第一章 「勇者ヒノデ」その3

 ——大きなカラスの鳴き声で、目を覚ました。

 あたりは薄暗く、ツミキは自分がどこにいるのか忘れてしまう。

 ふいに男の子の手が触れて、ツミキは自分が馬車に乗っていることを思い出した。その男の子はまだ夢の中にいたが、屋根の上から聞こえてくる不気味なカラスの鳴き声に怯え、ツミキの指を強く握っていた。彼の他の四人の子供たちも、同じように苦しそうな顔をしていた。

 ツミキは黒い檻をよじ登り、馬車の天井に手を触れた。その先に、イヤな空気を放つカラスがいるのがわかった。

 ツミキは再度子供達の睡眠を確認した。

 ——そして、拳で天井を貫いた。拳は木の根に変化し、それはそのまま頭上のカラスを貫いた。

 カラスの声は消え、天井からは光が差し込んだ。

 ツミキは穴から顔を出し、周囲を見回した。先ほどまであった建物や石の世界はどこにもなく、緑の生い茂る平原だけがどこまでも広がっている。よく見ると、遠くに長い石の壁が見えた。

「嘘だろ……、外じゃねぇか」

 目を覚ましたらしいカイザーが、ツミキと穴の隙間をよじ登ってきてそう言った。

「ヤバイぜ。ここは王都の外、魔獣の領域だ。このままだと俺たちは、王都に戻れない」

 普段は声の大きなこのリスが、ずいぶんと声のトーンを落として言った。それだけで、何か特別な事態なのだとわかった。

「外? 僕たちは、あそこに戻れないの?」

「そうだ。馬車から降りればすぐに、魔獣の餌食えじきになる。現状、自力で戻ることはできない」

 木は眉をひそめた。下の方からは、子供たちが目を覚ましたことを示す音が聞こえてくる。

「そんな……、困るよ。僕は、あそこに戻りたいんだ」

 あの街から離れてしまえば、少女たちに会えなくなる。彼女達はきっと、あの街のどこかにいるのだから。今のツミキにとって、彼女達に会うことは何よりも大切な目標だった。

「静かにしろ! そんなのは俺だって一緒だ」

 カイザーは荷台の中に戻って続ける。

「いいか? すぐの脱出が困難になった以上、このまま乗っているしかない。……おそらくこの馬車は、他国へ向かってる。それなら、必ず途中でコイツらのアジトを経由するはずだ。補給もなしに、他国まで馬車で行くことはできないからな。俺たちはそこを狙う! そこを制圧して、馬車と物資を奪うんだ」

「……そのあとはどうするの? それで王都に帰れる?」

「いや……、残念だがそう簡単でもないだろうな。王都じゃ、アンタはお尋ね者になっている可能性が高い。——俺たちが目指すのは、『神域しんいき』だ」

「神域……?」

 疑問を口にするツミキの前で、リスは床に五つの石を置いた。真ん中に大きな石。そしてその上下左右に一つずつ、それよりずっと小さな石を。

「これが、勇者国家『セントラル』を上から見たイメージだ。真ん中にあるのが、俺たちがさっきまでいた王都。周囲を壁で囲うことによって魔獣の侵入を防いでいる、セントラルの本土だ。そしてその周りにあるのが『神域』。王都の周りにあるパワースポットで、それぞれに小さな集落がある。あくまで噂だが、そこを統治している『守護者』って奴らは、いま王都と険悪状態らしい。そこなら、王都の奴らの手が及ぶ可能性も低い。しばらくはそこで身を隠そう」

 ツミキは、床に置かれた五つの石を見つめた。それから、真っ直ぐにリスの目を見た。

「……僕、人を探したいんだ」

「人?」

 怪訝そうな顔を浮かべるカイザー。けれど、ツミキは構わず続けた。

「そう。その子達は多分、今もあのお城の近くにいる。だから、僕は絶対王都に戻らなくちゃならないんだ! ねえカイザー、その神域に行けば、僕らはちゃんと王都に——」

 ——その瞬間、馬車が止まった。

 突然の停止に警戒するカイザー、ツミキは怯える子供達を抱き寄せ、周囲を見回した。

 迫る足音。そして次の瞬間、荷台の入り口が開かれ、中に二人の男が入ってきた。

 鼻から下に黒い布を巻き、肩幅のある大きな男達。頭の髪の毛は全て刈り取られ、ベストを身にまとっている。背丈や顔つきは違うものの二人はよく似たような格好をしていた。

「あ? 誰だお前?」

 男が、ツミキを見て低い声を出した。腕に触れる子供達の身体が、明確にこわばる。

「……大丈夫だよ」

 ツミキは笑いかけるような声でそう言った。しがみついてくる子供達。ツミキは歩み寄ってくる男達の方を振り返り、両腕を大きく広げて道を阻んだ。

 ——と次の瞬間、カイザーがその小さい身体で男の顎に飛び蹴りを喰らわせる。

「見つかっちまったら仕方がねぇ! コイツら倒して、馬車を乗っ取るぞ! ——っ、うわっ!」

 叫ぶカイザー。しかしその尻尾をもう一人の男が掴み、カイザーを空中に吊し上げる。

「ちょっ、やば……」

 男はゆっくりとカイザーを頭の上まで持ち上げ、地面に叩きつけるように振りかぶった。

「カイザー!」

 ツミキがカイザーの身を案じ、叫んだ瞬間。


 ——視界が揺れた。


 足元が大きく揺れ、突然馬車が横向きに転がった。

 馬の消え入るような鳴き声が聞こえ、そのまま馬車はひしゃげるように崩壊した。

「っ……、何……? みんな、大丈夫⁈」

 外へと放り出されたツミキは、すかさず子供達の姿を探した。

 外はすでに陽が傾き、暖色の光があたりを包んでいた。

 幸いなことに子供達はすぐそばにおり、大きなケガもない。檻の外枠たる馬車が崩壊したことで、子供達は全員檻から脱出することができた。

「よかった……」

「「——うわぁぁぁ‼︎」」

 ツミキがつぶやいた瞬間、向こうの方で男達が叫び声を上げた。

 振り返った先、そこには巨大な黒いオオカミが立っていた。波打つ体毛、鋭い牙、屈することを知らない強者の瞳。ツミキの身長の二倍はあろうかというその背丈から放たれる禍々しい圧力は、先ほどの衝撃がこの獣によるものだということを語るでもなく示していた。

「——魔獣⁈ 嘘だろっ⁈」

 いつの間にか足元に来ていたカイザーが叫んだ。その目には恐怖と動揺が浮かんでいる。

 すると、向こうにいる男達もまた激しく動揺した様子で口を開いた。

「おいぃ、おかしいだろ……! 忌避用魔獣はつけてたはずだ! このエリアの魔獣なら、あれで十分なはずなのに」

「っ、でも見ろよ! あのカラス、どこにもいねぇ! 逃げられたんだちくしょう!」

 ツミキは、再び子供達の前に立った。目の前にいるこのオオカミから、子供達を守らなくてはと思った。

 ふと、馬の鳴き声がした。見ると、離れたところに馬が一頭残っていた。それを見た瞬間、人さらいの男が一人、走り出した。

「っ! おい待て!」

 その直後、もう一人の男がそれを追いかける。

「へへ、悪いな! 俺はこの馬で逃げる!」

 そうして最初に走り出した男が馬に跨った瞬間——

 ——オオカミが、男達の前に立ちはだかった。それは、その巨躯からは考えられない程の移動速度、まるで瞬間移動のような速度だった。

「あ……」

 動きを止める男達。漆黒の狩人が、その口から白銀の牙を覗かせた。

 ——赤い血が緑の大地に散らばった。

 ツミキには、それを子供達に見せないようにする、という発想はなかった。けれど、この瞬間にツミキはそれをすべきだったと学んだ。歪んだ少女の顔が、それを教えてくれた。

 黒いオオカミは、ゆっくりと視線をこちらに向けた。その目に迷いや慈悲のようなものはなく、決定された事項を淡々とこなすような静けさすら感じられた。

 カイザーが足元で何かを叫んでいた。けれど、ツミキの意識は別のものに向けられていた。

 四人の子供達は皆、涙を流していた。ツミキの身体に触れ、「勇者さま〜っ!」と叫んでいる者もいた。


 ——その姿が、かつて木の下で泣きぬれていた、あの少女達と重なった。


 ツミキは悲しい気持ちになった。そう、ツミキは悲しかったのだ。涙を流す四人を見た時、ツミキは悲しいと感じていた。ツミキは、彼女達に笑顔でいて欲しかったのだ。

 かつて、少年と五人で過ごしていたあの時のように……。


 ——そうだ。あの子達から笑顔が消えたのは、『彼』がいなくなってからだ。『彼』がいなくなったから、彼女達は笑顔を失ってしまった。

 ——だからきっと、彼女達には『彼』が必要なのだ! 『彼』がいれば、あの子達は笑顔を取り戻すことが出来る。

 ——そして今、僕は『彼』の姿をしている。


 ツミキは両腕を大きく広げ、オオカミに向かって叫んだ。ただ、思いっきり声を出した。

「——あの子達に会う! 会ってこの姿で、彼女達をもう一度笑顔にするんだ!」

 ツミキの叫びに呼応するように、オオカミが吠えた。その眼が光り、巨体が木の方へと迫る。

「——バカ野郎! 逃げろ‼︎」

 背後でカイザーが叫んだ。しかし、ツミキは動かなかった。もはや退くわけにはいかなかった。世界の全てがスローモーションとなり、オオカミの血に濡れた牙がこの身体に迫る。それらがはっきり見えて、それでもツミキは動かなかった。

 迫る脅威。やわい身体にその牙が到達しようとした瞬間——


 ——ツミキは、後ろを振り返った。


 何かが、目の前の脅威を上回る強さでツミキの意識を引きつけた。

 それは、恐ろしい愚行。自らの命と、守ると決めたはずの子供達の命を危険に晒す行為。

 けれど、結果としてそのオオカミの牙がツミキ達に届くことはなかった。

 ——オオカミは動きを止めていた。ツミキに噛み付く直前で凍りついたように動きを止め、やがて、何かから逃げるように走り去った。

 ——そして、それはゆっくりと現れた。

 沈んでいく太陽。丘の影へと消えていくその円形と対を成すように、一人の少女が丘の影から姿を現した。

 ——風が吹き、亜麻色あまいろの長髪が夕焼けの空に舞った。

 少女は、白い馬にまたがっていた。左目を隠すように伸ばされた前髪に、胡桃色の右眼。あの時よりもずいぶん伸びた髪は、一房だけ勿忘草色に染められている。

 身に纏うのは、白銀はくぎん軽鎧ライトアーマーと純白のマント。陽を受けて淡く光るそれは、戦闘装束せんとうしょうぞくでありながらどこか神聖な気配をまとっていた。腰には白い鞘の長剣がさげられ、短いプリーツスカートと膝下に装着した白銀のプレートアーマーの間からは、ハリのある力強い太ももがのぞいている。全体的に白の印象を受けるその姿は、危うさにも似た純潔じゅんけつの気配を彼女に付与し、唯一染められたその一房ひとふさの髪をより一層際立たせていた。

「あの子だ……」

 ツミキは、確信していた。それはかつて、自分の下で遊んでいた子供達の一人。あの少年に想いを寄せていた四人の少女の内の一人だと、尋ねるまでもなく確信していた。

 少女もまた、揺れる瞳をツミキに向けていた。それはきっと、ツミキと同じだった。その気配が視覚よりも先に意識をひきつけ、それ以外の全てを消し去るように景色を一点に集約させていた。

「ミゾレ・シオン⁈ マジかよ、なんでこんなところに……‼︎」

 足元で、カイザーが驚きの声をあげた。その響きは、ツミキの記憶を刺激するものだった。

「カイザー、あの子を知っているの?」

「当たり前だ! 勇者ヒノデのパーティーメンバーの一人、ミゾレ・シオン。俺たちが目指す予定だった神域の『守護者しゅごしゃ』‼︎ 勇者の意思を継ぐ人間だよ」

「……あの子が、この子のパーティーメンバー? 神域の……、守護者?」

 ツミキが再び目を向けると、。彼女は瞳に大きな困惑を宿したまま、呟くように口を開いた。

「……違う、そんなはずないっ。あれは魔獣、人の姿をした魔獣だ……! だって、そうでなかったら……、私は……」

 その時、彼女を挟むようにして丘の影から二人の男が姿を現した。おそらくミゾレよりも一回りは年上の男達。鎧を身につけ、共に茶色い馬に跨っている。

 二人が現れるのと同時に、ミゾレは瞳から激しい動揺と困惑を消し去った。

「あれは……、勇者ヒノデ? いやまさか、そんなはずは……。魔獣?」

 男の言葉に、もう一人の男が口を開く。

「ミゾレ様の力が及んでいません。少なくとも、魔獣ではないのでは……?」

 目を見合わせる男達を背後に、ミゾレは毅然とした居住まいを崩さない。彼女はそのまま馬で丘を下ると、ツミキと馬三頭分くらいの距離を取った地点で止まり、鋭い目つきを向けてきた。

「——名乗れ!」

 ミゾレが叫ぶと、カイザーはツミキの足をよじ登りその背中に隠れた。

 ……どうしよう。ミゾレは、僕のことをあの少年だとは思っていないみたいだ。それに、彼女はさっきからずっと怖い顔をしている。どうして? この姿を見たら、きっと笑ってくれると思ったのに。どうしてそんな怖い顔をしているの? この少年に会えたら、嬉しくなるんじゃないの? ……それともまさか、ミゾレはこの子を忘れてしまったの?

「——答えろ! お前の名前はなんだ⁈」

「っ! えと、わからない……。あ、そうだツミキ。カイザーが、僕をツミキって呼んだ!」

 反射的にそう答えるツミキ。その言葉を聞いて、彼女の目つきがさらに鋭くなった。

 すると、背後からカイザーが小さな声で耳打ちをしてくる。

「(なに答えてんだお前! 見ろ、明らかに疑われてる……。このままだと、正体不明の敵として対応されちまうぞ!)」

 カイザーが言った次の瞬間、彼女が片手をパッとあげ、背後の男達を呼び寄せた。

「神域まで連れていく! とらえろ!」

「「はっ‼︎」」

 男達は馬を降り、ツミキに迫る。耳元で、カイザーが逃げろと叫んだ。

 その時、男達とツミキの間に子供達が割り込んだ。彼らは両腕を広げ、震える声で男達に叫ぶ。

「この人をいじめないで!」「私たちを助けてくれたの!」

 その言葉に、男達は一瞬動きを止めた。しかしすぐに目配せすると、ツミキから距離を作るように子供達を取り押さえた。

「やめろ! 勇者様に近づくな‼︎」

 女の子が、男の手に噛み付き、それをきっかけに子供達が激しく暴れ始める。男達はそれを取り押さえようと腕に力を込めた。

「待てっ‼︎」

 ミゾレの声で、男達は動きを止めた。ミゾレは馬から降りると、男達の方へ歩み寄った。

「……私が話す。お前達は、合図があるまで向こうの岩の裏で待機しろ」

「しかし……」

「強面のお前達がいては、この子達も怯えてしまう。命令だ、いけ!」

「っ、了解!」

 男達がいなくなると、ミゾレは拳を構える子供達の前で地面に片膝をつき、フッとその顔から鋭さを解くようにして笑った。それは、引っ込みじあんで臆病で、けれど他の少女の誰よりも優しかったミゾレ本来の表情に見えた。

「驚かせてごめんね……。私の名前はミゾレ・シオン。この先にある神域を、魔獣や他の脅威から守る仕事をしているの」

 目の前で放たれる優しい声音に、けれど子供達は警戒を解かない。

「私は乱暴はしないよ。……信じられなくてもいい。ただ、じきに夜になる。この辺りは魔獣が多くて危険なの」

「魔獣⁈」

 魔獣というワードに、子供達が怯えを見せる。

「だから、私と一緒に来て? あなた達を保護したいの。私のいる神域なら、安全に夜を過ごせる」

 そう言って手を差し出すミゾレ。真っ直ぐに向けられたその瞳を見て、一人の少年が手を伸ばした。しかしその手を、横から別の少女が止めた。

「……あんたもアイツらと同じじゃないの? あんたも、私たちを騙そうとしてるんでしょ! 私たちが弱くて小さいからって、都合よく連れ去ろうとしてるんでしょ!」

「っ、それは……」

 放たれたその言葉に、ミゾレは言葉を詰まらせた。鋭い目をした子供達。傷つけられ、閉ざされた心、その視線。それは心に深く植え付けられたものであり、それをこの場で解きほぐすのは限りなく不可能に近いことのように感じられた。

「……私も、君たちと同じような立場だったことがあるんだ」

 そんな子供達を前で、ミゾレは深く息を吸ってからそう答えた。

 唐突に放たれた一言に、子供達が顔に疑問を浮かべる。

「信じてもらえないかもしれないけど、私は元々、王都のスラムで暮らしていたの。……理不尽に奪われ、騙され、奪い取ることでしか生き延びることができない毎日。人を信じる心はどこか遠くへ消え去って、希望なんてどこにもなかった……」

 ミゾレの言葉に、何人かの子供達が表情を変える。

「僕たちと同じだ……」

 だが次の瞬間、鋭い目を向ける少女が腕を大きく振り払う。

「なんの話をしてるの⁈ 大人はいつもそうやって——」

「——私なりの答えについての話だよ。君たちの疑念に対する、私なりの答え」

 剥き出しの言葉に、けれどミゾレは慌てることなく、ある種の重力を宿したトーンで言葉を返す。その雰囲気に、鋭い目つきの少女もグッと押し黙る。

 ミゾレはフッと笑うと、子供達一人ひとりの目を見て、それから口を開いた。

「……真っ暗な日々の中で、私は一人の男の子に出会った。私の人生で初めての、信じることができた相手……。その人がくれた答えを、私も君たちに返すよ」

 ミゾレはそう言うと、左手で前髪を掻き上げ、両腕を広げて目を大きく見開いた。

 ——若葉色わかばいろの瞳が、姿を現した。

 それは胡桃色くるみいろの瞳の横で、木漏れ日の中の木の葉のように輝いていた。

 ミゾレは息を吸い込み、まるで遠い記憶を呼び起こすように、過ぎ去ったいつかを蘇らせるように、どこか芝居がかった口調で言葉を放った。

「『私の目を見ろ! よ〜く見るんだ‼︎ ……そして決めろ。私が、君たちの全てを賭けるのにふさわしい人間なのかを!』」

 ミゾレの言葉に、子供達は動きを止めた。その目は、じっとミゾレの瞳を見つめていた。

 やがて、一人の少年が彼女に歩み寄った。それに続くように一人、また一人と彼女の方へ歩み寄っていく。そしてついに、四人全員が彼女の方へ一歩を踏み出した。

「……ありがとう」

 四人の子供達は、わんわん泣き出した。彼女に抱きついて、大きな声で泣いていた。ミゾレはその背中をそっと抱き返し、子供達が泣き止むまでそれを続けていた。


 陽が姿を隠し、東の空に夜の影が差し掛かった頃、彼女は口笛を鳴らした。その音で、岩の影に隠れていた男達が戻ってくる。

 ミゾレはゆっくりと立ち上がると、先ほどまでとは打って変わった鋭い目つきでツミキの方を睨みつけた。

「……この子たちを頼む。私は、あの男を確保する」

 その一言で、子供達がハッとしたように彼女の足にしがみついた。抱きしめるためではない、動きを封じるために。けれど、そんな彼らをすぐに大きな男二人が取り押さえる。

「逃げて! 勇者様‼︎」

 子供達が叫んだ。続けて、ツミキの肩からカイザーも飛び出してくる。カイザーは彼女の顔目掛けて飛び蹴りを放ち——彼女の右手によって地面に叩き落とされた。

「ぐはっ……‼︎ ……っ、逃げろ‼︎」

「逃げて!」「逃げて勇者様‼︎」

 鋭い眼光で近づいてくるミゾレ。その姿に、皆が叫んだ。

 ついに彼女はツミキのすぐ目の前までたどり着き、静止した。全身からはピリピリとした圧力が放たれ、その拳は強く握られている。

 そのまま一歩を踏み込んでくる彼女に、子供達が、カイザーが、「逃げろ」と叫んでいた。

 ——けれどツミキは、動かなかった。ツミキだけは、わかっていた。


 ——ぼふ。


 亜麻色の髪の少女がその身体に抱きつき、ツミキの身体を小さく揺らした。

「「「「「「「え……?」」」」」」」

 その場にいた、ツミキ以外の全員が声を漏らした。

 齢十七年の少女は、震えていた。肩を、指先を小さく震わせて、『少年』の姿をしたツミキを、強く強く抱きしめていた。

「……痛い」

 ツミキがそう呟いても、その腕は一切ゆるまなかった。

 やがて、彼女は崩れるように地に膝をついた。その二色の瞳から、大粒の涙が流れていた。けれどそれは、あの時の涙とは違うものだった。その雫が、ツミキの心にも染み渡った。

 ふいに、彼女が両手でツミキの手を握った。

「……あたたかい」

 頭を垂れるようにして、彼女はそれだけ口にした。

「あたたかい……」

 肩を震わせ、涙を流す少女——その、熱を帯びた細くやわらかな小さな手。


 ——それが、『木』が初めて感じる『少女』の温度だった。

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