神託機関 ー円卓で斬り結ぶは言葉、少女は戦争へと抗うー
冬寂ましろ
1日目 1939年8月25日
第1話
1939年の夏の日を思い出すことは、いささか苦労がいることです。それは歳を取ったせいもありますが、あまりに苦い思い出ばかりだったからです。
あの暑い夏の日、私たちは戦争に巻き込まれました。ナチスドイツは世界を飲みこもうとし、狡猾なソ連がそれを利用しました。イギリスはそのことにとまどってばかりいました。世界は、夏の暑さに当てられたかのように、叡智を極めた人類とは思えない、不可解な行動を取っていました。
でも、思うのです。
あの日があったからこそ、私はひとりの人として立ちあがることができました。言葉ひとつで、何万人も死に、そして何百万人も生きることを思い知らされたのですから。
――リリロア・フォン・カリディス回顧録『人として』より
■1日目 1939年8月25日
菩提樹の並木から落ちる影が、窓ガラスの向こうからやってくる。私の広げた手のひらに流れていく。車は石畳の上を進む。このまままっすぐ行くと、もうすぐ運河が見えてくるだろう。少し開けたドアの窓から、少し湿った夏の潮風が吹き込む。どうしても前を向きたくない私は、その隙間から風の向こうを眺めていた。
運河に浮かぶ小さなはしけが動き出す。
カフェで話し合うおじさんたちが笑い合う。
石造りの家々が並ぶ通りを子連れのお母さんが歩いている。
街の中には、いつもと変わらない夏の風が流れていた。そう思っていたかった。
車が通りを曲がる。その先には、女神ユーラテの市が開かれているようだった。色とりどりに塗られた屋台で、店のおばさんが子供にクレムフカを手渡している。甘いクリームを挟んださくさくのパイ。あれは気を付けて食べないと、真ん中のクリームが飛び出て大惨事になる。ほら、子供がクリームを落とした。やがて子供は声を上げて泣きだした。
ふいに思い出す。
……あのとき、エリシュカは泣いていたね。
もう会えないと告げたエリシュカへの思い出に、私はそうつぶやく。
幼い頃、私は母を亡くした。父はまだ幼い私を慰めようと、ベルリンの動物園へ連れ出してくれた。姉と一緒に仲が良かったエリシュカも来てくれた。夏の陽射しに照らされながら、みんなで動物たちを眺める。シロクマもペンギンも夏の熱気に当てられ、少しぐったりとしていた。かわいそうに思ってしまったけれど、みんなに気遣って欲しくなくて、私は楽しんでいるふりをした。
姉はそんな私のことをよく知っていたのかもしれない。あのとき、いつも厳しい姉にしてはめずらしく、私へクレムフカをくれた。そしてエリシュカにも。あいまいに笑ったままでいた私へ、エリシュカは「元気になれ!」と魔法使いの踊りのようにおどけてみせた。そのとき、持っていたクレムフカのクリームが飛び散った。べたべたとクリームが垂れた私の顔を見て、エリシュカは泣きだしてしまった。叱られると思ったのかもしれない。ううん、違う。エリシュカなら、自分がひどいことをしたと自分を責めていたのだと思う。
だから、私は「大丈夫だよ」と言って、頬に付いたクリームを指先にすくい、美味しそうに舐めて見せた。エリシュカはきょとんとして、それからすぐに、くすくすと笑ってくれた。そのときの顔はいまだに覚えている。あんなに嬉しそうに笑うんだもの。
そして姉は、エリシュカと一緒に笑いだした私を見て、厳しく叱った。
「リリロアはやさしすぎる。そんなことをしてはダメだ」と……。
誰も泣かないで欲しかった。
誰も怒らないで欲しかった。
そうするために私は何でもした。
そして、何もできなかった。
だから、私は……。
無理なんだ。
なにもかも。
「お聞きですか、リリロア様」
聞きたくないから窓の外を眺めていたのに、向かいに座るエルヴィラ・トゥスクが邪魔をする。この女は、かけているメガネすら尖らすように怒っている。まとめた黒髪はいつか赤く染まってヤギの角が生えてくるに違いない。
エルヴィラはいつも私に厳しい。それは姉の持ち物だったから。きちんと言えば我が家の家計と経営戦略を握る〈執政室〉の〈筆頭執政官〉という役職になる。エルヴィラは、やがて我が家の長となり、〈執政室〉を父から受け継ぐはずだった姉を、付きっきりで教育していた。でも、その姉はカイザーリンク家の養子になった。もう5年も前になる。エルヴィラも姉と一緒にカイザーリンク家へ行けばよかったのに、なぜか私のそばにずっといる。
私は、それが嫌でたまらなかった。
だって私は、あんなに優秀な姉の代わりには、なれないのだから。
エルヴィラの隣に座る私付きのメイド、ニーナ・マイェリンが、私たちをハラハラしながら見ていた。茶色のくるくるした毛が、困った犬のように揺れている。さすがにかわいそうになってきて、私は口を開いた。
「無理です」
その言葉に、エルヴィラは大げさにため息をして見せた。
「リリロア様、ご事情を説明したつもりですが」
「それはわかります。でも、無理です。私はずっと家に引きこもっていたんです。そんな私が〈聖使徒〉なんて、できるわけがないでしょう?」
「失踪した〈聖使徒〉については捜索を続けています。リリロア様が〈神託機関〉に出仕されるのは、この〈聖使徒〉が見つかるまでの間だけでかまいません」
「無理です」
「先ほども説明したように、隣国ドイツは戦争の準備を進めています。昨日はあろうことか独ソ不可侵条約が結ばれました。後顧の憂いを絶ったナチスドイツは、これで我々の良き隣人であるポーランドへすぐにでも侵攻するでしょう。そんな状況下で、我が国、ヴェステルプラッテに政治的な空白を作ることは許されません。〈聖使徒〉が一名行方不明であること自体、ナチスドイツの侵攻を招きかねないのです」
何度も言われていることに、私は辟易する。もうエルヴィラを見たくなくて、私はまた窓の向こうを見る。街に兵士たちの姿が増えていた。銃を担いだ兵士たちが商店の軒先を走っていく。曲がり角には土嚢を積み上げ、銃座を作っている。いらだっている。怒声が飛び交う。ドイツの国境沿いはもっと緊迫した状況らしい。
私たちは戦争に巻き込まれる。この国も、この人々も、もうすぐ失われてしまう。そのことに私は嫌気が差す。戦争など、愚か者がすることだ。はあ……、もう……。エルヴィラは私をその愚か者にさせようとしている。いらいらとした感情を隠さず、私はエルヴィラに言い返す。
「無理です。エルヴィラが言っていることは、私が〈聖使徒〉になって、この国の行く末を決めろってことですよね?」
「はい。そのとおりです。リリロア様は我が国を差配しているカリディス家の一員なのですから。家の恥をさらすか、ヴェステルプラッテを救う救世主になられるか、いずれかを求められているとお考えください」
そう言われても困る。無理なものは無理。まず人には向き不向きというのがあって……と反論しそうになって、口をつぐむ。この女には何を言っても聞いてはくれない。国と家のことがすべてだ。私の言うことなんか無視される。だから言葉の代わりに、私も大げさにため息をついて見せた。
ニーナが「あはは……まあまあ……」と困りながら私たちに言う。そのとき、車ががくんと揺れた。黒く塗られた鉄の橋を渡る。車はモトワヴァ運河に挟まれた中州へと入る。
通りを外れ、黒い鉄柵の門をくぐると、鬱蒼とした木立の奥にヴェステルプラッテの政治の中枢、〈至聖議事院〉の建物が見えてきた。それは、長方形の積み木を3つ重ねたような白い建物だった。直線的で幾何学的な意匠を採り入れた、シンプルなデザインは、だいぶ古くに建てられたにもかかわらず、いまでもモダンで気高く美しいと内外で言われていた。
女神ユーラテの祝福を受けた5人の少女たち〈聖使徒〉が、ここに集い、この国のすべてを決めてきた。〈神託機関〉と呼ばれた、それは建国以来1000年に渡って、この国、ヴェステルプラッテを統治していた。
凛々しく国を導く〈聖使徒〉は多くの人々の憧れだった。そして、歴代の〈聖使徒〉を輩出している〈七聖家〉に生まれた女は、そうなることを夢見ていた。
でも……。
私はなれなかった。
なりたくなかった。
姉のほうが〈聖使徒〉にふさわしいから。
「リリロア様」
エルヴィラの鋭い言葉が、私を現実に引き戻す。覚悟を決めろ、ということなのだろう。でも、私は自分の考えを曲げたくなかった。まだ16年しか生きていないこんな私にだって、いくらでもやりたくない事情はある。
車は道に沿ってゆっくり曲がっていく。綺麗に揃えられた植え込みの向こうに、建物に差し掛かる白いアーチが見えてきた。そこには金糸に彩られた青い服を着た衛兵がふたりいた。ひとりが私たちの車に気づいて駆け寄ってきた。車が止まると同時にドアを開けてくれた。夏の匂いが私を包む。
私は見られないように、ため息をついた。どうすればここから逃げられるのか、そんなことばかりを考える。おなかが痛いとでも言えばいいのだろうか、それとも……。
なかなか降りようとしない私を衛兵が不思議そうに見ている。私はわざとらしく咳払いをした。風邪を引いたと言おうとしたら、勘違いした衛兵が後ろに下がってくれた。
そして、私は見てしまった。ヴェステルプラッテと言えば、誰もがこれだと答える〈至聖議事院〉の玄関。エミール・ガレを超えると言われた、壮麗なガラスレリーフの扉。柔らかい濃淡で浮き上がる女神ユーラテが、その優雅な羽を大きく広げている。それは、どんなに罪深い者でも、その慈愛を持って迎え入れようとしているように見えた。
それでも、私は……。
「リリロア様。お降りください」
私が先に車から降りなければ、同席している階級の低い者たちは降りられない。だから、私はそうしてでも聞きたかった。
「エルヴィラ。なぜ、私なのですか?」
「ですから、あなたはカリディス家にお生まれになられて……」
「違います、エルヴィラ。本当のことを言ってください。あなたはずっと嘘をついています」
私を〈聖使徒〉にさせたいのは本心なのだろう。でも、いままで言っていたこととは、違うところに心があるように見えた。表情を変えないその仮面の奥には、どこか賭けに勝ったような笑みを隠している。大金をはたいた馬がレースで駆け出したような……。少し緩んだ表情筋や声の抑揚から、そんなふうに感じる。
エルヴィラはふいに黙り、それから私の真意を探るようにまっすぐ見つめた。
「リリロア様は、なぜ、そのようにお思いなのですか?」
「そう感じたからです」
「リリロア様には不思議な力があります。人の様々な機微から、その真意を引き出すことに長けています」
「そうでしょうか?」
「そんなふうにして、ずっと人の気持ちを気にしていらっしゃいますね?」
「そうして生きてきましたから」
「リリロア様は実におやさしいです。でも言葉を裏返せば、誰かに叱られないように、人の顔色をうかがいながら、ずっと怯えているだけの小娘でもあります」
失礼なことを言われたけれど、エルヴィラの口の悪さはいつものことだ。それでも私は心のどこかに傷が付いたようだった。
「エルヴィラ。それがわかるのなら、〈聖使徒〉なんて私には無理なことぐらい、すぐわかるでしょう?」
きつい口調だと自分でも思った。エルヴィラが表情を変えたのを見て、私はすぐに後悔した。それはエルヴィラが、仮面の奥に隠していた笑みをさらけ出したから。
「いいえ。違います。それが適任なのです。いまの〈神託機関〉では」
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