第二章 「木は浴場で動じない」その2

「この道はどう? 何か思い出さない?」

「……初めて来たみたいに感じる」

 事実初めて来た川沿いの道を歩きながらツミキは答えた。

 思い出のある神域を巡り、記憶を取り戻すきっかけを掴もうというミゾレの作戦。それを実行するべく、ツミキはミゾレと二人で神域を歩いていた。

 時折ときおり誰かとすれ違うこともあり、ミゾレはその度に遠くからでも声をかけられていた。彼女はやはり、この神域において特別な存在なのだと感じる瞬間でもあった。

「そっか……。あの岩とかどう? 昔、ヒノデがよく——」

「——ミゾレ様、おはようございます」

「あ、——おはよう、調子はいかが?」

 例によって通りがかった婦人に声を掛けられたミゾレは、声のトーンを変えて答える。

「おかげさまで。ミゾレ様も、今日は特別お元気そうね」

「フフ……、そちらもお元気のようで何よりよ」

 そんなやりとりを交わし、二人は手を振って別れた。ツミキも、気持ち程度に手を振った。

「……ミゾレは、なんでそんな喋り方をするの?」

「——ブッ! ゴホッゴホッ……」

 周囲に誰もいなくなったタイミングで、ツミキは尋ねた。よほど意外だったのか、それとも聞かれたくなかったのか、ミゾレは咳き込み顔を逸らした。

「……神域では守護者だから、威厳のある喋り方をしないと、って思って……」

 彼女は目を伏せ、恥ずかしそうにそう答えた。彼女の言っていることが、ツミキにもなんとなくわかった。

「——ミゾレ様っ‼︎」

 すると突然、背後から彼女を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには目頭を立てた黒髪お団子ヘアのメイド服女、ハナコ・シマダが立っていた。

「なぜこんなところに……。いやそれよりも、その者から離れてください、危険です」

 ハナコ・シマダは木に鋭い視線を送り、そう言った。その言葉に、ミゾレは不快感を示す。

「……ハナコ、まだそんなことを言っているの? この話は昨日説明したはず。それとも何? あの時の返事は嘘だったと?」

「そりゃ納得できるはずがありませんよ……。たとえ魔獣でないにしても、その者の正体が謎であることに変わりはない。それを最初から勇者ヒノデ扱いは、危険だと思います」

 一晩の時を経て、再び始まる二人のやりとり。高まる緊張感。

 そんな時、向こうから小さなリス駆けてくるのが見えた。

「ツミキ⁈ 何でこんなとこにいんだ! 神域からは立ち去るって約束だったじゃねぇか!」

「カイザー……。ごめん、やっぱりそれは違ったんだ。僕はここに残る」

 素直に気持ちを告げるツミキ。その言葉に、カイザーは驚いた反応を見せる。

「——バカ言うなよ旦那! 説明しただろ? 早くここから離れよう!」

「——ミゾレ様っ! こちらへ来てください!」

 重なりあうカイザーとハナコの声。その響きに波打つ心、ざわつく肌。

 次の瞬間、全身に衝動が駆け巡り、ツミキはミゾレの手をとって走り出した。

「行こう!」

「え? ちょっ——」

 つられるように走り出すミゾレ。追いかけるように走りだすハナコとカイザー。その距離はぐんぐんと伸びていき、最後にはカイザーがハナコに飛び乗り、驚いたハナコが転ぶという形で、ツミキとミゾレは二人を巻くことに成功した。

「ヒノデっ、もう大丈夫! もういないからっ……!」

 その言葉で、ようやくツミキは立ち止まる。振り返ると、彼女は笑っていた。何がおかしいのかわからないけれど、楽しそうに笑っていた。その風で乱れたボサボサになった髪を見て、気づけばツミキも笑っていた。

 たどり着いた場所は、山の中にできたちょっとした広場。木々が場所を譲って出来たような馬車が十台以上入る草むらだった。

 ふと、彼女の重い前髪が流れ、隠されていた左目が姿を現す。その若草色の瞳は生い茂る草たちの声を語っているように輝き、ツミキの視線を釘付けにした。

「その目……」

「ん? ……そうだよ? ヒノデと同じ……!」

 ツミキがつぶやくと、ミゾレはその若草色の瞳で、ツミキの若葉色の両目を見た。その目はどこか愉快そうで、その真意はきっと、ツミキにはわからないものなんだろうと思った。

「……座ろっか」

 ミゾレの言葉に導かれるまま、ツミキはミゾレと共に、広場の際に生えた中で一番大きな木の下に腰を下ろした。ツミキは初めて、木陰に吹く風の心地よさを知った。

「……本当は、こういうの性に合わないのかもしれない」

 ポツリと、ミゾレがつぶやいた。ツミキが黙っていると、ミゾレは静かに続ける。

「私、ずっと守られる側だった。他のみんなやヒノデ達と一緒にいた頃は、私はみんなの後をついていく側だったから……。だから時々、今の自分が自分じゃないみたいに思うことがあるんだ……」

 言葉とは裏腹に、とても穏やかな声だった。そよ風が頬をかすめ、土の匂いが鼻を抜けた。

「……フフ。昔、みんなで王宮に忍びこんだことがあったでしょ? あの時も、私は一人だけ逃げ遅れちゃって……、その時もヒノデが私を引っ張ってくれたの」

 遠くを眺める彼女。その横顔はどこか楽しげで、どこか愛しさを宿していた。

「……覚えてる? 城の衛兵に追いかけられた私たちは、秘密基地ひみつきちに——あの大きな木の下に隠れたの。……私たちはなるべく小さくなろうと、身体を強く寄せ合った。首に回された腕、背中に感じるヒノデの体温……。言ったことなかったけど、あの時の私は、死んじゃうんじゃないかっていうくらいドキドキしてたんだ」

 ミゾレは変わらず遠くの空を見ている。けれどその意識は横に座るツミキに向けられていて、その白かった肌は耳まで真っ赤に染まっていた。

 ツミキは、思い出していた。確かに覚えている。自分の根元に身を隠し、身体を寄せ合う二人の姿を。——ツミキは、見ていたのだ。

「……覚えてるよ」

「ホント⁈ それって、記憶が戻ったってこと……?」

 ツミキの言葉に、ミゾレの顔がパッと明るくなる。

「あ、そうじゃなくて! ……なんとなく覚えてただけ。それ以外のことはまったく」

「そうなの? そっか、そうなんだ……」

 ツミキの苦しい言い訳に、ミゾレはガッカリしたように肩を落とした。嬉しそうな顔を見せていただけに、ツミキはその変化を残念に思った。だから、再び口を開いた。

「……他にも、覚えていることがあるよ」

「え? 本当に⁈」

 彼女の顔が再び起き上がる。その表情は、ツミキの心も明るくした。

「昔、ミゾレが木の根につまずいて、僕を突き飛ばしてしまったことがあった……。僕は肘を擦りむいて、君は足を捻ってしまった。他の子達は君を叱って、歩けなくなった君は僕に抱えられて運ばれていった」

「そんなことあったっけ……? でも、アハハ……、ドジしてばっかりだね、私は」

「——本当は、狙撃手が僕を狙っていた」

「あっ……」

 ミゾレの目と口が、なにかを思い出したように開かれた。

「狙撃手は矢を放つ前に城の人たちに倒されたから、みんながそれを知ることはなかった。——でも、僕だけは知ってる。君は、『彼』を守ろうとしたんだ」

 それはあの場の誰も知ることがなかった、ヒノデすら知らなかった、ツミキだけが知る真実。

「君は気弱でも、ただ守られるだけの存在でもない。誰にも負けない強さを持った、とても勇敢な女の子だよ」

 ミゾレは目を見開き、その二色の瞳をじっとツミキに向けて固まっていた。やがてその顔を正面に戻すと、手前の地面を見るようにしてうつむいた。

「……忘れてた」

 その表情は、感情を読み取りづらいものだった。

 ツミキは、何か失敗したのではないかと焦り、次の言葉を探した。

「——ぅぁぁああぁっ‼︎」

 とその時、何かが上から落ちてきてツミキの頭に衝突した。見ると、それは茶色いリスだった。

「カイザー! どうしてここに!」

「イテテテ……。俺はあんたを説得しようと近づいて、そんで足を滑らせて……」

 言いながら頭を抑えるカイザー。そんなカイザーに、ツミキは意を決して口を開いた。

「カイザー、僕はやっぱり神域に残るよ。僕は、彼女の近くにいたいんだ」

 ツミキの言葉に、カイザーは苦い顔をした。けれどツミキがその視線を逸らさずにいると、やがて観念したようにため息をついた。

「……わかったよ。まったく、面倒なことにならなきゃいいけど」

「カイザー! ありがとう……!」

 ツミキは笑い、カイザーもやがて笑みを見せた。そんな二人のもとに、ミゾレが近づいてくる。

「ヒノデ、大丈夫? ケガはない?」

「うん、大丈夫だよ。僕よりもカイザーが心配かも」

 その言葉で、ミゾレはカイザーの方を見た。カイザーはガッツポーズで応え、ミゾレはホッとした様子で息を吐いた。

 ——その時、甲高い音が山々の壁を伝って聞こえてきた。それはどうやら鐘の音。鐘と言っても、王都の教会のように深みのある音ではない。金属の板をハンマーで何度も高速で打ちつけるような、聞こえさえすれば何でもいいと言っているような、そんな耳障りな音だった。

「この音は何?」

 この場所に来て初めて聞いた異常な音に、ツミキは尋ねる。

 ミゾレは先ほどまでとは一転した鋭い表情で音のする方を確認し、それからツミキを見た。

「これは警鐘。魔獣が近くに現れたことを伝える音だよ。でも、うん……、ちょうどいいかもしれない。ついてきて! ヒノデに、見てもらいたいものがあるの」

 そう言ってミゾレは走り出した。ツミキとカイザーは、不思議に思いながらそのあとを追った。


     *


 走り出したミゾレの後をついていくと、ツミキは『神域』東側の平原にたどり着いた。

 三つの山に囲われた神域の、唯一平地に繋がったエリア。木製のバリケードや背の高い簡易的な建物が設置されたそこには、すでに何人かの人が集まっており、皆それぞれ険しい顔をして槍のような武器を握りしめていた。

「ミゾレ様っ‼︎ お待ちしておりました!」

 その場にいた男の一人がミゾレに気づき声を上げる。彼女の姿を見た瞬間、険しい顔をしていた人々の緊張感が少し緩んだような気がした。

「みんな、よく頑張ってくれたね、ありがとう。もう大丈夫だよ……」

 ミゾレが馬から降りると、集まっていた人々はササッと移動しその進行方向に道を作った。

「ヒノデ、一緒に来てくれる……?」

 ミゾレは毅然としたトーンでそう言うと、返事を待たずにハシゴを使ってバリケードを乗り越え始めた。ツミキは黙って、彼女の指示に従った。

 バリケードの向こう側は、見渡す限りの平原だった。その向こうから、何やら黒い影が迫っている。目を凝らすと、それは黒いカンガルーの群れだった。

「……これが、見せたいもの?」

「魔獣! 多いな……。どうすんだ? こっちに向かってるぞ」

 ツミキの足元から、カイザーがミゾレに警告する。

 ツミキが彼女に目をやると、彼女の瞳もツミキを捉えていた。その表情はどこか儚げで、それでいて確かな熱を宿していた。

「——私は盾。勇者ヒノデが遺した、四人の守護者が一人。この力と命はヒノデ、あなたとあなたが守った人々のために……」

 そう言うとミゾレは視線を切って、一人でカンガルーの群れが迫る方へと歩き出した。

「おい! 何やってんだ、危ねぇぞ!」

「大丈夫。見てて」

 押し寄せるカンガルーの群れ。その先頭がミゾレまで残り五百メートル近くまで接近する。

 ——と、次の瞬間。先頭を走るカンガルーがピタリと歩みを止めた。それに続くようにして、一定のラインに達したカンガルー達が次々に動きを止める。それは、彼女との間にある見えないバリアを可視化しているようだった。

「っ! は……? おいおい嘘だろ……? これじゃまるで、『勇者』じゃねぇか……」

 カイザーが隣で、信じられないものを見たような顔をしているのが見えた。

 動きを止めたカンガルー達は、ミゾレが歩みを進めると逃げるように踵を返し、やがて全てのカンガルーが、ミゾレから逃げるようにその場を去っていった。

「すごい……。ミゾレ!」

「やっぱり、私の力が及ぶまで奴らは止まらなかった。本当に、ヒノデの力はもう……」

 何かを呟くミゾレのもとに、駆け寄るツミキ。そんなツミキに気づいた彼女が、どこか緊張した面持ちでこちらを振り返った。

「今の、ミゾレがやったの?」

「うん、そう……。で、でも、説明させて! この力を手はその、なんていうか——」

「——すごいね! カッコよかったよ!」

「え?」

 顔を上げたミゾレに、ツミキは目を輝かせ顔を近づける。ミゾレは驚いたようにのけ反り、それから照れたように視線を逸らした。

「……出会った時と同じだ。ヒノデはいつも、私を見つけてくれる……」

 ふいに、ミゾレがそう呟いた。気づけばその頬は赤く染まり、控えめに見上げられた瞳は何かを期待するように潤んでいた。

「ミゾレ……?」

「ねぇヒノデ……、頭、撫でてほしい……。あの頃と、同じように」

 そう言うミゾレの顔を、ツミキは数秒キョトンとした表情で見つめる。すると、彼女の顔はみるみるうちに赤くなり、今にも逃げ出しそうなほど恥ずかしそうにしているのがわかった。

「い、今なら誰も見てないし……! その、私、頑張った! でしょ? だ、だから——」

 目を泳がせる彼女の頭を、ツミキはそっと両手で撫でた。

「あ……」

 ミゾレがどんな表情をしているのか、ツミキには見えなかった。けれどなぜだか、ツミキは彼女が泣いているのではないかと思った。

「……ぷ。……ふふ、ふふふふ!」

「へ?」

 急に笑い出したミゾレに、ツミキは困惑を覚える。

「ふふ、何これ! なんで両手? これじゃ、まるでシャンプーだよ、アハハ!」

 顔を上げたミゾレは、とても嬉しそうな表情をしていた。ツミキの予想はどうやらハズレだったらしい。けれど、彼女が笑っていたからツミキはそれで満足だった。

「お前ら完全に俺のこと忘れてるだろ……」

「ひゃ!」

 これら全てを見ていたカイザーが、足元から呆れたような視線を向けていた。ミゾレは一瞬飛び跳ねるよう驚いた後で、恥ずかしさを隠すように真面目な顔に戻った。

「ったく……。……ところで、説明してくれるよな? なんであんたが『勇者の力』を持っているのか。悪いが、イヤと言われても退かねぇぞ」

 カイザーのその言葉で、ミゾレの表情から先ほどまでの浮つきが完全に去るのが分かった。

「……もちろんだよ。ヒノデにも聞いてほしいからね。でも場所を変えよう。ここじゃ話しづらいこともある」

 ミゾレはそう言って、バリケードの方へ歩き始めた。バリケードを超えると、神域の人々はミゾレを囲うようにして、彼女に感謝の言葉を口にした。

 そんな彼女の背中を見た後で——

 ——ツミキは一人、カンガルーが去った後の地平に視線を戻した。

「ヒノデ? どうしたの?」

 遠くを見つめたまま動かないツミキを不審に思ったミゾレが、遠くから声をかけてくる。

 ツミキは顔だけで振り返り、なんと答えるべきかを考える。

「えっと、……僕は大丈夫! ミゾレは、先に戻ってて」

「え? どうしたの? ……何かあった?」

 ツミキの返事を聞いたミゾレが、こちらに戻ろうと歩き始める。しかしツミキは、これから起こることをミゾレに見られたくなかった。

「えっと、その……。あ、そうだ! ここにいると、何かを思い出せる気がするんだ。でも、それには多分、一人の方がよくて……」

 ツミキがそう口にすると、ミゾレは期待した表情をグッと堪えて、静かにうなずいた。

「っ! ……わかった。じゃあ、先に行ってる。何か思い出したら、すぐに呼んで!」

「あっ、できれば他の人も離れててくれると嬉しいんだけど」

「え? でもヒノデ、それじゃあ……」

「大丈夫」

「……わかった。ごめん皆、ヒノデが戻るまで、この場所から離れてあげて」

 ミゾレの指示に従い、神域の人々はこの場から離れ始める。ミゾレは少し不安そうな顔を向けつつも、ツミキに自分の行き先を告げて、この場をあとにした。


「うまく、いった……?」

 一人きりになったツミキはそう呟くと、再びバリケードを乗り越え、神域の外側にでた。

「……君だよね? 遠くから僕を見ていたのは」

 ——バリケードの外には、あの黒いオオカミが立っていた。

 カンガルー達がやってきた方向を背に佇む、鋭い目をした巨大な獣。その牙は、得体の知れない血で濡れている。

 一昨日出会った個体だろうか。いや違う。目の前に立つオオカミは、明らかに前に出会った個体より大きな身体をしていた。

「ガルルルル……。ギョン! ギョンギョン‼︎」

「え? 何のこと? ……それは多分、君の勘違いだよ」

 すると次の瞬間、オオカミが大きな声で吠えながらツミキの方へと走ってきた。それを見て、ツミキはゆっくりと右腕を前方に伸ばし、手のひらをオオカミに向ける。

「……それはダメだよ。僕はミゾレに、心配をかけるわけにはいかないんだ」

 ツミキの手がほどけ、数多の木の枝へと変わる。それらは迫るオオカミに向かって伸び、その全身を縛り上げた。

「ガ、ギョッ……!」

 ——次の瞬間、木の実が潰れ弾けるように、オオカミの身体が宙へ散った。

 降り頻る血の雨を、ツミキは幼稚なステップで回避する。

「っとっと! 危なかった……」

 服に血がついていないことを確認して、ツミキはホッと息をついた。

 顔をあげると、奥の方で隠れていた二頭のオオカミと目が合った。

 彼らはツミキの視線に気づくと、すぐにどこかへと逃げ去っていった。

「……あの子達は、喋れないんだな」

 ツミキはそう呟くと、ミゾレが待っている集会所へ向かった。

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