イーラと一番目の涙
根占 桐守
First・Teardrops
ここは〈
見渡す限りの鋼鉄の壁に、むわっとした雲。埃に霞んだ黄色い空。羽虫や蛾がたかる〈太陽〉は七つある。泥を塗り固めた灰色の家屋が所狭しと並んだこの町は、豊富な〈食べ物〉にも溢れていて、飢えを知らない。町の住人たちの声は昼夜問わず忙しなく、賑やか。
そんな町の端っこで、俺と彼女は出逢った。
そして、俺たちが流した涙は、世界を変えた。
◇◇◇
「ほら。今日の分の食べ物」
大きな
主人が麻袋の中を充血して濁った目で覗くと、眼前を飛び交う
「餌」
またのっそりと主人は短くそう言って、少年──ファーストに、干し肉がたんまり詰まった麻袋を投げて渡した。ファーストはそれを器用に受け取ると、主人に軽く手を上げて見せる。
「忘れてた。ありがとう! じゃあ、俺もう行くね」
ファーストは干し肉の入った麻袋を腰に括り付けると、再び駆け出した。
今日の仕事はこれでもうお終い。ならばファーストのやること、やりたいことは一つ──探険だ。
(昨日で北の壁は全部見尽くした。今日は東の壁を探検しよう!)
◇◇◇
東の壁に辿り着いたファーストは、茫然と立ち尽くしていた。
東の壁の中心には、巨大な
ファーストの黒く短い髪とは正反対の、真っ白で長い髪。今にも手折れてしまえそうな、小枝みたいにか細く長い手足。服の隙間から除く白い脇腹は、あばら骨が浮いている。
少女は〈七つの太陽〉にも似た無機質な、しかし〈七つの太陽〉とは比べ物にならないほど美しい黄色の瞳で、真っ直ぐにファーストを見上げてきた。
気が付けばファーストは、吸い寄せられるように鉄格子の傍で跪いて、少女に話しかけていた。
「……きれいだ」
「……」
ファーストの口からついて出た言葉に、少女は一切反応しない。身じろぎの一つすらしない。その代わり、少女の薄っぺらい腹から、虫の声が鳴った。
「お腹、空いてるのかい?」
「……」
相変わらず少女は口を開かない。ただひたすらに、無機質な目でファーストを見据えている。ファーストは一つ瞬きをして、己の腰に提げていた麻袋から干し肉を取り出し、鉄格子の隙間から少女へと干し肉を差し出した。
「お食べ」
「……」
少女は目だけでファーストと干し肉を見比べていたが、しばらくしてそっとか細い手を上げると、ファーストから干し肉をひったくるように受け取った。そして、ちびちびと干し肉を舐めるように食べ始める。
「……まずい……」
少女は無表情のまま、小さく呟く。ファーストは少女の声が何だか、己の全身の
その魅惑的な少女の声に、瞳に、肉に、ファーストは堪らなくなって、檻越しに少女を抱きしめた。少女が干し肉を取り落として、悩ましげな息を吐く気配がする。
(この子を、守ってあげなきゃ)
何故だか、そんな使命感がファーストの胸を突いて、止まなかった。
「俺はファーストって呼ばれてる──君は?」
ファーストの腕の中で、少女が相変わらず無機質な目でファーストを見上げてくると、小さな唇をゆっくりと動かした。
「……イーラ」
「イーラ。俺、君に出逢えて凄く嬉しいよ。イーラ、ありがとう」
こうしてファーストは、檻の向こうの少女イーラと出逢い。それから毎日のようにイーラのもとへ通うようになる。
◇◇◇
ファーストがイーラのもとへ通うになって、七日目。
ファーストはイーラへと、慎重に尋ねた。
「イーラ。どうして君は、この檻の中に囚われているんだ?」
「……」
これは、どうしてもファーストが気になっていたことだ。イーラに出逢って、無口なイーラからこの事を聞き出すのは、今まで随分と躊躇われた。それでも今日こそは、勇気を抱いて聞いてみたいと思ったのだ。イーラを守ってあげるのに、必要なことだと思ったから。
イーラは目だけを動かして、ファーストを見た。一瞬、イーラから「ふ」という笑い声にも似た吐息が聞こえた気がする。しばらく黙りこくっていたイーラだが、小さな口を開いてゆっくりとファーストの問いに答えた。
「涙を流せないから」
「……なみだ?」
ファーストが神妙な顔で訊き返すと、イーラは小さく頷く。
「私の涙には、力がある。あらゆる病や傷を癒し、壊れた精神をも癒し、飢えも癒す。そういう、万能の力」
イーラがゆっくりと瞬きをする。その長くて柔らかな睫毛の動きを、ファーストは瞬きもせず見つめた。
「でも、私は生まれつき涙が流せなかった。感情というものが、あまりわからないから」
イーラの無感情で平淡な声がくぐもる。イーラが口元を、抱えている膝に埋めたのだ。
「大人たちは皆、あの手この手で、私に涙を流させようとした。私を殴って斬りつけて、痛みで泣かそうとしたり。飢えで泣かそうとしたり、私のお気に入りの動物を目の前で殺して食べて見せることで、泣かそうとしたり……それでも私は、涙を流せなかった」
珍しく口数の多いイーラの声には、悲嘆も憎悪も何も感じられない。イーラが目を伏せる。
「だからここに、閉じ込められているの。涙を流せるようになるまで、ずっと」
「イーラ!」
思いがけず、ファーストはイーラの無機質な声を遮って叫びをあげると、檻越しにイーラを強く抱きしめた。
「そんなの……そんなこと、絶対に許されないことだ。君はあまりにも理不尽な犠牲を強いられている。赦せない。俺が赦さない。絶対に、赦さない」
ファーストはか細くて薄っぺらな、でも壊したくなるほどに柔いイーラを抱いて、骨を粉々にしたくなるような怒りに震える。声まで震えて、息が荒くなって、掠れた。
「なみだなんか流さなくていい。俺がイーラを守ってあげる。そして俺が──イーラをこの檻の中から連れ出してあげるよ。絶対に」
「……うん」
ファーストの振り絞るような掠れた声に、イーラが小さく頷いてくれる。ファーストは、勝手に己の口角が上がるのを感じた。何かを粉砕するような怒りと共に、イーラに頼って貰えるという事実が、ファーストの身体を歓喜で打ち震わせる。
ファーストはますます、イーラを強く抱きしめた。するとイーラは「痛いよ」と、やはり無機質な声で呟いて、ファーストに抱かれるままだった。
◇◇◇
それからファーストは、あの手この手でイーラを檻から出そうと、たくさんのことを試した。
時には。相棒の骨切包丁で檻を砕こうとするが、甲高い金属音が鳴り響くだけで、檻は破れない。
ファーストは骨切包丁を研ぎながら首を傾げ、イーラが耳を両手で押さえて、小さく零した。
「俺がこの包丁を使えば、どんな骨でも砕けるのに」
「音……耳が痛い」
時には。檻の地面を掘り起こして、鉄格子を外そうとする。しかし、ファーストが骨切包丁でどんなに硬い岩も砕き、どこまで深い穴を掘り進めようとも、鉄格子は無限の如く大地に突き立ったままだった。
ファーストは穴から黄色い空を見上げて額に浮かぶ汗をぬぐい、イーラが小さな両手で目をこすりながら小さく零す。
「うーん。これ以上は一人で掘り進められないな……イーラの傍に居てあげられなくなる」
「土埃……目が痛い」
時には。〈食べ物〉を作る工程で手に入れた油をイーラの全身に塗りたくって潤滑にし、イーラを鉄格子の隙間から引っ張り出そうとする。しかし、いくら小枝のようにか細いイーラの身体でも、鉄格子の隙間は抜けられなかった。
ファーストは油まみれになったイーラの腕を握ったまま頭を抱え、イーラはべとべとの髪をかき上げて小さく息を吐く。
「これも駄目か……」
「腕……痛い」
もう何百もの方法を試したが、一向にイーラを檻から解放する手立てが見つからない。
イーラと出逢って、もう数え切れないほどの日々を費やしたファーストは、あからさまに落ち込んだ顔をして、出逢ってから絶対に欠かさないようにしている抱擁をイーラと交わした。
「ごめん、イーラ……俺、君のためにもっと頑張るから」
「うん……ファースト。力強くて、痛いよ」
不意に、イーラから「ファースト」と呼ばれた。ファーストは思わず仰天したような声を上げて、イーラとの抱擁を解くと、彼女の黄色の目を見つめる。
「うわ!? ……え? 今、初めて俺のこと呼んで……覚えていて、くれたんだ……」
「うん。覚えてるよ。貴方は『ファースト』──『一番目』って意味。わかりやすい」
イーラは可愛らしく小首を傾げて見せて、また「ファースト」と呼ぶ。
いつもと変わらぬ無機質で平淡な声であるはずなのに、ファーストには今までになく、己を呼ぶイーラの声が何よりも可憐で、美しく思えた。
感激と感動、あまりにもの歓喜が爆発し、顔を真っ赤にさせながら口をぱくぱくとさせているファーストを前にして、イーラは「ふ」と笑っているようにも聞こえる吐息を零した。
「ファースト。貴方はその名の通り……私の〈一番目〉になってくれるかも、しれないね。きっと」
ファーストは咄嗟に天を仰いだ。
まさか、「感情を知らない」と語るイーラに、そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもみなかったのだ。
(でもきっと、俺は……イーラがそう言ってくれるって、凄く期待してた。信じてた。だから、こんなにも……嬉しい)
ファーストは今までに感じたことのない喜びを噛み締めて、またイーラを強く抱きしめる。イーラはやはり、いつも通りファーストの腕の中におさまってくれた。
「ありがとう、イーラ。君にそんな風に言ってもらえるなんて、ほんとうに嬉しい。俺の人生の、一番の喜びだ……だからね。そんな君に報いるためにも、俺は絶対、君をこの檻から出してあげるよ。何があっても君を救ってあげる。約束する」
ファーストのいつもの抱擁に、イーラがいつも通り「痛いよ」と零しながら、静かに頷いた。
「うん。そうだね。ファースト」
◇◇◇
翌日。ファーストはいつも以上に仕事の報酬で干し肉を得たので、それをイーラにも分けてあげようと、干し肉が詰まった大きな麻袋を担いでイーラのもとを訪れた。
イーラはファーストから干し肉を受け取ると、いつも鼻をつまんでそれを食べている。その様子が何だか可愛くて、ファーストはイーラが食事をしているのを見るのが大好きだった。今日もイーラは、鼻をつまんで干し肉を舐めるように食べている。
「……やっぱりまずい……」
イーラが相変わらず無機質な声で、いつも通りの台詞を小さく零した。
ファーストは思わず噴き出しながら、己も干し肉を齧る。
「イーラはいつもそればかりだね。この干し肉の味、まだ慣れない?」
「うん。だって、くさい。それに……」
イーラが片手に持った干し肉を凝視したまま、淡々と尋ねてくる。
「これ。何の肉?」
その問いに、ファーストはすぐさまさらりと答えた。
「〈食べ物〉に成り果てた人の肉に決まってる。〈鼠の町〉にはどこを見ても変な声を四六時中上げるような、〈食べ物〉に成りかけの人がたくさん転がってるから。飢えることも無い」
ファーストは得意げに、己の相棒である骨切包丁を掲げて見せる。
「俺はそういう〈食べ物〉を解体して、肉として〈食べ物屋〉に運ぶのが仕事なんだ。だから、イーラにも早くこの町の〈食べ物〉には慣れて欲しいな。どれも俺が作ったようなものだから」
「そうなんだ」
イーラは目を伏せて、小さく頷いて見せる。やはり素っ気ないイーラの返事に、ファーストは肩を竦めたが、不意にイーラがその場に立ち上がった。
「ファースト。今日はもうここまでにしよう。私は少し、やることができた」
珍しいイーラの申し出に、ファーストは目を丸くしながら素早く立ち上がると、鉄格子の隙間からイーラの腕を掴んだ。
「……どうした、イーラ。どこか体調でも悪いの? それなら俺が……!」
「ううん。何ともない。ほんとうに少し、やることができただけ」
「じゃあ俺も手伝うよ」
眉を下げて心底心配するファーストの手を、イーラが優しいような手つきで掴まれてない方の片手で撫でた。
「……今からやること。男の子のファーストの前では恥ずかしいこと、なの。私も女の子だから……でも、見る? ファースト」
イーラが上目遣いの流し目で、ファーストをちらりと一瞥する。その目はいつもと微塵も変わらない、無感情な眼差しのはずなのに。無機質な声であるはずなのに。何故か、直視できない。
頭と背筋が甘ったるく、痺れるような感覚を覚えたファーストはかっと全身が熱くなって、咄嗟にイーラの腕を離して後退った。
「ご、ごめん……! わかった。今日は帰る。それじゃあまたね、イーラ」
ファーストは早口で捲し立てると、その場を走って後にした。
(イーラ……ああ、もう。イーラのことしか考えられない! 明日ちゃんと、仕事こなせるかな……)
内心どぎまぎしっぱなしのファーストは、走りながら火照った頬を冷ますように叩いていると、ふと己の背中に違和感を覚えた。
「あ……骨切包丁。イーラのところに忘れてきたのか」
そう独り言ちてファーストは立ち止まる。
骨切包丁がなければ明日の仕事はこなせない。仕事をこなせないと、イーラにも会いに行けない。
(それだけはいけない。イーラに一日でも会えないのは絶対にダメだ)
ならば、骨切包丁を取りに戻らねば。そう即決したファーストは素早く身を翻し、イーラの檻の方向へと再び駆け出す。するとすぐに、イーラの檻は見えてきた。
「……は?」
思わず、自分でも聞いたことがないような低い声が漏れ出た。
何故なら、イーラの檻の中にはイーラだけでなく、もう一人、人間が居たのだ。
初めて見る人間だ。輝くような色とりどりの石を全身のあちこちにぶら下げ、見たことも無い重そうな服を着ている。
そして、何より目についたのはその人間の醜さだ。腕も足も腹も、身体中の肉が隙間なくぶくぶくと肥え太っており、顔は何重にも肉がたるんでいて、どれが目口鼻なのかさえ判別がつかない。
そんな、〈食べ物〉よりも汚く醜い人間が、イーラを組み敷いていた。
醜い人間がイーラを殴り、肉塊のような手で、イーラのか細く柔らかい身体をまさぐるように触っている。
その光景を目にした瞬間、ファーストの脳が燃えるように沸騰した。
(イーラ……イーラ、イーラ……イーラ、イーラ、イーラ!)
ファーストは「ガチリ!」と激しい音を立てて歯を食いしばると、目にも留まらぬ速さで駆け出し、檻の傍に置いていた骨切包丁を手に取る。
(イーラに触るな。
ファーストが骨切包丁を己が思う
血しぶきが派手に飛んだが、血であろうと一滴たりともイーラには触れさせまいと、ファーストは盾になるように前に出て、己だけが返り血を浴びる。
「……ファースト……」
不意に、イーラに呼ばれた。
ファーストは息を荒らげながら、イーラを振り向く。そこには、頬が少しだけ腫れていたが、いつもと変わらず無垢な白色のままのイーラが立ち上がろうとしていた。
「はあ、はあっ、は……イーラ……」
思わずファーストは骨切包丁を放ってイーラに駆け寄ると、そのか細い身体を抱きすくめる。イーラはいつも通り、されるがままだ。
イーラの身体を抱きしめていると、徐々にファーストは沸騰するような激情で燃えていた脳が冷えていき、何とか頭が回るようになってくる。そうして、イーラの細い肩に顔を埋めながら、震える声を絞り出した。
「よかっ、た……俺、イーラを……救ってあげられた……」
何だかツンと鼻が痛くなってきて、ファーストは喉を鳴らして唸る。
そんなファーストの様子を知ってか知らずか、いつもと何も変わらないイーラが、片腕を上げて檻の外を指さした。
「見て、ファースト。檻が破れちゃった。ファーストが、やったんだね」
その言葉に、ファーストは弾かれたように背後を振り向いた。そこには、己が粉々にした鉄格子が見る影もなく散っている。
(そうだ……俺はようやく、破れたんだ。あの忌々しい檻を。そうだ、俺は今……鉄格子の邪魔も無く、イーラを抱きしめられる)
ファーストは再びイーラを、全身全霊の力で抱きしめた。
鉄格子のない、何の邪魔も無い、イーラとの抱擁。ずっと己が求め続けて来たもの。欲しくて欲しくて、待ち焦がれていたもの。
「ああ、イーラ……嬉しい。嬉しいよ。こんなにも近く、君を感じられる。君の血肉の香り、鼓動の速さ、あばら骨の硬さ……全部、想像していた以上だ。やっぱり君は、何もかもがきれいなんだ」
ファーストは歓喜のあまり掠れて、何だか少し濡れているような声を弾ませる。
「さあ、外に行こう。イーラ。これからもずっと、こうやって俺が守ってあげるから」
「うん……痛いよ、ファースト」
こんな時でも、イーラはいつもの抱擁時の口癖「痛い」を小さく漏らす。そんな彼女が、やはり彼女らしくて、ファーストは笑いながら抱擁の腕を緩めて、イーラの顔を見た。
どす。
その瞬間、ファーストの左胸に、白銀の色をした長い矢が深々と突き刺さる。
「え……」
間の抜けた声が、吐息と共にファーストの口から零れ落ちる。
矢を突き刺したのは、イーラだ。
イーラの美しい黄色の瞳と、目が合う。その目は相変わらず、いつも通りの無機質な眼差しだった。
「イー……ラ……?」
口からごぽりと血を溢れさせて、ファーストはその場で仰向けに
見上げた先には、この世のものとは思えぬほどに美しい──白銀の涙を止めどなく溢れさせる、イーラの姿があった。
無表情のまま、ファーストを見下ろすイーラは涙を流し続けながらも、淡々と口を開く。
「……ようやく私も〈感情〉というものが解った。そう、これが〈怒り〉……怒りのあまり、涙を流すこともできるんだね。面白いな」
イーラの言っていることが何一つわからなくて、ファーストはうわ言のようにイーラの名前を繰り返す。
「イーラ……イ……ーラ? な、んで……」
「うん。勿論すべて教えるよ、ファースト。私はね──あまりにも傲慢な貴方と永く過ごすことで、涙を流すほどの〈怒り〉を覚えたんだよ」
イーラの声は変わらず無機質だ。それなのに、ファーストには今までになく、イーラの声が優しい声色に思えて仕方がなかった。
「この〈鼠の町〉は、貴方がさっき殺した私の父……スペルビア王国第十六代目国王、ファールハイト・スロース・スペルビアが作った悪趣味な箱庭なんだ。色々な実験と観察のためのね。つまりは、檻の中に居たのは私ではなく貴方の方なんだよ、ファースト。だから私たちは、貴方みたいな〈鼠の町〉の住人を、鼠以下の生き物だと思っている。そんな醜い生き物に、『守ってあげる』『救ってあげる』なんて言われて、どう思う? 不快にしか思えないよね。最悪の気分だったな」
「ヒュウ、ヒュウ」と耳障りな呼吸音を上げて倒れているファーストのもとに、イーラが近寄ってきて、ファーストを覗き込むように身体をかがめる。
イーラがわざわざ己に目線を合わせてくれるのが、こんな時でもファーストは嬉しかった。
「ごぽ……イ……ラ……イーラ……」
「そもそもファースト。貴方は根っから傲慢の化身の如き生き物だと私は思っていたよ。出逢った時から、ずっとね。だって貴方、いくら私が『痛い』って言っても、聞いてくれないんだもん。薄汚い鼠の貴方に触られる度、痛くて、汚くて、臭くて、気持ち悪くて……何よりも腹立たしくて、脳みそが焼き切れてしまうんじゃないかなと思うくらいの
イーラが初めて覚えたという〈怒り〉を語る度、珠のような大粒の涙がポロポロとイーラの大きな瞳から零れ落ちていく。零れたイーラの涙は全て、白銀の武器と化した。
「私の涙は感情によって性質を変えるみたい。悲し涙は身体を癒し、嬉し涙は精神を癒し、感動の涙は飢えを癒す。だけど、私が初めて得ることが出来た感情は怒り。この涙は、あらゆるものを壊し尽くすことができる。私が最も欲しかった涙だ」
イーラは壊れ物にでも触れるような手つきで、ファーストの左胸に刺さった矢に触れて、
「母が目の前で貴方たち〈鼠〉に犯され、喰われようが。乳母の死体が腐りゆく様を見せられようが。弟妹たちの首をこの手で刎ねようが……私は何も思わなかった。それでも、ファースト。貴方はこの私に、涙を流させた。これで私は、この国の女王イーラ・ラグニア・スペルビアとなり──世界の何もかもを、壊し尽くせる」
イーラの声は無機質だ。
それでもファーストには、わかった。
無機質でありながらも、彼女の怒りに満ち満ちた声には確かに、火花が弾けるような歓喜が入り混じっていることを。
もうファーストは、イーラに殺されることなどどうでもよくなっていた。
ただひたすらに、ファーストは出逢った時から今もずっと、イーラに夢中で堪らなかった。
(ああ、イーラ……やっぱり君は、きれいだよ。この世界の何よりもきれいだ)
ファーストは眩しそうに目を細めて、イーラを見上げる。
するとイーラも目を微かに細めて、ファーストへと己の顔を近づけてきた。
刹那。イーラの柔らかな唇が、薄く開いたファーストのそれを掠め取るように、風のようにふわりと触れていった。
思いがけずファーストは大きく目を見開く。イーラは小さな唇をファーストの血で真っ赤に染め上げたまま、鼻が触れ合うような距離でファーストを淡々と見下ろした。
イーラの瞳から、更に多くの涙がぼたぼたと滑り落ちて、ファーストの唇を濡らした後に白銀の武器と成ってゆく。
「よくやった、ファースト。私のファースト──私の一番目の涙。愚かな鼠たる貴方の最期に、女王イーラ・ラグニア・スペルビアが褒美を遣わすよ」
ファーストは思いがけず、喉を反らして大笑いを上げた。
イーラの白く美しいかんばせを、己の吐血で
「……お、れの……一番目の涙は、君だ……イーラ……おれ、の、女王陛下。君の怒りのためならば……おれは何度だって、君に……恋、しよう……何度、生まれ変わっても、君、だけに……恋して……あげる……」
ファーストは最期に、己の命の炎を全て使い切って、血と歓喜と傲慢に濡れそぼったその言葉をイーラの耳元で囁いた。
イーラは「ふ」と、やはり笑っているようにも聞こえる吐息を漏らしてファーストの血で汚れた顔を拭うと、その場に立ち上がる。
「ファースト。貴方という傲慢な鼠に恋された穢れ。私のファーストキスを与えた屈辱。この何ものにも代えがたい怒りを以て──至上の憤怒の記憶で、私は
イーラの平淡で無機質な声は、怒りと歓喜に満ち溢れて、微かに震えている。
そんな声を聞かされる度、今際の際にもかかわらず、ファーストの恋心はより一層燃え上がった。
イーラの涙が、ファーストの涙に落ちて、溶けて、混じる。その感触が肌を濡らす度、ファーストは無意識に、愛しく恋しい彼女の名前をうわ言のように繰り返した。
「イー……ラ……あぁ、イーラ……」
立ち上がってこちらを見下ろすイーラの手には、涙で生成された長槍があった。長槍の穂先が、ファーストの額を狙い定める。
「さようなら、ファースト。私の一番目の涙──そういえば。『涙なんか流さなくていい』と私に言ったのは、貴方だけだったな」
落ちてくる長槍の穂先と共に、イーラの涙がファーストの瞳の中に吸い込まれて、溶ける。
そんな感覚とイーラの声を最後に、ファーストは息絶えた。
「あの時……傲慢な貴方……一瞬でも私の…………を奪われた事……最悪の汚点……私……私への怒りで涙……止め方……忘れちゃった……」
◇◇◇
とある大陸にて。百年もの間、大陸全土を蹂躙した女王がいた。
スペルビア王国第十七代目女王、イーラ・ラグニア・スペルビア。
国滅ぼしの武器を無数に生成せし〈憤怒の涙〉を操る戦争の女神。
世界を恐怖のどん底に
その矢の名は如何にも珍妙なもので、こう呼ばれている──〈一番目の涙ファースト〉と。
イーラと一番目の涙 根占 桐守 @yashino03kayama
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