第二話 鏡の男
深夜、玄関の鍵を開けて中に入る。
疲れ果てた体で、壁のスイッチを押し、玄関にある姿見の前で立ち止まった。
ネクタイを緩め、ふと鏡の中の自分と目が合う。その自分に向かい「お疲れさま」と今日も声をかける。一日頑張った自分を労う、いつものルーティンだ。
だが、少し違和感を覚える。
僕がネクタイに指をかけたとき、鏡の中の「僕」が、僕よりほんのちょっとだけ早く、僕に語りかけなかったか?
いや、いや、気のせいだ。疲れているんだ。僕は気を取り直して、右手を上げた。鏡の中の僕も、右手を上げる。
――いや、違う。
「僕が動いたから、彼が動いた」のではない。
「彼が動いたから、僕が動かされた」のではないか?
どちらが原因で、どちらが結果か。その微細な先後の差が、ゲシュタルト崩壊を起こし始める。
「……どっちだ。」
僕が呟くと、鏡の中の男も唇を動かした。
ふと、背後の小窓から差し込む光が、鏡の隅を白く焼いているのが見える。
その光を追って、鏡の中の男の瞳を見つめる。その茶色い瞳の中に、小さな光の点が二つ、並んで反射していた。
しばらく見つめた後、急いで後ろの光源を確認する。
そこに光は、一つしかなかった。
鏡の中の男が、僕を見たまま、にやりと笑う。
鏡は真実を映すものだ。ならば、瞳に「二つの光」を宿している彼こそが、正しい世界の住人なのか。
一つしか光を持たない僕の方が、あぶれ出された偽物ではないのか。
彼はゆっくりと、鏡の中にある小窓に手を触れる。
どちらが本体で、どちらが残像か。
どちらが先に、この世界に存在していたのか。
僕は、自分の瞳に足りない「もう一つの光」を求めて、吸い込まれるように鏡の奥へと手を伸ばしていた。
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