁈」
「ほっ!」
叫ぶカイザーを無視して、ツミキはその穴の中へ飛び降りた。
「うぎゃあぁぁぁ‼︎」
——ザザ、ザザガリガリガリ……、ズサァ……。
ツミキは背中から木の根を伸ばし、それを自分の身体で隠すようにしながら落下の勢いを軽減する。そうして、なんとか無事に火口の底までたどり着いた。
「ハァ、ハァ、バカ‼︎ 殺す気か‼︎」
「お城から抜け出した時も、似たような感じだった。だから大丈夫だと思った」
叫ぶカイザーに、ツミキは平然と答える。もちろん、どちらも身体に大きなダメージはなく、せいぜいが擦り傷程度ですんでいた。
「それより……」
ツミキの視線は、自然と目の前の赤い半透明のクリスタルに向けられた。同じようにして、カイザーの視線もそちらに吸い寄せられる。
——半球状のドームの中で、大きな亀が戦っていた。
その黒い甲羅はヒビの部分が紅に染まり、その口からは炎を吐いている。
その巨体は、己の周囲を機敏に走り回る亜麻色の髪の少女を追って動き回っていた。
「ミゾレ⁈ これって……」
炎がミゾレを掠め、その服の一部に火が移る。ミゾレはそれを叩き消し、両手で持った長い剣で亀に切り掛かった。
そんな様子を見たツミキが、慌ててクリスタルに駆け寄る。しかしその瞬間、またもやツミキの身体からは木の根が生えてきてしまい、ツミキは歩みを止めた。
昨晩得た、コントロールする感覚。それを使い乗り越えようとするが、うまくいかない。
「ミゾレ……、何してるの⁈ あぶないよ!」
ツミキは視線がこちらに向くリスクも構わず、そう大声で叫んだ。
「——これも、守護者としてのお役目。ミゾレ様は今、神獣を鎮めているんだ」
隣から聞こえてきた声に、根が伸びたままのツミキは警戒心を高める。しかし、そこにいたのがハナコだと分かると、ツミキは胸を撫で下ろし彼女の言葉を咀嚼した。
「お役目? 鎮めている、って何?」
「神域の核は、外側からだけでなく、内側からも守らなくてはならないんだ」
ハナコはそう言って、視線でツミキにクリスタルの中を見るよう促した。
「あのクリスタルは神獣をこの地に留める封印。神獣は力がたまると、ああして封印を破ろうと暴れ始める。それを阻害し、神獣の蓄えたエネルギーが使い切らせる、今ミゾレ様がやっているのはそういう儀式だ」
そこまで言って、ハナコはツミキの身体から伸びた根に目をやった。ツミキはハッとしたようにクリスタルから距離をとり、それを隠した。
「そんな……。じゃあミゾレは、ここであんな危険なことを続けているの?」
「そうだ」
「たった一人で? なんで誰も、ミゾレと一緒に戦ってあげないの⁈」
「——私だって戦えるなら戦いたいさ!」
ハナコの叫びは、戦闘音の合間を縫ってこの空間に響き渡った。
「……あの役割は、ミゾレ様にしかできないんだ。あのクリスタルの中に入れるのは、勇者の力を持った人間だけ。勇者様がいなくなってしまった今、この神域を守れるのは同じ勇者の力を持つ、ミゾレ様だけなんだ……」
ハナコはそう言って、拳を固く握りしめた。
神域におけるミゾレの特別性は、外側からの攻撃に対するものだけではなかったらしい。むしろ、本当に彼女にしかできないのは……。
「……神域って、守らなくちゃいけないものなの?」
ツミキは、徐々に身体に傷を負っていくミゾレを見ながらそう呟いた。
「……皮肉だな。神域を守らなくてはならない、その本当の理由を知っているのは勇者ヒノデだけだ。ミゾレ様は、そんなヒノデ様の最後の命令を愚直に果たそうとしているのだよ」
ハナコはそう言って、スッと眼差しを鋭くした。それは、勇者ヒノデの姿をしたツミキに向けられた——ツミキが勇者ヒノデではないと知っているハナコだけが発することのできる言葉だった。
「……なぜ神域を守らなくてはならないのか、それは私には分からない。核の存在を知らない王都の人々にしてみたら、神域などパワースポットを売りにしているだけの辺境の地に過ぎないだろう。——けれど私たちにとっては、生まれ育った故郷であり、今も愛する人々が生活を営んでいる大切な場所だ。それだけで私には十分、守るに値する。だから私は、私の全てをかけて守護者であるミゾレ様にお仕えしている」
熱を帯びるハナコの声。ツミキはしばらく、その横顔を見つめていた。
——それから戦闘が終わるまでの間、ツミキは黙ってミゾレの戦いを見届けていた。
「ミゾレ様っ‼︎」
亀が甲羅の中に姿を隠し戦闘が終了したタイミングで、ミゾレがボロボロになった身体でクリスタルから出てきた。そんなミゾレにハナコが駆け寄る。
「ハナコ、それに、ヒノデも……。来てたんだね……。神域を巡ってて、って、言ったんだけどな……」
ハナコの肩に掴まったまま、ミゾレはそう呟いて笑った。
「——っ!」
その直後、ミゾレが顔をしかめ、痛みを堪えるようによろめく。
「ミゾレ様⁈ 今、療養室へお運びします! おい! 担架の用意を!」
ハナコの合図で、洞窟の方から神域の男たちが姿を現す。
ミゾレは男たちが用意した担架に乗せられると、そのまま気絶するように眠った。
「ハナコ、僕もついていきたい。ミゾレのそばに、居たいんだ!」
洞窟から外へと運ばれていくミゾレを見て、ツミキは言った。
ハナコは最初渋い顔をしたが、ツミキの目を見て、「わかった」と同行を許可してくれた。
たどり着いたのは火口の近くに設置された建物。森の中にはそぐわない立派な作りをした一軒だけのその建物は、神獣との戦いを終えた勇者のための療養施設だったという。
ミゾレはその建物で治療を受け、静かで落ち着く雰囲気のある一室の、ベッドの上に寝かされた。その間、ミゾレはずっと眠ったままだった。
ツミキがやってきたのを見て、神域の人々は部屋をミゾレとツミキの二人きりにしてくれた。ハナコは建物の外に残り、カイザーは散歩といってどこかへ去っていった。
ツミキはベッドの横に椅子を置いて、そこでミゾレが目覚めるのを待っていた。
太陽が一番高いところまでのぼり、やがて西へ向かい始めた頃、ミゾレは目を覚ました。
「……ヒノデ?」
「ミゾレ! 大丈夫? 痛くない? 今、誰かを呼んでくるね」
そう言って立ち上がったツミキの服の裾を、ミゾレの手が掴んだ。
「……呼ばなくていい。代わりに、もう少しここにいて……?」
ベッドに横になったまま、そう口にするミゾレ。先ほどの戦いで疲弊し、今もなお弱った様子の彼女の言葉に、ツミキは従う以外なかった。
木が再び椅子に座ると、ミゾレはツミキの反対側にある窓に顔を向け、空を見た。
「……私、どれくらい寝てた?」
「え? ……どれくらいだろ。でも、そこまで長い時間じゃないよ」
「……そっか」
しばらく沈黙が訪れる。
それを破ったのは、彼女のお腹から聞こえてきた「キュルルルル……」という音だった。
「っ! 恥ずかしい……」
「ミゾレ、お腹すいたの? ひょっとして、お昼まだ食べてないんじゃない?」
「……うん。実はまだなの。さっきから美味しそうな匂い流れてきてて、つい……」
ミゾレはそう言って、部屋の隅に置かれたテーブル、その上に置かれた鍋に目をやった。
「ああ、あれはハナコ達が置いていったんだ。ミゾレが起きた時のためのご飯だ、って」
確か、ミネストローネという名前のスープだと言っていた。
ツミキは立ち上がり、スープをお皿に盛り付けてミゾレに差し出した。
「はい、どうぞ」
ミゾレは身体を起こしスープを受け取ろうと手を伸ばした。——が、なぜかそれを途中で止めると、一瞬考えるようにうつむいた後で、ツミキの瞳を覗き込んできた。
「手が万全じゃないから、うまく食べられないの。だから……、ヒノデが食べさせて?」
「え?」
「ダメ、かな……?」
どこか甘えるようにそう首をかしげるミゾレ。
ツミキは「わかった」とうなずき、スプーンを持ちスープをミゾレの口元に運んだ。
「んっ……。……おいしい」
美味しそうに微笑むミゾレ。なんだか嬉しくなったツミキは、続けて二口目をミゾレに届ける。ミゾレはそれも、笑顔で食べる。
そんなやりとりを、二人はスープがお皿から無くなるまで続けた。
「ありがとう、ヒノデ。すごくおいしかった……」
お皿を片付けるツミキの背後で、再び横になったミゾレがそう呟いた。
「作ったのは僕じゃないよ」
「わかってる……。だけど、おいしかったの」
よくわからず首をかしげる木。お皿を片付け、再びベッドの横の椅子に腰を下ろした。
再び、沈黙が室内に訪れた。
「……ねぇ、手を、握ってくれない?」
唐突に、ミゾレがそんなことを口にした。その顔はツミキとは反対の窓の方へと向けられ、こちらからは表情が見えない。控えめに布団から差し出された左手だけが、その想いをツミキに伝えていた。
「わかった」
ツミキはそっと、両手でその手を取った。彼女の手は、やっぱり温かかった。
「……へへ」
最初は緊張しているような反応を示したミゾレだったが、やがて落ち着いたのか、ふとそんな声を漏らした。
二人は黙ったまま、しばらく互いの手の温度を感じていた。
「……もう、いいのかな?」
ふいに、ミゾレが口を開いた。言葉の意味がよくわからず、ツミキはミゾレに聞き返す。
「いいって、何が……?」
「……あなたは戻ってきてくれた。だから……、もうこの役割をやめても、いいのかな……」
ミゾレは遠くの空を見つめ、小さな声でそう言った。
ツミキが目を丸くしていると、ミゾレは顔をこちらに向けた。
「ねぇヒノデ。もし私が……、守護者をやめて二人で過ごしたい、って言ったら……、なんて答えてくれる?」
弱ったその姿で、ミゾレはそう口にした。瞳には真剣な想いの強さを宿し、そのまた一方では確かな迷いの色を浮かべた顔で、ミゾレはそうツミキに尋ねた。
「それは……」
その言葉に、ツミキはうまく答えられなかった。
ツミキは、ミゾレの笑顔を取り戻したかった。そのために、ヒノデのふりをして彼女に近づいた。ツミキがヒノデになりきれば、ミゾレは笑顔になるはずだ——そう確信していた。本人にも確認したのだから、それは間違いはずだった。
——けれど今、ツミキは再び疑問を抱いてしまった。本当にこの先に、彼女を笑顔にできる道があるのだろうか。
——否。ツミキが感じたのは、もっと単純で、根本的な問題。
すなわち、ツミキには勇者ヒノデの返答などわからなかった。彼女のこの真剣な、ともすればあまりに危ういこの瞳に、正しい返答をすることなどツミキにはできなかった。なぜなら——
——ツミキは、あの少年ではないのだから。
「ごめん! 今のは、忘れて……? やっぱり少し、疲れてるみたい……」
言葉を詰まらせた様子のツミキを見て、ミゾレがそう言ってしりぞいた。
布団にくるまり、窓の方を向いて眠りにつくミゾレ。
振り解かれたその左手に、再び手を伸ばす勇気をツミキは持っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます