イーラと一番目の涙

根占 桐守

First・Teardrops

 ここは〈ねずみの町〉。

 見渡す限りの鋼鉄の壁に、むわっとした雲。埃に霞んだ黄色い空。羽虫や蛾がたかる〈太陽〉は七つある。泥を塗り固めた灰色の家屋が所狭しと並んだこの町は、豊富な〈食べ物〉にも溢れていて、飢えを知らない。町の住人たちの声は昼夜問わず忙しなく、賑やか。

 そんな町の端っこで、俺と彼女は出逢った。

 そして、俺たちが流した涙は、世界を変えた。


 ◇◇◇


「ほら。今日の分の食べ物」


 大きな骨切包丁ほねきりぼうちょうを背負った少年はそう言って、肥え太った子ども──〈食べ物屋〉の主人に、どっしりと肉が詰まった麻袋を手渡した。

 主人が麻袋の中を充血して濁った目で覗くと、眼前を飛び交うはえを小さい手で振り払いながら、のっそりと頷いて麻袋を受け取る。それを確認した少年は「じゃあ」と素早く身を翻すが、主人に「ファースト」と呼び止められて、駆け出そうとしていた足を止めた。


「餌」


 またのっそりと主人は短くそう言って、少年──ファーストに、干し肉がたんまり詰まった麻袋を投げて渡した。ファーストはそれを器用に受け取ると、主人に軽く手を上げて見せる。


「忘れてた。ありがとう! じゃあ、俺もう行くね」


 ファーストは干し肉の入った麻袋を腰に括り付けると、再び駆け出した。

 今日の仕事はこれでもうお終い。ならばファーストのやること、やりたいことは一つ──探険だ。


(昨日で北の壁は全部見尽くした。今日は東の壁を探検しよう!)


 ◇◇◇


 東の壁に辿り着いたファーストは、茫然と立ち尽くしていた。

 東の壁の中心には、巨大なくぼみ穴が開いていた。しかもくぼみ穴には黒い鉄格子がはめられていて、堅牢な檻になっている。そしてその檻の向こうには──一人の少女が、膝を抱えて座っていた。

 ファーストの黒く短い髪とは正反対の、真っ白で長い髪。今にも手折れてしまえそうな、小枝みたいにか細く長い手足。服の隙間から除く白い脇腹は、あばら骨が浮いている。

 少女は〈七つの太陽〉にも似た無機質な、しかし〈七つの太陽〉とは比べ物にならないほど美しい黄色の瞳で、真っ直ぐにファーストを見上げてきた。

 気が付けばファーストは、吸い寄せられるように鉄格子の傍で跪いて、少女に話しかけていた。


「……きれいだ」

「……」


 ファーストの口からついて出た言葉に、少女は一切反応しない。身じろぎの一つすらしない。その代わり、少女の薄っぺらい腹から、虫の声が鳴った。


「お腹、空いてるのかい?」

「……」


 相変わらず少女は口を開かない。ただひたすらに、無機質な目でファーストを見据えている。ファーストは一つ瞬きをして、己の腰に提げていた麻袋から干し肉を取り出し、鉄格子の隙間から少女へと干し肉を差し出した。


「お食べ」

「……」


 少女は目だけでファーストと干し肉を見比べていたが、しばらくしてそっとか細い手を上げると、ファーストから干し肉をひったくるように受け取った。そして、ちびちびと干し肉を舐めるように食べ始める。


「……まずい……」


 少女は無表情のまま、小さく呟く。ファーストは少女の声が何だか、己の全身の臓腑ぞうふを溶かされるような──冷たくて甘ったるい声に思えて、仕方がない。

 その魅惑的な少女の声に、瞳に、肉に、ファーストは堪らなくなって、檻越しに少女を抱きしめた。少女が干し肉を取り落として、悩ましげな息を吐く気配がする。


(この子を、守ってあげなきゃ)


 何故だか、そんな使命感がファーストの胸を突いて、止まなかった。


「俺はファーストって呼ばれてる──君は?」


 ファーストの腕の中で、少女が相変わらず無機質な目でファーストを見上げてくると、小さな唇をゆっくりと動かした。


「……イーラ」

「イーラ。俺、君に出逢えて凄く嬉しいよ。イーラ、ありがとう」


 こうしてファーストは、檻の向こうの少女イーラと出逢い。それから毎日のようにイーラのもとへ通うようになる。


 ◇◇◇


 ファーストがイーラのもとへ通うになって、七日目。

 ファーストはイーラへと、慎重に尋ねた。


「イーラ。どうして君は、この檻の中に囚われているんだ?」

「……」


 これは、どうしてもファーストが気になっていたことだ。イーラに出逢って、無口なイーラからこの事を聞き出すのは、今まで随分と躊躇われた。それでも今日こそは、勇気を抱いて聞いてみたいと思ったのだ。イーラを守ってあげるのに、必要なことだと思ったから。

 イーラは目だけを動かして、ファーストを見た。一瞬、イーラから「ふ」という笑い声にも似た吐息が聞こえた気がする。しばらく黙りこくっていたイーラだが、小さな口を開いてゆっくりとファーストの問いに答えた。


「涙を流せないから」

「……なみだ?」


 ファーストが神妙な顔で訊き返すと、イーラは小さく頷く。


「私の涙には、力がある。あらゆる病や傷を癒し、壊れた精神をも癒し、飢えも癒す。そういう、万能の力」


 イーラがゆっくりと瞬きをする。その長くて柔らかな睫毛の動きを、ファーストは瞬きもせず見つめた。


「でも、私は生まれつき涙が流せなかった。感情というものが、あまりわからないから」


 イーラの無感情で平淡な声がくぐもる。イーラが口元を、抱えている膝に埋めたのだ。


「大人たちは皆、あの手この手で、私に涙を流させようとした。私を殴って斬りつけて、痛みで泣かそうとしたり。飢えで泣かそうとしたり、私のお気に入りの動物を目の前で殺して食べて見せることで、泣かそうとしたり……それでも私は、涙を流せなかった」


 珍しく口数の多いイーラの声には、悲嘆も憎悪も何も感じられない。イーラが目を伏せる。


「だからここに、閉じ込められているの。涙を流せるようになるまで、ずっと」

「イーラ!」


 思いがけず、ファーストはイーラの無機質な声を遮って叫びをあげると、檻越しにイーラを強く抱きしめた。


「そんなの……そんなこと、絶対に許されないことだ。君はあまりにも理不尽な犠牲を強いられている。赦せない。俺が赦さない。絶対に、赦さない」


 ファーストはか細くて薄っぺらな、でも壊したくなるほどに柔いイーラを抱いて、骨を粉々にしたくなるような怒りに震える。声まで震えて、息が荒くなって、掠れた。


「なみだなんか流さなくていい。俺がイーラを守ってあげる。そして俺が──イーラをこの檻の中から連れ出してあげるよ。絶対に」

「……うん」


 ファーストの振り絞るような掠れた声に、イーラが小さく頷いてくれる。ファーストは、勝手に己の口角が上がるのを感じた。何かを粉砕するような怒りと共に、イーラに頼って貰えるという事実が、ファーストの身体を歓喜で打ち震わせる。

 ファーストはますます、イーラを強く抱きしめた。するとイーラは「痛いよ」と、やはり無機質な声で呟いて、ファーストに抱かれるままだった。


 ◇◇◇


 それからファーストは、あの手この手でイーラを檻から出そうと、たくさんのことを試した。

 時には。相棒の骨切包丁で檻を砕こうとするが、甲高い金属音が鳴り響くだけで、檻は破れない。

 ファーストは骨切包丁を研ぎながら首を傾げ、イーラが耳を両手で押さえて、小さく零した。


「俺がこの包丁を使えば、どんな骨でも砕けるのに」

「音……耳が痛い」


 時には。檻の地面を掘り起こして、鉄格子を外そうとする。しかし、ファーストが骨切包丁でどんなに硬い岩も砕き、どこまで深い穴を掘り進めようとも、鉄格子は無限の如く大地に突き立ったままだった。

 ファーストは穴から黄色い空を見上げて額に浮かぶ汗をぬぐい、イーラが小さな両手で目をこすりながら小さく零す。


「うーん。これ以上は一人で掘り進められないな……イーラの傍に居てあげられなくなる」

「土埃……目が痛い」


 時には。〈食べ物〉を作る工程で手に入れた油をイーラの全身に塗りたくって潤滑にし、イーラを鉄格子の隙間から引っ張り出そうとする。しかし、いくら小枝のようにか細いイーラの身体でも、鉄格子の隙間は抜けられなかった。

 ファーストは油まみれになったイーラの腕を握ったまま頭を抱え、イーラはべとべとの髪をかき上げて小さく息を吐く。


「これも駄目か……」

「腕……痛い」


 もう何百もの方法を試したが、一向にイーラを檻から解放する手立てが見つからない。

 イーラと出逢って、もう数え切れないほどの日々を費やしたファーストは、あからさまに落ち込んだ顔をして、出逢ってから絶対に欠かさないようにしている抱擁をイーラと交わした。


「ごめん、イーラ……俺、君のためにもっと頑張るから」

「うん……ファースト。力強くて、痛いよ」


 不意に、イーラから「ファースト」と呼ばれた。ファーストは思わず仰天したような声を上げて、イーラとの抱擁を解くと、彼女の黄色の目を見つめる。


「うわ!? ……え? 今、初めて俺のこと呼んで……覚えていて、くれたんだ……」

「うん。覚えてるよ。貴方は『ファースト』──『一番目』って意味。わかりやすい」


 イーラは可愛らしく小首を傾げて見せて、また「ファースト」と呼ぶ。

 いつもと変わらぬ無機質で平淡な声であるはずなのに、ファーストには今までになく、己を呼ぶイーラの声が何よりも可憐で、美しく思えた。

 感激と感動、あまりにもの歓喜が爆発し、顔を真っ赤にさせながら口をぱくぱくとさせているファーストを前にして、イーラは「ふ」と笑っているようにも聞こえる吐息を零した。


「ファースト。貴方はその名の通り……私の〈一番目〉になってくれるかも、しれないね。きっと」


 ファーストは咄嗟に天を仰いだ。

 まさか、「感情を知らない」と語るイーラに、そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもみなかったのだ。


(でもきっと、俺は……イーラがそう言ってくれるって、凄く期待してた。信じてた。だから、こんなにも……嬉しい)


 ファーストは今までに感じたことのない喜びを噛み締めて、またイーラを強く抱きしめる。イーラはやはり、いつも通りファーストの腕の中におさまってくれた。


「ありがとう、イーラ。君にそんな風に言ってもらえるなんて、ほんとうに嬉しい。俺の人生の、一番の喜びだ……だからね。そんな君に報いるためにも、俺は絶対、君をこの檻から出してあげるよ。何があっても君を救ってあげる。約束する」


 ファーストのいつもの抱擁に、イーラがいつも通り「痛いよ」と零しながら、静かに頷いた。


「うん。そうだね。ファースト」


 ◇◇◇


 翌日。ファーストはいつも以上に仕事の報酬で干し肉を得たので、それをイーラにも分けてあげようと、干し肉が詰まった大きな麻袋を担いでイーラのもとを訪れた。

 イーラはファーストから干し肉を受け取ると、いつも鼻をつまんでそれを食べている。その様子が何だか可愛くて、ファーストはイーラが食事をしているのを見るのが大好きだった。今日もイーラは、鼻をつまんで干し肉を舐めるように食べている。


「……やっぱりまずい……」


 イーラが相変わらず無機質な声で、いつも通りの台詞を小さく零した。

 ファーストは思わず噴き出しながら、己も干し肉を齧る。


「イーラはいつもそればかりだね。この干し肉の味、まだ慣れない?」

「うん。だって、くさい。それに……」


 イーラが片手に持った干し肉を凝視したまま、淡々と尋ねてくる。


「これ。何の肉?」


 その問いに、ファーストはすぐさまさらりと答えた。


「〈食べ物〉にに決まってる。〈鼠の町〉にはどこを見ても変な声を四六時中上げるような、〈食べ物〉に成りかけの人がたくさん転がってるから。飢えることも無い」


 ファーストは得意げに、己の相棒である骨切包丁を掲げて見せる。


「俺はそういう〈食べ物〉を解体して、肉として〈食べ物屋〉に運ぶのが仕事なんだ。だから、イーラにも早くこの町の〈食べ物〉には慣れて欲しいな。どれも俺が作ったようなものだから」

「そうなんだ」


 イーラは目を伏せて、小さく頷いて見せる。やはり素っ気ないイーラの返事に、ファーストは肩を竦めたが、不意にイーラがその場に立ち上がった。


「ファースト。今日はもうここまでにしよう。私は少し、やることができた」


 珍しいイーラの申し出に、ファーストは目を丸くしながら素早く立ち上がると、鉄格子の隙間からイーラの腕を掴んだ。


「……どうした、イーラ。どこか体調でも悪いの? それなら俺が……!」

「ううん。何ともない。ほんとうに少し、やることができただけ」

「じゃあ俺も手伝うよ」


 眉を下げて心底心配するファーストの手を、イーラが優しいような手つきで掴まれてない方の片手で撫でた。


「……今からやること。男の子のファーストの前では恥ずかしいこと、なの。私も女の子だから……でも、見る? ファースト」


 イーラが上目遣いの流し目で、ファーストをちらりと一瞥する。その目はいつもと微塵も変わらない、無感情な眼差しのはずなのに。無機質な声であるはずなのに。何故か、直視できない。

 頭と背筋が甘ったるく、痺れるような感覚を覚えたファーストはかっと全身が熱くなって、咄嗟にイーラの腕を離して後退った。


「ご、ごめん……! わかった。今日は帰る。それじゃあまたね、イーラ」


 ファーストは早口で捲し立てると、その場を走って後にした。


(イーラ……ああ、もう。イーラのことしか考えられない! 明日ちゃんと、仕事こなせるかな……)


 内心どぎまぎしっぱなしのファーストは、走りながら火照った頬を冷ますように叩いていると、ふと己の背中に違和感を覚えた。


「あ……骨切包丁。イーラのところに忘れてきたのか」


 そう独り言ちてファーストは立ち止まる。

 骨切包丁がなければ明日の仕事はこなせない。仕事をこなせないと、イーラにも会いに行けない。


(それだけはいけない。イーラに一日でも会えないのは絶対にダメだ)


 ならば、骨切包丁を取りに戻らねば。そう即決したファーストは素早く身を翻し、イーラの檻の方向へと再び駆け出す。するとすぐに、イーラの檻は見えてきた。


「……は?」


 思わず、自分でも聞いたことがないような低い声が漏れ出た。

 何故なら、イーラの檻の中にはイーラだけでなく、もう一人、人間が居たのだ。

 初めて見る人間だ。輝くような色とりどりの石を全身のあちこちにぶら下げ、見たことも無い重そうな服を着ている。

 そして、何より目についたのはその人間のだ。腕も足も腹も、身体中の肉が隙間なくぶくぶくと肥え太っており、顔は何重にも肉がたるんでいて、どれが目口鼻なのかさえ判別がつかない。

 そんな、〈食べ物〉よりも汚く醜い人間が、イーラを組み敷いていた。

 醜い人間がイーラを殴り、肉塊のような手で、イーラのか細く柔らかい身体をまさぐるように触っている。

 その光景を目にした瞬間、ファーストの脳が燃えるように沸騰した。


(イーラ……イーラ、イーラ……イーラ、イーラ、イーラ!)


 ファーストは「ガチリ!」と激しい音を立てて歯を食いしばると、目にも留まらぬ速さで駆け出し、檻の傍に置いていた骨切包丁を手に取る。


(イーラに触るな。かす以下の、肉塊が!)


 ファーストが骨切包丁を己が思うままに振るうと、イーラを永く捕らえていた鉄格子を真っ二つに斬り落とした。そのままファーストは、醜い人間の首を骨切包丁で刎ね飛ばし、肉塊と成った醜い身体をイーラの上から蹴り飛ばす。

 血しぶきが派手に飛んだが、血であろうと一滴たりともイーラには触れさせまいと、ファーストは盾になるように前に出て、己だけが返り血を浴びる。


「……ファースト……」


 不意に、イーラに呼ばれた。

 ファーストは息を荒らげながら、イーラを振り向く。そこには、頬が少しだけ腫れていたが、いつもと変わらず無垢な白色のままのイーラが立ち上がろうとしていた。


「はあ、はあっ、は……イーラ……」


 思わずファーストは骨切包丁を放ってイーラに駆け寄ると、そのか細い身体を抱きすくめる。イーラはいつも通り、されるがままだ。

 イーラの身体を抱きしめていると、徐々にファーストは沸騰するような激情で燃えていた脳が冷えていき、何とか頭が回るようになってくる。そうして、イーラの細い肩に顔を埋めながら、震える声を絞り出した。


「よかっ、た……俺、イーラを……救ってあげられた……」


 何だかツンと鼻が痛くなってきて、ファーストは喉を鳴らして唸る。

 そんなファーストの様子を知ってか知らずか、いつもと何も変わらないイーラが、片腕を上げて檻の外を指さした。


「見て、ファースト。檻が破れちゃった。ファーストが、やったんだね」


 その言葉に、ファーストは弾かれたように背後を振り向いた。そこには、己が粉々にした鉄格子が見る影もなく散っている。


(そうだ……俺はようやく、破れたんだ。あの忌々しい檻を。そうだ、俺は今……鉄格子の邪魔も無く、イーラを抱きしめられる)


 ファーストは再びイーラを、全身全霊の力で抱きしめた。

 鉄格子のない、何の邪魔も無い、イーラとの抱擁。ずっと己が求め続けて来たもの。欲しくて欲しくて、待ち焦がれていたもの。


「ああ、イーラ……嬉しい。嬉しいよ。こんなにも近く、君を感じられる。君の血肉の香り、鼓動の速さ、あばら骨の硬さ……全部、想像していた以上だ。やっぱり君は、何もかもがきれいなんだ」


 ファーストは歓喜のあまり掠れて、何だか少し濡れているような声を弾ませる。


「さあ、外に行こう。イーラ。これからもずっと、こうやって俺が守ってあげるから」

「うん……痛いよ、ファースト」


 こんな時でも、イーラはいつもの抱擁時の口癖「痛い」を小さく漏らす。そんな彼女が、やはり彼女らしくて、ファーストは笑いながら抱擁の腕を緩めて、イーラの顔を見た。


 どす。


 その瞬間、ファーストの左胸に、白銀の色をした長い矢が深々と突き刺さる。


「え……」


 間の抜けた声が、吐息と共にファーストの口から零れ落ちる。


 


 イーラの美しい黄色の瞳と、目が合う。その目は相変わらず、いつも通りの無機質な眼差しだった。


「イー……ラ……?」


 口からごぽりと血を溢れさせて、ファーストはその場で仰向けにくずおれる。

 見上げた先には、この世のものとは思えぬほどに美しい──白銀の涙を止めどなく溢れさせる、イーラの姿があった。

 無表情のまま、ファーストを見下ろすイーラは涙を流し続けながらも、淡々と口を開く。


「……ようやく私も〈感情〉というものが解った。そう、これが〈怒り〉……怒りのあまり、涙を流すこともできるんだね。面白いな」


 イーラの言っていることが何一つわからなくて、ファーストはうわ言のようにイーラの名前を繰り返す。


「イーラ……イ……ーラ? な、んで……」

「うん。勿論すべて教えるよ、ファースト。私はね──あまりにも傲慢な貴方と永く過ごすことで、涙を流すほどの〈怒り〉を覚えたんだよ」


 イーラの声は変わらず無機質だ。それなのに、ファーストには今までになく、イーラの声が優しい声色に思えて仕方がなかった。


「この〈鼠の町〉は、貴方がさっき殺した私の父……スペルビア王国第十六代目国王、ファールハイト・スロース・スペルビアが作った悪趣味ななんだ。色々な実験と観察のためのね。つまりは、なんだよ、ファースト。だから私たちは、貴方みたいな〈鼠の町〉の住人を、鼠以下の生き物だと思っている。そんな醜い生き物に、『守ってあげる』『救ってあげる』なんて言われて、どう思う? 不快にしか思えないよね。最悪の気分だったな」


「ヒュウ、ヒュウ」と耳障りな呼吸音を上げて倒れているファーストのもとに、イーラが近寄ってきて、ファーストを覗き込むように身体をかがめる。

 イーラがわざわざ己に目線を合わせてくれるのが、こんな時でもファーストは嬉しかった。


「ごぽ……イ……ラ……イーラ……」

「そもそもファースト。貴方は根っから傲慢の化身の如き生き物だと私は思っていたよ。出逢った時から、ずっとね。だって貴方、いくら私が『痛い』って言っても、聞いてくれないんだもん。薄汚い鼠の貴方に触られる度、痛くて、汚くて、臭くて、気持ち悪くて……何よりも腹立たしくて、脳みそが焼き切れてしまうんじゃないかなと思うくらいの恥辱ちじょくを散々に味わった」


 イーラが初めて覚えたという〈怒り〉を語る度、珠のような大粒の涙がポロポロとイーラの大きな瞳から零れ落ちていく。零れたイーラの涙は全て、白銀の武器と化した。


「私の涙は感情によって性質を変えるみたい。悲し涙は身体を癒し、嬉し涙は精神を癒し、感動の涙は飢えを癒す。だけど、私が初めて得ることが出来た感情は怒り。この涙は、あらゆるものを壊し尽くすことができる。私が最も欲しかった涙だ」


 イーラは壊れ物にでも触れるような手つきで、ファーストの左胸に刺さった矢に触れて、なまめかしく撫で上げる。


「母が目の前で貴方たち〈鼠〉に犯され、喰われようが。乳母の死体が腐りゆく様を見せられようが。弟妹たちの首をこの手で刎ねようが……私は何も思わなかった。それでも、ファースト。貴方はこの私に、涙を流させた。これで私は、この国の女王イーラ・ラグニア・スペルビアとなり──世界の何もかもを、壊し尽くせる」


 イーラの声は無機質だ。

 それでもファーストには、わかった。

 無機質でありながらも、彼女の怒りに満ち満ちた声には確かに、火花が弾けるような歓喜が入り混じっていることを。

 もうファーストは、イーラに殺されることなどどうでもよくなっていた。

 ただひたすらに、ファーストは出逢った時から今もずっと、イーラに夢中で堪らなかった。


(ああ、イーラ……やっぱり君は、きれいだよ。この世界の何よりもきれいだ)


 ファーストは眩しそうに目を細めて、イーラを見上げる。

 するとイーラも目を微かに細めて、ファーストへと己の顔を近づけてきた。

 刹那。イーラの柔らかな唇が、薄く開いたファーストのそれを掠め取るように、風のようにふわりと触れていった。

 思いがけずファーストは大きく目を見開く。イーラは小さな唇をファーストの血で真っ赤に染め上げたまま、鼻が触れ合うような距離でファーストを淡々と見下ろした。

 イーラの瞳から、更に多くの涙がぼたぼたと滑り落ちて、ファーストの唇を濡らした後に白銀の武器と成ってゆく。


「よくやった、ファースト。私のファースト──。愚かな鼠たる貴方の最期に、女王イーラ・ラグニア・スペルビアが褒美を遣わすよ」


 ファーストは思いがけず、喉を反らして大笑いを上げた。

 イーラの白く美しいかんばせを、己の吐血でけがしてしまうのにも構わず。ファーストは大量の血を吐きながら笑って、笑って、笑い続けて──


「……お、れの……は、君だ……イーラ……おれ、の、女王陛下。君の怒りのためならば……おれは何度だって、君に……恋、しよう……何度、生まれ変わっても、君、だけに……恋して……あげる……」


 ファーストは最期に、己の命の炎を全て使い切って、血と歓喜と傲慢に濡れそぼったその言葉をイーラの耳元で囁いた。

 イーラは「ふ」と、やはり笑っているようにも聞こえる吐息を漏らしてファーストの血で汚れた顔を拭うと、その場に立ち上がる。


「ファースト。貴方という傲慢な鼠に恋された穢れ。私のファーストキスを与えた屈辱。この何ものにも代えがたい怒りを以て──至上の憤怒の記憶で、私は永遠とわに涙を流し続けることだろうね」


 イーラの平淡で無機質な声は、怒りと歓喜に満ち溢れて、微かに震えている。

 そんな声を聞かされる度、今際の際にもかかわらず、ファーストの恋心はより一層燃え上がった。

 イーラの涙が、ファーストの涙に落ちて、溶けて、混じる。その感触が肌を濡らす度、ファーストは無意識に、愛しく恋しい彼女の名前をうわ言のように繰り返した。


「イー……ラ……あぁ、イーラ……」


 立ち上がってこちらを見下ろすイーラの手には、涙で生成された長槍があった。長槍の穂先が、ファーストの額を狙い定める。


「さようなら、ファースト。私の一番目の涙──そういえば。『涙なんか流さなくていい』と私に言ったのは、貴方だけだったな」


 落ちてくる長槍の穂先と共に、イーラの涙がファーストの瞳の中に吸い込まれて、溶ける。

 そんな感覚とイーラの声を最後に、ファーストは息絶えた。


「あの時……傲慢な貴方……一瞬でも私の…………を奪われた事……最悪の汚点……私……私への怒りで涙……止め方……忘れちゃった……」


 ◇◇◇


 とある大陸にて。百年もの間、大陸全土を蹂躙した女王がいた。

 スペルビア王国第十七代目女王、イーラ・ラグニア・スペルビア。

 国滅ぼしの武器を無数に生成せし〈憤怒の涙〉を操る戦争の女神。

 世界を恐怖のどん底におとしいれ、〈最悪の女王〉の伝説として永く語り継がれることとなる彼女は、常に神器とされる一本の矢を携えていた。

 その矢の名は如何にも珍妙なもので、こう呼ばれている──〈一番目の涙ファースト〉と。

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イーラと一番目の涙 根占 桐守 @yashino03kayama

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