第2話
怒鳴り声が外から聞こえた。私はその声に聞き覚えがある。聞きたくないのに、私の耳へ嫌でも入る。
「ならん!」
「しかし、敵対するより融和を目指したほうが……」
「ならんと言っている! おまえたちは〈神託機関〉を何だと思っている? 決定が下されない限り、我々は動かん」
「それでは手遅れになります!」
「なら、手遅れになればいい。それが女神の神託なのだから」
ぞっとするほどの冷酷な声だった。
怖い……。
私はその恐怖を幼い頃から知っている。
私の体に影が差す。その声の主、私の姉であるイングリット・フォン・カイザーリンクは、車の中にいる私を見下ろし、怒声を浴びせた。
「リリロア! 何をしているんだ、おまえは!」
亜麻色の長い髪が肩から垂れ下がる。剣術に優れ、成績は常に一位。さまざまな大学やスポーツの世界大会から、ひっきりなしに誘いがかかる文武両道の優秀な姉。我がカリディス家の自慢の令嬢、そして私にとって、恐怖そのものだった。
姉が養子に出される前は、よくこうして私を座らせて叱責していた。でも、その頃と違うものがある。それは服だ。海のように深い青色をした礼装服、左肩には金色の飾緒を下げ、右側には女神の羽を刺繍したサイドケープをはためかせている。ボタンには琥珀がきらめき、腰には細い銀色のサーベルを下げていた。
深蒼の〈聖使徒〉。全国民の憧れの象徴。
恐れる姉は、それをまとっていた。
「帰れ、リリロア。この引きこもりが。ここには来るなと、昔から言っているはずだ!」
姉に叱責されると、高い塔の上にいるときみたく身がすくむ。その声は氷のように感じ、どこか落ち着きを失わせる。釈明をしないと、ますます怒る。それがわかっているのに、私は言葉が出せない。
だから、私は感じる。
いつもの姉ではないことに。
だいぶ焦っている。怒鳴る声に鋭さがない。どこかがおかしい。でも、そのどこかはよくわからない。
私が黙ったまま考え込んでいると、姉は、そのいらいらとした気持ちをエルヴィラへぶつけた。
「どういうことだ、エルヴィラ。再三申し付けているはずだが」
エルヴィラは笑みを消し、いつもの仮面をつけたような表情に戻る。それから姉へ事務的に答えた。
「お久しぶりです。イングリッド様。いえ、イングリッド・フォン・カイザーリンク閣下」
「それで? これはなんだ?」
「議長閣下からお聞きでは?」
「それでも、リリロアはダメだ」
姉は冷めた目を私へ向ける。いつも言われている苦言の数々を、その視線に感じる。
無理。やっぱり無理だ。
私は家にいたほうがいい。こんな現実とは離れたところにいるべきだ。ベッドでずっと本を読んでいたい。そうやって朽ち果てて、誰にも思い出されない人生がいい。そう言おうとしたときだった。姉の後ろから声がかかる。
「ごめんなさい、イングリッド」
姉が振り向く。私にも聞き覚えがある声だった。
ああ、やっぱり……。
腰まであるキラキラとした琥珀のような髪をなびかせて、〈聖使徒〉を束ねるこの国の最高権力者、ミレナ・ヴァウェンサ議長が私たちの前に姿を現した。国民で知らない人はいない。どんな女性にも負けない美しさと気品を持つ人だった。人によっては神だと言うし、グレタ・ガルボを超えると言う人もいる。
私ですら見惚れてしまう。輝いているという言葉は、この人のためにあるんだと思ってしまった。そんな人が、私と姉の間に入り込む。
「イングリッド、私が悪いのです。エルヴィラ・トゥスク女史に頼んで、あなたの妹をここまで連れてきてもらいました」
「ヴァウェンサ議長、それはいささか不適切かと」
「なぜですか?」
「リリロアは、あのウルシュラの代わりにはなりません。いまは緊迫した状況です。何かを間違えれば我々はこの国を失う。数合わせのために、この引きこもりの手を借りるほど、我々は無能ではありません」
姉の正論過ぎる声を聞いて、体が震える。実際そうなのだ。私は無能だったから〈聖使徒〉に選ばれなかった。姉は優秀だったからカイザーリンク家に引き取られ、〈聖使徒〉に選ばれた。
ただ、それだけのこと。
ただ、それでいいと思っているのに……。
どうして私はわずかな悔しさを感じているのだろう。
「イングリッド。私はそう思っていません」
私は驚いて、ヴァウェンサ議長を見上げた。名前は知っていたけれど、ヴァウェンサ議長とは今日初めて会ったばかりだった。こんな私に何を期待しているのか、理解に苦しむ。誰かがそそのかした? エルヴィラが? そうなら、どうして私なんかを?
ヴァウェンサ議長が姉の肩にぽんと手を置いた。しぶしぶ姉は後ろに下がる。それからヴァウェンサ議長は、車のドアの前にひざまずくと、私を舞踏会のダンスへ誘うかのように手を差し出した。
「さあ、リリロア・フォン・カリディスさん。あなたはどうしたいのですか?」
向けられた人の心を溶かすような甘い笑みを、ヴァウェンサ議長は浮かべている。どんな人であろうとも、すぐにその手を取るだろう。
でも、私は……。
だって、姉に叱られる。
そして、〈聖使徒〉になったエリシュカに会ってしまう。
そんなの無理だ。
とても、とても……。
無理なんだから。
うつむいて黙っている私に、姉は言う。
「それでいい。その手はきっとリリロアを苦しめる」
わかってる。
私があきらめたら、それでいい。
そうすればみんなが怒らない。許してくれる。
でも、ヴァウェンサ議長は許してはくれなかった。
「さあ、おいで」
ヴァウェンサ議長の白い腕が私の手をつかむ。引っ張られた。まるで巣穴から追い出されたネズミのように、私は車から引きずり出された。よろめきながら立ち上がると、思わず姉と目が合った。
「えと……」
「それはダメだ」
ヴァウェンサ議長から私を引き剥がそうと、姉が手を伸ばす。車から降りてきたエルヴィラが、その手をつかんだ。
「勅命なく議長閣下に触れてはいけません、イングリッド様。不敬に当たります。そのことは私があなたに教えたはずですが」
それを聞くと姉は、ニガヨモギを口いっぱいに頬張ったような顔をした。それから私たちに背を向け、何も言わずにひとりで玄関の奥へと向かっていった。
ヴァウェンサ議長はそんな姉をくすくすと笑いながら見送ると、まるでいたずらが成功した子供みたいな表情を浮かべていた。
「さあリリロアさん。行きましょうか」
私に手を添えて、ヴァウェンサ議長がうやうやしくエスコートしてくれる。私はそれに従って歩きだす。
こんなことは一生起きないと思っていた。
でも、この支えてくれる手が、そうではなかったことを教えてくれている。
それでいいのか、わからない。わからないままでいたい。
私には無理なのだから。
ヴァウェンサ議長に導かれたまま、ガラスレリーフの扉の向こうへと踏み入る。あふれる柔らかい光が、私にベールをかぶせたように包み込んだ。ヴァウェンサ議長は、そのまま玄関ホールの中まで、とまどう私を導く。
そして、私たちは立ち止まる。そこには私よりも大きい女神ユーラテの大きな像があった。大きな天窓から差す光に照らされた乳白色の女神は、どこまでも慈愛に満ちていた。救いを求める私たちに手を差し出し、広がる大きな羽は、こんな私ですら包もうとしているようだった。
誰でも知っている逸話が頭の中に浮かぶ。女神ユーラテは人間を愛してしまい、激怒した父神がその恋人を殺してしまった。その嘆きはバルト海の波となり、涙は琥珀となった。それでも女神ユーラテは、私たちのそばにいてくれた。
そのやさしさが私たちを照らしている。
そのやさしさを守るために〈聖使徒〉がいる。
そして思い知る。
誤ったやさしさを叱られた私が、居て良い場所じゃないことを……。
ヴァウェンサ議長が、私と手をつないだままで祈りを捧げていた。胸にもう片方の手を当て、頭を下げている。女神ユーラテと同じ光に包まれながら、その凛々しさを捧げている。
私は思う。もし本当に女神ユーラテがいるのなら、きっとそれはヴァウェンサ議長と同じ姿をしている。
ヴァウェンサ議長がゆっくりと目を開けた。それから、女神と良く似た笑みを私へ向けた。
「ようこそ、〈神託機関〉へ」
「えと……」
「私は〈神託機関〉議長として、リリロアさんを迎え入れられたことを、嬉しく思っています」
もう隠せなくなった。きっと神に出会った人間は、こうやって恐れおののきながら己の罪を告白するのだろう。
「私は……議長閣下が思っているような人間ではありません」
「なぜ、そのように思うのですか?」
「それは……、私がそう思うからです」
「リリロアさんは気にしすぎです。だって、あなたは……」
「100年に一度の逸材と言われたイングリッド・フォン・カイザーリンクの妹だから、ですか?」
「あなたは、そのように思っているのですね?」
「違うのですか?」
「少なくとも、私は違うと思っています。あなたにしかできないことがあるのですから」
わからなかった。それは、どういうことだろう。エルヴィラといい、私をなんだと思っている。ただの引きこもりなんだぞ。
私がそう口を開こうとしたら、ヴァウェンサ議長がそれを遮った。
「リリロアさん。私は議場で待っています。きっとあなたは活躍します。私はそう信じています」
握られていた手が離れる。触れた熱が冷めていく。これを寂しさと言っていいのかわからない。それでも優雅な階段を一歩ずつ上がっていくヴァウェンサ議長を見ると、そんな感情が心に満ちた。
こんな私に何を期待しているのだろう。こんなにも何もできないのに。
でも、あの人は私を必要としてくれた。だから……。
私はがんばらなくてはいけない。
そう思い込みたかった。
でも、私にはそれができなかった。
ヴァウェンサ議長も何かを隠しているから。
〈聖使徒〉になるには厳格な審査がある。議長権限は確かに強く、任命も罷免も出来るが、それでも他家への配慮など、たくさんの根回しという名の調整がいる。急にこんなことはできないはずだ。なら、エルヴィラとヴァウェンサ議長が何か結託している? なんのために? どうして〈聖使徒〉がひとりいなくなった? どうして……。
後ろから聞こえたエルヴィラの冷たい声が、泥沼でもがくような思案をしていた私を現実へ引き戻す。
「リリロア様、控えの間にご用意があります」
「え……あ、はい?」
「お着替えを」
それだけ言うと、エルヴィラは私の前に出て、一階の奥へと続く廊下のほうへ向かった。ニーナが車から下ろした大きなトランクをよいしょっと抱えると、私の後ろから「さあ、リリロア様、行きますよ」と元気よく声をかけてくれた。
私は何と言っていいのかわからなくなって、あいまいに返事をした。いつもそうしているようにすべてをあきらめると、私はふたりの後を追いかけた。
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