第3話

 ふかふかとした落ち着いた色の絨毯を踏み締めながら、薄暗い廊下を歩いていく。壁に掛けられたモダンなランプに導かれ、ひとつの部屋の前にたどり着いた。エルヴィラはノックもせずその扉を開け、すぐにその中へ入った。私もそれに続く。


 本だらけだ……。


 書斎だろうか。小さな部屋だけど、壁一面に広がる本棚がそこにはあった。レースのカーテン越しに柔らかい光が、私のとまどいと、古い本の匂いを照らしていた。


 ニーナがトランクを開けると、エルヴィラが中に入れていたものを取り出した。私はそれを横目で見ながら、本棚へ近づく。本は好きだ。へそを曲げたり、私を叱ったりしない。しかし……。『アニリン』の隣に『嘔吐』がある。その隣は『私からあなたへ。恋人と恋人になりたい人のための物語とその道徳を備えた書簡小説』。いったいどういう選び方をしているのだろう。あれだけ売れている『風と共に去りぬ』はなさそうだし。ああ、これ。『アクロイド殺し』だ。何度か読んでいる。また読みたくなって私は手を伸ばす。その手をエルヴィラがつかんだ。


「リリロア様。支度をなさってください」


 私はエルヴィラへあきらめたように言う。


「逃げませんから」

「信じられません。あなたは私が信じられないことをたくさんしています」

「そうですか?」

「トイレに行くと言って逃げたのが18回、仮病が35回、本の中に妖精がいると叫んだのが2回……」


 エルヴィラは、そのまま私の服を片手で開けだす。


「それぐらい自分でできます」

「そうでしたね。はい、腕を上げてください」

「だから……」


 そのあとの言葉を飲み込む。ニーナが持ってきた服を広げて見せてくれたから。まぬけな私は、姉とヴァウェンサ議長と同じ深蒼の服を着るのだということを、いまこの瞬間に思い知った。


 ずっと着ることはないと思っていた服が目の前にある。

 ニーナはその服を手にしたまま、涙ぐんでいた。


「実は、少し前に仕立てていました。お袖を通される日が来るなんて……。私、胸がいっぱいで……」


 何も言えなくなる。どこか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 無理だよ……。

 だって、私は……。

 ずっと逃げているんだから。


 ニーナがジャケットを広げて、私に腕を通させる。エルヴィラが離した腕にもそうする。少し重い。そして、ふわりとやわらかい匂いがした。

 エルヴィラは私の前に回ると、ボタンを上から留めだした。


「先日、日本の酒匂大使とお話ししたときに、リリロア様にぴったりの言葉を教えてもらいました」

「なんですか?」

「内弁慶」

「えと……。どういう意味ですか?」

「外では猫なのに、家の中では虎になる。そんな意味だそうです」

「虎なんかじゃ……」

「そうでしたか? いつもお屋敷ではガオガオとされておいでですよ」


 エルヴィラが手のひらを虎の耳のように頭に乗せ、虎の真似をする。

 不意打ちだった。

 普段からおどけたことをまったくしないエルヴィラだったから、私はついくすりと笑ってしまった。


「リリロア様。その表情を忘れずに。つらくなってもいまの話を思い出して、お笑いください」


 言われなくても、と返事をしようとしたけれど止めてしまった。エルヴィラが思う精いっぱいの手向けなのだろう。私は自分の力だけで、ほかの〈聖使徒〉達と対峙する。ヴァウェンサ議長とも。そしてそれはエルヴィラとも……かもしれない。

 いまの私には気が重くなることしかない。それでも笑えと言うことなのだろう。


 ふわふわするペチコートをニーナに履かせてもらい、プリーツの折り目がきっちり付けられたスカートを通す。サイドケープを肩につけている最中に、エルヴィラが私の耳に琥珀のイヤリングを付け、髪を整えてくれた。

 できあがったらしい。いままで泣き顔だったニーナの顔が、ぱああと輝いていた。


「素敵です、リリロア様。とてもお似合いですよ」

「そうかな」

「そうですよ。本当にそうなんですから」


 自分ではわからない。指先で襟の端を整えながらエルヴィラは言う。


「青は私たちを育むバルト海の色。金糸は小麦畑の豊穣さ。琥珀は女神ユーラテが流した涙。この服にはすべてにいわれがあり、我が国が育んできた歴史です」


 ニーナがひざまついて銀色の細い剣を私の前にうやうやしく差し出した。それは何度も父から聞かされていたものだった。我が家に伝わる、先祖からの思いを形にしたもの。私たちのすべて。エルヴィラはそっと目を閉じ、かしこまった声で私へ告げる。


「この剣は、相手を刺すものではなく、失言した己の口を刺すためのものです。あなたが本当に持つ剣は、言葉です。どうか、剣を言葉に代えてお戦いください」


 わかっている。

 でも……。


 私はエルヴィラが捧げる剣をじっと見つめた。


 そんなことが私にできるのだろうか。

 そして、私は誰と戦うのだろうか。

 姉、議長、エルヴィラ。そして、この世界のすべて……だろうか。


 それに……。

 エリシュカとは戦えない。戦いたくなんかない。


 その疑問に答えるように、さっき手にしようとした小説の一節が、心の中に浮かんだ。


 ――真相を隠しておきたいが、逃げ道がひとつだけある。


 結局のところ……。

 やるしかないのだろう。


「わかりました」


 剣を片手でつかむ。それを腰のベルトにあるホルダーに通す。その重さが私の心を揺さぶる。やっぱり家に引きこもっていればよかったと、心のどこかで後悔していた。


†††


 支度を終えたときだった。他の〈聖使徒〉は席について待っていると、衛兵が呼びに来た。私たちは急いで二階にある議場へと向かった。手すりに四角い幾何学模様が幾重にも描かれた、モダンの粋と呼ばれている大階段を駆けあがる。踊り場のステンドグラスからは夏の熱をじわりと感じた。


 私は階段を上がりながら、とんでもないことをしてしまったのではないかと思い始めた。ほかに誰かいなかったのか、こんな私にできるのか、期待に応えられるのか、それとも……。私は本当に〈聖使徒〉になれるのか。


 やっぱり……無理だ。


 立ち止まって振り返る。後をついているエルヴィラとニーナが私を見上げる。ふたりは不思議そうに私を見ていた。ニーナが何かを察したのか、何もしゃべらないでいる私へ、自信に満ちた声で言った。


「大丈夫です」


 その一言で私とニーナのこれまでが心の中に浮かぶ。どうにもならなくて、泣いてばかりいる私を、ニーナはずっとこの一言で支えてくれた。


 だから、きっと。

 大丈夫……なんだろう。


 私は「ありがとう、ニーナ」と静かにつぶやく。それから私は前を向いた。


 階段を上がり、複雑な廊下の奥へと進む。気付いた衛兵が私を漆黒の扉まで先導してくれた。立ち止まる。ふうと息を吐く。それから衛兵に向け、エルヴィラから教えられた言葉を伝えた。


「リリロア・フォン・カリディスは、青き〈聖使徒〉として、女神ユーラテのおそばに参りました」


 ゆっくりと扉が開かれた。エルヴィラとニーナが一歩後ろに下がる。取り残された私が見たのは、降り注ぐ柔らかい光の中、円卓の周りに座る四人の少女達だった。


 一番前にヴァウェンサ議長。手を組み合わせて、静かに私を見つめている。


 その左には私の姉、イングリッド・フォン・カイザーリンク。司るのは、我が国の全軍。それにふさわしい厳しさを私に向けている。


 姉の隣には、金髪の髪をぴっちりとさせ、小さなおさげをふたつ結わったチビっ子がいた。知っている。ユスティナ・シェーアバルトだ。家のパーティーに何度か来ていた。外務を司り、その苛烈な口撃は時折ゴシップのネタになっていた。


 それから……。私は黒髪を束ねたその人から目をそらす。エリシュカ・ミスロヴァナ。財務の全権を持ち、そして……私の親しかった人。


 ヴァウェンサ議長が私に手前にある空いた椅子へ手を向ける。


「さあ、そちらへお座りなさい。あなたを新しい〈聖使徒〉として迎え入れます」


 私は空いている椅子に手をかける。その背には赤いリボンが結わえてあった。きっと、行方不明の〈聖使徒〉のものなのだろう。だからかもしれない。そこに座ると、どこか不気味な冷たさを感じる。私はそれでも前を向く。円卓の向こうにいる四人が、私を見つめ返す。それは、これから戦う敵と対峙する騎士のようだった。


「では、始めましょう」


 ヴァウェンサ議長の一声で、みんなは私から円卓へ目を移す。手を胸に当てるのを見て、開会のために聖句を唱えるのだとわかった。この国にいる人間ならみんな知っている祈りの句。幼い頃、姉がよく〈聖使徒〉の真似をしながら私へ見せていた。覚えている。あのとき私は、姉と一緒にそうなろうとしていたから。


「迷えし我らに寄り添う、やさしき女神ユーラテよ」と、ヴァウェンサ議長が微笑む。

「月はあなたの影を抱き」と、姉が目を閉じる。

「波はあなたの涙を呑む」と、ユスティナ・シェーアバルトが腕を組む。

「水底の闇は深くとも」と、エリシュカ・ミスロヴァは私を見ずに言う。

「あなたを救わんと我ら〈聖使徒〉は誓う」と、私はとまどいながら言う。


 そして、皆で声を上げる。


「「「「女神ユーラテに祝福を。我らがヴェステルプラッテに栄光あれ」」」」


 この国の行く末を定める会議が始まった。

 この国の憧れが戦いだした。

 そして私は……。

 戦わねばならなくなった。あらゆるものと。


†††


 一時間後、私は思い知らされた。あきらめていたとはいえ、ここは憧れの場だった。なのに、そんなものはどこにもなかった。黒い泥を蹴散らし、薄汚く肉を剥ぐような舌戦が目の前で繰り広げられていた。その口火を切るのは、いつもユスティナ・シェーアバルトだった。

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