第二章 「木は浴場で動じない」その1

 不安がささやく闇夜を、小さな灯火だけを携えて歩いている。下を見れば影、上を見れば星が瞬く。視点次第で、まるっきり姿を変える——そんな世界を、ツミキはおもしろいと思う。

 ツミキは今、山道を歩いている。壊れた荷台を改造し作った即席リヤカーに乗り、ツミキ達は平地の先にある山のふもとまで連れてこられた。いわく、神域はこの山を超えた先にあるらしい。リヤカーが通るには適さない不安定な道を、ツミキは子供達と歩いているのだった。

 ふいに、左右の子供達がぎゅっとツミキの手を握る力を強めた。きっと不安なのだろう。

「大丈夫だよ……」

 ツミキが囁くと、木達を左右で挟むように進む馬に跨った男たちが、警戒するような目つきでこちらを見た。敵意というよりも、怯えと疑念。ツミキとしては仲良くなれたら嬉しいのだが、そう簡単ではないのだろう。

「ねぇ、喋るリスさんは……?」

 寂しそうに呟く女の子の言葉に、ツミキは困った顔で首を振り空を見上げた。

 ふところに隠れていたカイザーは、少し前に慌てた様子でどこかへ走って行ってしまった。あれは悲しかった。叶うなら、またどこかで会えたらいいなと思う。

 ——ところで、ツミキ達が歩くこの山には不思議なところが三つほどあった。

 一つ目は、山を包む光のベールだ。蜜柑色みかんいろをしたそれは、子供達いわくまるでオーロラのようにこの山の上空を覆っている。

 二つ目は、やけに力強い植物だ。この場所の木々は、重ねた年月よりもはるかに深い根をおろしている。

 三つ目は、気配だ。このベールの中に入ってから、何かの気配を感じる。それはおそらく、山の向こうから——つまり神域から。

 とその時、空に向かっていた坂道がついに途切れ、その先にやわらかな灯りが見えた。

 その光を見るや否や、子供達が興奮して声を上げる。

「皆、本当にお疲れ様。ここが、神域『タートル』だよ!」

 正面を進む白い馬に跨った、亜麻色の髪の少女——ミゾレがそう叫んだ。

 山を登り切った先、その斜面に沿うようにして大小様々な灯りが根付いていた。ツミキ達が登ってきた山とその左右、合計三つの山がすり鉢状の地形を形成し、ツミキ達がいる山の正面、その一箇所だけが平地となっている。それはまるで、玄関付きの天然の城壁。山から平地に向けてはいくつかの川が流れ、それに寄り添うようにして人々の集落が闇の中に輝く。それら全てを覆う蜜柑色のベール、その中心の位置には僅かに隆起した土地があり、そこにまるで火口のような怪しく光る穴があった。

「お帰りなさい! ミゾレ様!」

 川沿いに広がる集落の一つに入ると、多くの人がツミキ達を出迎えた。そこは、草と土の世界。建物も小柄で、素材は木が多くを占める。王都と違い人々は皆似たような格好をしていたが、不思議とその顔は王都の彼らよりもずっとツヤツヤしていて、全体的には若い人間よりも歳を重ねた人間の方が多い、という印象だった。

「え? 勇者様……?」

 ふと、誰かがツミキに気づいてそう言った。

「勇者様じゃ……」「マジで……? 勇者様?」「ああ、勇者様!」

 その声はたちまち人々に広がり、多くの視線がツミキに集まった。

 徐々に近づいてくる彼ら。それらに、ツミキの周囲にいた子供達が怯えを示す。

「っ……! 違う、僕は——」

「——しずまれ! まだ彼と決まったわけではない!」

 ミゾレの一言で、周囲のどよめきが一瞬鎮まる。

「……これから集会所へ行く。道を開けてほしい」

 その言葉で周囲の人々が左右に分かれ、自然に一本の道が形成された。ミゾレは馬から降りると、ツミキや子供達を先導するようにそこを歩き始めた。ツミキ達が通り過ぎると、そこにいた人々の半分程度がそのまま後ろをついてきて、長い列を形成した。

「人がたくさん……」

 その光景を振り返って、ツミキはつぶやいた。

「あなたを知る人々は皆、今でもあなたを慕っている。特にこの神域は、あなたが守り支えた土地。ここの人々は全員、ずっとあなたの帰りを待っていたの……」

 熱を帯びる人々の視線を背に、けれどツミキは隣を歩く彼女の、その毅然とした横顔を見つめていた。


 集会所と呼ばれる三角屋根の天井が高い建物に入ると、ミゾレはこれまでの経緯について説明を始めた。

 何かの気配を感じ偵察に出たこと。そこで、勇者ヒノデの姿をした彼に出会ったこと。彼がさらわれた子供達を魔獣から守っていたこと。傷ついた子供達の信頼を獲得していたこと。そして、彼が自身についての記憶を失い、自らをツミキと名乗っているということについて。

 ミゾレの口からそれらのことが伝えられるたびに、人々は感嘆し、たたえ、そして動揺した。

「さすが勇者様だ」「そんな! 記憶喪失だなんて……」「あんたは勇者様じゃろ?」

 ざわつき様々なことを口にし始める人々。そんな様子を見届けて、ミゾレが口を開いた。

「聞いてほしい! みんなが混乱する気持ちはよくわかる。……正直、私自身も、まだ何が起きているのかよくわからない……」

「ミゾレ様……」

 一瞬表出ひょうしゅつした揺らいだ顔は、次の瞬間には塗り替えられる。

「——でも、一番困っているのは彼だと思う! そこでみんなに提案したいの! 彼を、この神域で引き取りたい。彼と、彼が守ったこの子供達に、神域で過ごしてもらいたいと思うの。勇者との関わりが深いこの地で時間を重ねれば、彼の記憶が戻ることだってあるかもしれない」

 ミゾレの提案に、集まった人々は口々に賛成の意を示した。

「それはいい!」「そうなると、ヒノデ様を受け入れる宿が必要ですな」「そうだ! 宿が必要だ!」「その宿は、ぜひウチに!」「いえウチに!」「勇者様、僕たちのことを覚えてますか?」

 押し寄せる声と視線。雷雲のような、遠くから聞こえてくる地響きのようなそれに、一抹の危険性を感じ始めたその時——

「——静かに! 子供達が怯えてる……」

 ミゾレがそう言って人々を鎮めた。

「宿については、私が決める。指名された人は、申し訳ないけど対応をお願い」

 ミゾレの言葉に、人々は納得したようにうなずく。それを見て、ミゾレもまたうなずいた。

「ありがとう。じゃあ……」

「——待ってください! 私は反対です」

 突然、一人の女性が声をあげミゾレの言葉をさえぎった。その女性は、集会所の中にいた。彼女が持つ黒い髪は頭頂部付近で丸くまとめられており、細い眉と鋭い切れ長の眼がどこか威圧的な雰囲気を生み出している。黒地のワンピースにフリルのついた白いエプロンという、この中ではそれなりに目を引くような格好をして、ミゾレの従者達と肩を並べていた。

「ハナコ……、それはどうして?」

「まず、正体が不確かすぎます。話によると彼は魔獣に襲われていた、すなわち『勇者の力』は持っていないということです。この男は勇者ヒノデの姿をしているだけの魔獣の可能性だってある! 神域に留めるにしても、せめてしばらくは隔離し様子を見るべきです!」

 早いスピードで言葉を紡ぐ黒髪の女性。ツミキには、彼女の話がよくわからない。

「ハナコ、それはさすがに……」

「いいえ、この者の正体がわからない限り、これは最低限の処置です。失礼ながらミゾレ様、あなたは今、著しく冷静さを欠いている」

「っ、そんなこと——」

「——いいえ、間違いありません。あなたは自身が冷静であるように振る舞っていますが、それは表面だけです。本当は、この場にいる誰よりも動揺している。この場で最も勇者様に肩入れしているのはミゾレ様、あなただ!」

「っ……‼︎ それは……」

「だからあなたは疑えない。この者が勇者ヒノデあってほしい、そう願っている。そうでない可能性を排除しようとしている。ですが冷静になってくださいミゾレ様! 彼が勇者ヒノデである可能性は限りなく低い! 勇者ヒノデはもう、いないので——」

「——ハナコ・シマダ、あなたは私の力を疑うというの?」

 その瞬間、集会所にいた人間は一斉に口を閉ざした。ミゾレから放たれた低いトーンの声、全身から漏れ出る静かな圧力が、その場にいる人々を、彼女の前に立つメイド服の女性の動きを重く制した。

「彼が私の前にいる。私の前に、平然と立っている。このことが、彼が魔獣ではないことの何よりの証拠じゃなくて?」

 ミゾレはニコリと笑う。初めて見るその笑顔の不気味さに、ツミキは少し驚いた。

「そ、それは確かに……。ですが……!」

 ハナコは言葉を詰まらせながら、それでも自分の主張を、否定しきれていない危険性を訴えようとして退かない。高まる緊張感。

 ツミキは、自分がどうすればいいのかわからなかった。正直に話せばいいのか、黙っているべきなのか。——考えるポイントは一つ。どちらがより、ミゾレの笑顔につながっているのか。

 いまツミキの周囲にいる子供達は、ツミキを勇者ヒノデだと認識することで笑顔になっていた。ツミキを勇者ヒノデだと思った人々は、みんな嬉しそうな顔をしていた。

 だから、ツミキは正体を言わないことにした。何も言わない、沈黙を選んだ。

「——侵入者を捕らえました‼︎」

 突然、大きな声と共に一人の青年が集会所に飛び込んできた。その言葉によって、対立していたミゾレとハナコの圧力が解かれ、意識が報告者の方に向けられる。通常であれば歓迎されないその報告に、この時ばかりは多くの者が胸を撫で下ろした。

 もちろんツミキも、例外ではなかった。けれど次の瞬間、別の驚きがツミキを襲った。

「——離せ! 何度も言ってるだろ! 俺は怪しいもんじゃねぇ、王都の戦士候補生だ! 証書はないが王都に問い合わせりゃあ——」

「カイザー?」

 両腕を抱えられた集会所へ入ってきたのは、面長で顎鬚の生えた二十代そこそこの男だった。茶色い長髪は前髪ごと後ろで一つに束ねられ、取りこぼした数本の前髪が触角のように額にかかっている。黒い瞳が覗く目元はシャープで、けれどどこか親しみやすい印象。身体は筋肉質で、百八十近い身長も相まってそれなりの大男に見えた。

 そんな長髪ひとつ結びの男は、発せられたツミキの言葉に動きを止め、数回まばたきした。

「……あんた、わかるのか?」

 ツミキには、質問の意味がよくわからなかった。ツミキにとって、目の前にいるこの男が、自身を助けサポートしてくれたあのリス、カイザーであることは明確だったのだ。

「え? 違うの……?」

 ツミキが首を傾げると、面長の男は「へっ」となんだか愉快そうに笑った。

「そうだ。俺はカイザー。あんたと一緒にいたリスだよ、ツミキ」

 カイザーの言葉に、先ほどリスの不在を悲しんでいた女の子が疑いの目を向けた。そんな少女に気づいたカイザーは、彼女に向かって優しく微笑んだ後で、「がぁっ‼︎」と言って鬼の形相で子供達に向かって吠えた。子供達は悲鳴をあげ、そして泣いた。

「ちょっと、カイザー!」

「へっ! いいだろ別に! 俺はもともとコイツらのことなんてどうだっていいんだよ!」

 そう言い捨てるカイザー。ツミキが子供達を案じ視線を戻すと、子供達は周囲にいた老婦人達に抱きついて泣いていた。哀れな子供達を、婦人達は庇うようにして抱いていた。

 神域の人々の胸で泣く子供達を見て、ツミキは不思議とカイザーに温かい気持ちを持った。

「……その人を離してあげて? その人は、僕を助けてくれたんだ」

 ツミキの言葉に、カイザーを捉えている男達が困った顔をする。動きを止めてしまった彼らを見て、ツミキは伝える対象をミゾレへと変更した。

「ねぇ、君ならわかるでしょ? この人は、僕と一緒にいたリスなんだ。一緒に王都から逃げてきたし、一緒に子供達を守った。この人を、離してあげてよ」

 彼女の顔に、なにか痛みのようなものが浮かんだ気がした。が、それはすぐに姿を隠し、視線は長髪の男へと移った。

「……本当に、あのリスなの?」

「びっくりしたぜ、急にあんたがコイツに抱きついた時には。んまぁ〜熱い抱擁だった! まるで恋人だなありゃ!」

 おどけたカイザーの言葉に、ミゾレは息をのみ、その頬を紅潮こうちょうさせた。

「なんだっけな、なんか言ってた気がする……。確かあれは——」

「——っ、わかった! わかったからもうやめて! ……信じるよ」

 ミゾレはそういうと、男達にカイザーを解放するよう指示をした。カイザーは「なんだ、これからが面白いとこだったのに」と笑っていた。

「けど、どうして? どうして急にいなくなったりしたの?」

 腕を伸ばしたり回しながら歩み寄ってくるカイザーに、ツミキは尋ねた。

「簡単だよ、魔獣だと思われないためさ。王都の時みたいにな。それで、人の姿に戻れる夜になるまで隠れてたんだ。あんたらに見つからないよう、一緒に山登りもしてたんだぜ?」

 得意げに笑うカイザー。魔獣だと思われないために。その言葉に、ツミキは捕まえられ檻に入れられていたリスを思い出した。

「……でもどういうこと? カイザーは人になったリスになったりするの?」

「それは……、なんというか信じてもらえるかわかんねぇけど——」

「『のろい』、ね」

 言い淀むカイザーに割り込むようにして、ミゾレが口を開いた。聞きなれないその言葉、ツミキには意味がよくわからない。見ると、周囲の人間も同じような反応だった。

 一方のカイザーは、ミゾレの言葉に面食らったような顔をしていた。

「……知ってんのか。さすが神域の守護者様、博識だな」

「からかわないで。……守護者の中には、あなたと同じように異形の『呪い』を受けてしまった子もいる。それだけよ……」

「へぇ……、そりゃ失礼したな」

 何か通じ合っているそぶりを見せる二人に、すっかり置いてけぼりをくらっている周囲。そんな中で、先ほどの黒髪メイド服の女性が手を挙げ口を開いた。

「ミゾレ様、『呪い』とは……?」

 先ほどまで言い争っていた二人。けれど、そこにあった緊張感も今は消えていた。

「……『呪い』とは、高い力を持つごく一部の魔獣が使える能力。特性と言ってもいいかもしれない。上位の魔獣は、周囲にいた生物もしくは戦闘を行った生物に、特定の効果を付与することが出来るの。そしてその効果は、多くの場合消えることはない。——それが『呪い』」

 ツミキも含め、この場にいるすべての人がその響きに新鮮さを感じている。

「呪いの効果は多岐たきに渡るし、観測例も少ない。だから一般にはあまり知られていないし、遭遇することもないの。……けれど、『呪い』は確かに存在している。守護者をしている私達四人の中には、魔獣との戦いでそれを受けてしまった者もいる。公表はされてないけれど」

 淡々と語られるその言葉に、人々は口を閉ざした。ただ、ツミキだけはその言葉に衝撃を隠せず口を開いた。

「守護者達の中に? じゃあ、君たち四人の中にも、その呪いに苦しめられてる子がいるってこと⁈」

 その直後、ツミキは自分が何かを決定的に間違えてしまったのだと思った。ミゾレの目は、それほどまでに悲しく、そして痛みを宿していた。

「……そっか。そんなことまで、忘れちゃったんだね……」

 何か声をかけようと思うツミキ。しかし言葉が出てこない。何がいけなかったのか、木にはわからない。

「——俺にかけられた『呪い』は、全身がリスへと変わる呪い。ただし、日中だけ。陽が沈んだ夜だけは、人間の姿に戻れるって呪いだ。カワイイだろ?」

 そんな空気を断ち切るように、カイザーが口を開いた。しかし、重い空気が晴れることはなく、能天気な声だけがこだました形になる。

「……バカなのか貴様」

 黒髪のメイド女がつぶやいた。

「っ、うっせぇ! 元はと言えばアンタから始まった会話だろ!」

「はぁ? 貴様が現れたことで始まったのだ! 責任をなすりつけるな!」

「んだと⁈ ……まあともかく、アンタらは大きな勘違いをしてる! コイツは、アンタらが敬愛する勇者ヒノデじゃない! たまたま同じ姿をしているだけの、ただの記憶を失った男だ! 勇者ヒノデとしての何かを求めること自体が、そもそも間違ってんだよ!」

 半ば怒鳴るようなテンションで、カイザーはついにそのことを皆の前で口にした。

「カイザー……」

「(心配すんな、ツミキ。すぐにここから解放してやる。アンタには、王都に戻って会いたい人がいるんだろ? 任せろ、こんなとこで足止めは食わせねぇよ!)」

 耳打ちをしてきたカイザーに、ツミキはハッとして言葉を返す。

「(違うんだカイザー、僕が探していたのは——)」

「——そういうわけだ! コイツは俺の親友なんでね! 連れて帰らせてもらうぜ!」

 そう言ってツミキの肩に腕を回すカイザー。

「ちょ、ちょっと待ってカイザー‼」

 ツミキがそう言って説明しようとした瞬間——

「——その人はヒノデだよ。間違いない」

 ミゾレが、まっすぐなトーンでそう言った。その響きの重力に、カイザーが思わず足を止めてしまう。

「ミゾレ様っ‼︎ だからそれは——」

 警告を唱えるメイド服の彼女。しかしそれは、周囲の人々の歓声によってかき消されてしまう。立ち去るに立ち去れなくなったカイザーが、後ろを振り返りミゾレに口を開いた。

「……違うぜ。コイツはツミキだ。勇者じゃない」

「——それなら、私にそれを納得させて? あなたも一緒で構わない、彼を数日間、神域で過ごさせてよ」

 唐突なミゾレの提案に、メイド服の彼女はもちろん、カイザーや周囲の人々もよく意味がわかっていないようだった。

「……何をする気だ?」

「彼に記憶を取り戻させる。この『神域』という場所は、彼が多くの時を過ごし、そして最後に守れと命じた大切な場所。ここで時間を過ごせば、何かがトリガーになって彼の記憶が戻るかもしれない。……そしてその間、私もずっと彼のそばで過ごす」

「なっ!」「ミゾレ様っ‼︎」

 ミゾレの言葉に苦い反応を示すカイザーとメイド服の彼女。

 一方でツミキは、その提案を魅力的だと思った。

 彼女達の笑顔を取り戻すために、この姿で彼女達に会おうと決めた。そして、図らずもその時はすぐに訪れた。今ここで彼女達の一人であるミゾレと過ごせるのは、ツミキにとって願ってもない提案。迷う余地などなかった。

「わかった、僕はここで——」

「——っ、おっと大丈夫か⁈ オオ大変、体調が悪そうだ! 今日はもう休ませてくれ! あ、そこのあんた、宿まで案内してくれるか? ほんじゃ続きはまた明日〜‼︎」

 ツミキが返事をしようとした瞬間、カイザーがものすごい勢いでそれを遮り、ツミキを運び出した。

「ま、待ってカイ——むぐっ」

 抵抗するツミキの口を、カイザーの手が塞ぐ。カイザーの言葉をを受けて、ミゾレは近くにいた人に宿の指示を出した。

「もしここに残ってくれるなら、明日の朝、九時にここへ来て欲しい! 待ってるから!」

 去り際、ミゾレがそう叫ぶのが聞こえた。


「どうして? なんで返事をさせてくれなかったの?」

 案内された宿の部屋で、ようやく解放されたツミキはカイザーに尋ねた。

「どうしてもこうしてもない! あんた、ミゾレ・シオンの提案を受けようとしてただろ!」

「そうだよ。なぜそれを邪魔したの?」

 ツミキがそう言うと、カイザーは近寄ってきてその右手人差し指でツミキの胸を指した。

「あの提案は断れ。アンタは明日、この神域を出て王都に戻るべきだ」

 その言葉を受けて、ツミキはカイザーが勘違いをしているのだと理解した。

「あ……、違うんだよカイザー。僕が探していたのは、あの子達なんだ。だから、もう王都に戻る必要はないんだ」

「え? どういうことだよ……?」

「僕は、このヒノデと一緒にいた女の子達を探しているんだ。そして、この子がいなくなって悲しい顔をしている彼女達を、この姿でもう一度笑顔にしたい! だから、僕はここにいたいんだ」

 ツミキの言葉に、カイザーは一瞬面くらったようによろめき、それから口元に手を当てた。

「……なるほど。よくわからねえが、必要なことはわかった。——やはりアンタは、ここから離れるべきだ」

 しかし返ってきたのは、変わらぬ答えだった。

「どうして?」

「俺にはアンタの正体はわからねぇ。だが、アンタは勇者ヒノデじゃないんだろ? 俺は城で見ていたから知ってるんだ、アンタはただの人間じゃねぇ」

「カイザー……、それは——」

「——もちろん俺は、アンタを信用してる。短い付き合いだがそれは本当だ。けど、他の連中はそうもいかねぇ。正体を隠し通すのはほぼ不可能だ。正体がバレたら、今度こそ終わりだ」

「っ……、それでも僕は——」

「——守護者であるミゾレ・シオンは、勇者ヒノデの最も近くにいた人物の一人だ。そして、その死を最も悲しんでいる人間の一人でもあるはず……。アンタが勇者ヒノデではないと知ったら、きっとひどく傷つく。最悪の場合、アンタは彼女に殺されちまうぞ……」

 その言葉に、ツミキは動きを止めた。それは、ツミキにある光景を思い出させた。

『——お前は、あの子じゃない』

 それは、王宮で女王が言い放った言葉。この子——ヒノデとの再会に涙していたあの女性は、ツミキの切られた腕が再生するところを見てそう言ったのだ。

 その時の女王は、ひどく傷ついた顔をしていた。なぜかはよくわからない。けれど、カイザーが言っているのはきっとそういうことだ。

 ——正体がバレれば、彼女を余計に傷つけてしまう。

「……わかったよ、カイザー」

 カイザーはそっと、慰めるようにツミキの二の腕を叩いた。


 翌朝、陽の光に目を覚ますと、隣のベットでは小さなリスが寝息を立てていた。

 時刻は朝六時。カイザーを起こさないように、ツミキはそっと部屋を出た。

 外に出ると、神域の人々の多くはすでに活動を始めていた。彼らはツミキの顔を見るなり、笑顔で挨拶をしてきた。中には声をかけてくる者もいたが、それも二言程度のもので、昨日の混乱はどこかに消え去っていた。もしかしたら、昨晩ツミキが去った後で話があったのかもしれない。

 朝の神域は、心地のいい光で満ちていた。山肌は陽の光に喜び、小鳥がそれを讃えるように歌う。流れる川の音も心地よく、青い空には蜜柑色のベールがキラリと輝いていた。

 神域を歩き回っていると、ツミキは遠くに、水を運ぶ婦人達と会話をするミゾレを見つけた。

 ミゾレの身体を包むのは、金糸の刺繍ししゅうが施された慎ましい白いワンピース。腰には、神域の空を思わせるような藍色あいいろの帯がきゅっと結ばれており、動くたびにその端が静かに揺れている。

 婦人達が笑顔で立ち去ると、次は魚売りの男がミゾレに話しかける。何やら陽気な挨拶を終えると笑顔で去っていく魚売り、すると間髪入れず今度は羊飼いの少年が……。神域の人々にとって、ミゾレはやはり特別な存在で、皆ミゾレが大好きなのだと伝わってきた。

 ——彼らといる時、ミゾレもまた笑っていた。けれど、それはツミキの知らない笑顔だった。

 どこか擬態するようなその笑顔は、彼女の心のようであって彼女の心ではない。ツミキが大好きだったのは、あの笑顔ではないのだ。

 口数が少なく警戒心も強い、自分の感情を見せるのが苦手な少女——ミゾレ。そんな彼女が、心から楽しそうに笑う瞬間があった。あの少年といる時に見せていた特別な笑顔、ツミキはその笑顔が好きだった。

 ふいに、ミゾレがこちらを振り返った。羊飼いの少年がツミキの存在に気づき、それを彼女に教えたのだろう。

 ——その時、ツミキは見た。彼女の全身に、暖かな喜びの感情が広がっていくのを。

 ——こちらが踏み出す一歩一歩に、彼女の顔が優しく綻んでいくのを。

「おはよう、早いね、びっくりしたよ! ……もしかして、よく眠れなかった?」

 そう口にするミゾレの顔には、隠しきれない喜びが、細められた目と引き上げられた口角という形で滲み出ている。律することができない感情が、そこには現れていた。

 その時、ツミキの中で何かが動いた。

 ……ああ、これだ。この笑顔を見るために、僕はこの子に会いに来たんだ。

「……ヒノデ?」

 口を閉ざしたままのツミキに、ミゾレが心配そうに顔を覗き込んでくる。

 ——ツミキは決めた。勇者ヒノデのふりをし続けることを。決して正体を明かさず、彼女に笑顔をもたらし続ける——それ以上に大切なことなど、ツミキには思い浮かばなかった。

「……うん、そうだね。決めた! 僕は、ヒノデになるよ」

 脈絡の欠けたその言葉に、ミゾレは不安げな顔を見せる。そんな彼女の手を、ツミキは勢いよく取った。

「ふぇっ⁈」

 驚き不思議な声を漏らす彼女。羞恥心からか、その頬が見る見るうちに赤くなっていく。

「ミゾレ、お願い! 僕に、僕のことをいっぱい教えて! ミゾレのことも、いっぱい教えて!」

 熱く注がれたツミキの視線に、ミゾレは口元をつぐみ赤面したままコクコクとうなずいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る