第二章 「木は浴場で動じない」その3
——チャプン、ザバー……
空と繋がったこの空間。ヒンヤリとした石を踏み締め進んでいく。その足取りに迷いはない。
やがて、石造りの浴槽の側に人の影が見えてきた。ヘリに腰掛け、手で水面と戯れる少女の横姿。本来は腰の辺りまである長い亜麻色の髪は、ぐるりと束ねられ頭の上に収まっている。
——ペチッ
「え? ——っ‼︎ キャ〜ッ!」
ツミキの足音が、ついに彼女の耳にも届いた。ミゾレは身体をこちらに向け音の正体に確認すると、とても驚いた様子で顔を引き攣らせ、それから悲鳴にも似た声を上げた。
「っ、え⁈ ヒ、ヒノデ⁈ どうしてここに……、っていうか、裸っ」
軽いパニックを起こしている様子のミゾレ。その顔はみるみるうちに赤くなり、上げられた前髪の下で二色の瞳が驚きに揺れている。
彼女は胸を抱き抱えるようにして後ろを向き、恥じるようにツミキから視線を逸らした。
ここは浴場。服を着ないのがルールだと、カイザーから聞いた。ツミキはそれを守っている。
「ごめんミゾレ……。でも僕は、どうしても二人きりで話したいことがあって——」
入浴中は誰にも会わないようにしたい、そんな彼女の願いを踏み躙ってしまったことを、ツミキは申し訳なく思う。
「——みっ、見た?」
浴槽に飛び込みうずくまったミゾレが、背中越しにそう訊いてきた。
「見たって……、何を?」
「それはっ! その、私の……、裸……」
消え入るように小さな声で言葉にする彼女。その顔は、耳まで真っ赤になっている。
「裸? ああ、うん。見たよ」
「っ〜‼︎」
いくら湯煙があったといっても、ツミキはミゾレのそばまで接近していたのだ。彼女の裸体が見えるのは当然のこと。ヘリに腰掛けていた時の曲線的なシルエットはもちろん、こちらに気づき正面を向いた時の姿もはっきりと見ている。全身を覆う白い肌、ハリのある筋肉質な足腰。腰骨と肋骨の間に生じた細いくびれと、その真ん中に添えられた控えめなおへそ。そのまま視線を上げていけば、人間の女性の身体的特徴である胸の膨らみが一糸纏わぬ姿で目に飛び込んできた。胴のシルエットに柔らかい曲線を加えながらも、どこかおさまりのいい二つの膨らみ。その先端をかわして流れる水滴が、細くしなやかなその腕が、腕と胴とを繋ぐ鎖骨の影が、ツミキにははっきりと見えていた。
「——ミゾレ様! 何かありましたか⁈」
とその時、向こうのほうからハナコの声が聞こえてきた。
見つかってはまずい、そう思い焦るツミキ。同じことを思ったミゾレが、声のした方に向かって叫んだ。
「っ! ハナコ⁈ 違うの大丈夫! 私は別に——」
「——見つけたぞ! 貴様、ここで一体何をしている‼︎」
絶体絶命のピンチ! ツミキはそう覚悟し、目を強く瞑った。
「——ワー、ミツカッター‼︎」
続いて聞こえてきたのはカイザーの声。それを受け、ハナコが再度叫ぶ。その声は、ツミキがいる浴場のはるか手前から聞こえてきていた。
やがて二つの足音は遠ざかり、浴場に静寂が帰ってきた。
「カイザー……、ありがとう」
ツミキはそう呟いて、再びミゾレの方を振り返った。ミゾレは浴槽の中で伸び上がるように驚くと、再び背を向けて湯船の中にしゃがみ込んだ。
「ミゾレごめん、突然会いにきたりして……。でも、僕はミゾレと二人きりで話がしたいと思ったんだ」
ツミキは素直に謝り、自分がここに来た理由を伝えた。
怒らせてしまっては、目的を達成できない。ツミキはともかく、ミゾレと話がしたかった。
「……なんでそんなに冷静なの? ヒドイよ……」
「え? ごめん、もう一度!」
あぶく混じりのその声は、ツミキにはよく聞き取れなかった。
「っ〜! なんでもない!」
「ハ……、ハックション!」
「……入ったら? 風邪ひいちゃう。その代わり、こっち見ないでね! 入るのも、そっちの方だから!」
どうやら突然の来訪を許してくれたらしいミゾレの指示に従い、ツミキはミゾレと同じ湯船に浸かった。
「…………」
「…………」
沈黙が二人の間を流れる。ツミキが壁を眺めながらどう切り出すかを考えていると、ふいに周囲の水が揺れた。ほどなくして、背中に何かが触れる。それは人の身体、彼女の背中だった。
「……身体、大きくなったね」
背中を合わせてきたミゾレが、そっと呟いた。背中越しに、声の振動が直接伝わってくる。
「……ミゾレも変わった」
どこか緊張したその背中を感じながら、ツミキは優しく呟いた。
「っ、忘れて! ……ほんとに忘れられても、嫌だけど」
「え?」
「……フフ、責任とってよね? 男の人に裸見られるのなんか、これが初めてなんだから」
そう言って、ミゾレは笑った。おかしさを堪えるような控えめな笑い声、変わらぬミゾレのその声に、やっぱりこれがいいなとツミキは思った。
「ミゾレは……、どうして守護者をやってるの?」
「え?」
彼女に聞きたかったこと、その一つ目をツミキは口にした。
守護者をやっていることが、彼女を縛りつけているのではないかと感じていた。彼女を取り巻く環境がここでなくてはならなかったわけを、ツミキは知りたいと思っていた。
「それは……、ヒノデに、託されたからだよ?」
「え……、僕?」
彼女がゆっくりとうなずくのが背中越しにわかった。
「最後の戦いに向かう前に、あなたが私たちに言ったの。神域を守って欲しい、って。……今私達が守護者をしているのは、ヒノデの言葉があったからなんだよ?」
彼女の声はどこか儚げで、それが意味するところは、ツミキにもわかった。
「……ごめん、覚えてなくて」
「ううん。仕方ないよ……」
再び沈黙が訪れる。守護者になるよう促した本人が、それをすっかり忘れていたという形。当然、ツミキはもともとそんな話知らなかったわけだが、それでも彼女を傷つけてしまったことがわかって苦しかった。
「……僕の記憶が戻ったら、ミゾレは嬉しい?」
彼女に聞きたかったこと、その二つ目をツミキは口にした。
それは、ツミキの中に生まれた疑念。彼女の笑顔を取り戻すために、ツミキがするべきことは本当にこれであっているのか、という疑問。
「それは……。……うん。多分、嬉しいと思う」
「そっか……、そうだよね!」
ミゾレの答えに、ツミキは確信を取り戻した。
彼女の笑顔が戻らないのは、ツミキが記憶を失ったヒノデのままだからだ。もっとヒノデのことを知って、記憶を取り戻したヒノデになりきれれば、きっと彼女は笑顔を取り戻す。
ツミキは、ヒノデについての情報を集めることを決めた。
「ねえミゾレ。僕は、どんな勇者だったの?」
「え? そうだね……。ヒノデは、勇者になりたくない勇者だったよ」
ミゾレの口から出てきたのは、少し奇妙な言葉だった。
「どういうこと……?」
「勇者ってね、遺伝なんじゃないかって言われてるの。歴代の勇者は性別こそ様々だけど、みんな王宮の人なの。ヒノデは前勇者だった人の息子だから、勇者の力が発現する可能性は高かった。でもヒノデは、それをすごくすごく嫌がっていたの」
「……どうして?」
「勇者ってね、長生きできないの。歴代の勇者は皆、若いうちに魔獣に殺されている。勇者の力は、無敵ではないから……。あなたは、十歳の時に勇者だったお父さんを亡くしてる。それからなんだって。あなたが勇者にならないで生きることを願うようになったのは」
ツミキは黙って先をうながす。
「ヒノデが私達と出会ったのは、ちょうどその頃。あなたは行き場のない私たちを引っ張り上げてくれた。私たちは皆んな、自分たちの境遇を覆したかった。自分らしくあれる場所を探していた。だから、私たちは一つになれたの」
「でも……、僕は勇者になった?」
「そう。私達が十五歳の時、あなたは勇者の力に目覚めた。それで……」
ミゾレの身体が、どこかこわばるのがわかった。
「……あなたを勇者にしたのは私達。そして、勇者として死にに行くあなたを止められなかったのも、私達……。私達は、あなたの最後の願いを守り続けることで、あなたとの約束を果たそうとしているの……」
水面が揺れ、彼女が拳を握るのがわかった。
「……運命に抗え。これが、あなたの口癖だった」
ツミキは、その言葉を知っていた。かつて、木の下で五人がよく口にしていた言葉。誰かが暗い顔をしている時、ヒノデはこの言葉を口にした。この言葉を聞くと、みんな笑顔になった。
その言葉は、まるで魔法のように彼らに笑顔をもたらしていた。
「運命に、抗え」
ツミキはかつての少年と同じように、右の拳を高く上げてそう呟いた。
その瞬間、背後にいるミゾレの身体が、ピクッと震えるのがわかった。
「……あなたはきっと、運命に抗ったんだね。だから今、こうして私の前にいる」
次の瞬間、ツミキの胸の前にミゾレの手が交差した。ミゾレは腕を回し、背中からツミキの身体に抱きついていた。すべらかな肌と、柔らかなふくらみ。これまで感じたことのない信号が、ツミキの肉体を流れた。
「……私、頑張ったんだよ? ヒノデがいなくなった後もちゃんと、ヒノデの意思を繋いでいくために。いつかあなたが帰ってきてくれたなら、きっと笑顔で迎え入れられるように……」
耳元で彼女がささやく。それはなんというか、全身を優しく締めつけるような声。
ミゾレはギュッと、ツミキを抱く力を強め、フッと息を吐いた。
「そして、あなたは帰ってきてくれた……」
もたれかかるような彼女の圧力に、戸を開くような彼女の言葉に、ツミキは何も答えられない。
——なぜならツミキは、ヒノデではないから。
「私も、運命に抗いたい。時を超えて、生死の垣根を超えても、あなたに伝えたい」
そうして彼女が、決して彼以外が聞いてはならない言葉を紡ぎ出す。
「ヒノデ、私ね……、私、ヒノデのことが——」
「——おい貴様っ‼︎ 一体何をしている⁈」
彼女の言葉を断ち切ったのは、先ほどカイザーを追いかけていったはずのハナコ・シマダの声だった。彼女は鬼の形相でこちらを睨みつけ、ツミキにむき出しの敵意を向けている。
「っ、まずい! 逃げて!」
ミゾレは慌ててツミキから距離をとり、背後の壁を指さす。そこには大きめの自然石があり、うまく使えば周囲の壁を乗り越えられそうになっている。
「逃げる……?」
「ここから離れるの! ほら、早く!」
「え? え? っ、わかった!」
「待て貴様コラ〜‼︎」
裸のまま駆け出すツミキ、追いかけてくるハナコ。
去り際、ツミキは行方を見届ける彼女の顔に、どこか安堵のような感情が混じっているのを見た気がした。
「待て〜‼︎ 絶対に逃がさん‼︎」
暗い山の中を、月明かりだけを頼りに駆けていく。裸で、この土地にも慣れていないツミキがハナコ相手にここまで逃走を続けられているのはほぼ奇跡だった。ツミキの身体は自然とこの土地を早く駆け抜けるように動き、その高い身体能力はツミキを助けてくれた。
ツミキは、後ろを振り返った。まだ目の届く範囲にはいるものの、先ほどよりも確実に距離ができている。このままいけば、振り切ることができるだろう。そのためにも、どこかで一度大きく距離を作って——
——ズルッ
「あ……」
次の瞬間、ツミキの足元にあった石が転がり、ツミキはバランスを崩した。倒れる身体。運の悪いことに、倒れた方向は急な斜面になっていて、ツミキはほとんどその勢いを殺されないまま谷底へと転がっていった。
「ちょっ、おい! バカ! 貴様——」
焦ったハナコの声はすぐに遠ざかり、草木や岩が身体を打つ音にかき消される。
——やがて、ドンッ、と音を立ててツミキは谷底までたどり着いた。
しばらく、どうなったのか分からなかった。ただ、全身に激しい痛みがあり、身体を動かすことは叶わなかった。かろうじて目を開けると、月が雲間から顔を出すのが見えた。
「……い、お〜い! どこだ〜! どこにいる〜⁈ 死ぬな〜っ‼︎ 返事をしろ〜‼︎」
上の方から、ハナコの声が聞こえてくる。返事をしようとするが、うまく声が出せない。ツミキは声を出すため、呼吸を整える。すると徐々に、身体を支配していた痛みも減っていった。
「っ、そこか‼︎ おいお前、大丈夫か⁈ 意識があるなら返事を——、っ⁈ ……なんだ、これは……?」
ツミキを見つけたハナコが、息を呑んだのがわかった。ツミキはゆっくり身体を起こし、それを目にした。
——全身から触手のように、黒い木の枝が伸びていた。
枝は葉をつけ、やがて枯れ落ち、ツミキの肉体の傷を治していく。そんな光景を、ハナコは凍りついたように眺めていた。その目は見開かれ、口はわずかに開いている。その肩はこわばり、その手はわずかに震え、全身に戦慄が走っているのが容易に見てとれた。
やがて肉体の修復が終わり、枝がすべて消え去ると、ハナコは意識を取り戻したように息を吸い、明確な敵意を持って叫んだ。
「貴様は……、何者だぁっ‼︎」
スカートの下、太ももに携えられていたナイフを取り出し、臨戦態勢に入るハナコ。距離を取ったまま、こちらを無力化する機会を窺っている。
「……言わないで?」
それが、ツミキが捻り出した唯一の言葉だった。
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