第三話 謝罪の起源
「……そもそも、あなたが先に嫌な顔をしたからでしょう!」
リビングに妻の鋭い声が響く。僕は、持っていたビールの缶を机に強く置いた。
「違う。君が先に、刺すような声で『おかえり』と言ったんだ。だから僕は不機嫌になった。原因は君にある。」
「いいえ、あなたが玄関を開ける前から、不機嫌なオーラを纏って歩いてくるのが窓越しにわかったわ。だから私は身構えたのよ。あなたが先よ!」
これだ。いつもの不毛な「どっちが先か」論争。
僕たちは、あらゆる感情の責任を相手に押し付けるために、記憶の糸を全力で遡り始める。
「じゃあ、一週間前のあの件はどうなんだ。君が先に『明日は雨だ』なんて予報をしたから、僕の仕事がうまくいかなかった。」
「それはあなたが、その前の晩に『雨が降ればいいのに』って顔をして寝ていたからよ。私はそれを読み取っただけ。」
「プロポーズの時だってそうだ! 君が『早く言って』という顔で僕を見ていたから、僕は仕方なく……。」
「失礼ね! あなたが『言わせてほしい』というオーラを全身から出していたから、私は受け入れる準備をしてあげたのよ!」
議論の焦点は、個人の人生の境界線を軽々と超えていく。
「だいたい、昨日の夜だってそうよ! あなたが『月が二つある』なんて寝ぼけたこと言って私を無理やり起こしたのが始まりでしょ。あのせいで睡眠不足なの!」
「それは君が先に、変な色の光が差し込んでるって寝言を言ったんだろ! 僕はそれを確認するために窓を見たんだ。君が先だ!」
「あら、その『変な光』だって、あなたが昔、実家の庭に埋めた変な石のせいじゃないの?」
「何の話だ! それを言うなら、君の母親が僕の母親に送った年賀状の文面が、そもそもの……!」
「あら、それを持ち出すなら、あなたの曽祖父がうちの家系の井戸を勝手に使ったことまで遡るわよ!」
「だったらこっちは、関ヶ原の戦いで君の先祖がうちの先祖の背後を突いたことまで言い返してやる!」
言葉の応酬は加速し、時空が歪み始める。
リビングの壁が砂のように崩れ、いつの間にか僕たちは、見たこともない戦場や、湿り気の強い太古の森を背景に立ち尽くしていた。だが、怒り狂う僕たちの目には、目の前の相手しか映っていない。
「戦いを選んだのはあなたたちでしょ!もっと言えば、農耕を始めたのが間違いなのよ。あなたが先に『米を植えよう』なんて言い出すから、所有なんて概念が生まれて、こんなにややこしくなったの!」
「言いがかりだ! 君がマンモスを追いかけるのに飽きて、『定住したい』って顔をしたから僕はクワを持ったんだ!」
時代はさらに猛スピードで巻き戻る。服は消え、言葉は咆哮に近くなり、やがて僕たちの肉体は粘液状の何かへと溶け合っていく
。
「いいえ、海から先に上がったのは、あなたの方よ! あなたが陸地に未練を見せたから、私の先祖もついていく羽目になったの!」
「ふざけるな。君の細胞が先に分裂を始めたから、僕もつられて分裂しなきゃいけなくなったんだ。孤独でいたかった僕を、君が無理やり『個』に変えたんだ!」
「その前よ! 有機物が無機物から生まれるとき、あなたが先に『生命になりたい』って動いたんでしょ!」
もはや言葉の体をなさない概念のぶつかり合い。
二人の姿は光の粒子へと変わり、ビッグバン直前の、極小の一点へと凝縮されていく。
「ねえ……どっちが先に、この宇宙(けんか)を始めたの?」
「……君が、僕を認識したからだ。」
「いいえ、あなたが、私を求めたからよ。」
真っ暗な虚無。
どちらが先か、答えは出ない。ただ、遥か遠くの虚空に、寄り添うように並んだ二つの白い光が、嘲笑うように輝いているだけだった。
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卵が先か鶏が先か ―円環の物語― ましろとおすみ @mashiro_osumi
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