第一話 予言のメモ

 僕は非合理なことが嫌いだ。


 大学の講義で論理学を専攻しているせいか、世の中のすべての事象には、適切な「順序」がなければならないと信じている。雨が降るから地面が濡れる。腹が減るから飯を食う。極めて明快な因果律だ。


​ そのメモを拾ったのは、バイト帰りの午後九時すぎだった。


 駅前のロータリー、誰かに踏まれた形跡のない綺麗な付箋が、アスファルトの上で白く浮き上がっていた。


​『三分後、左の靴紐が解ける。』


​ 立ち止まってそれを読んだ僕の感想は、「頭の悪い悪戯」だった。誰が見つけるかもわからないこんなところに仕掛けることも、反応を見るにしてもずっと観察していないといけないであろうことも、全てが滑稽だ。


 僕は自分の左足を見た。一ヶ月前に新調したスニーカー。靴紐は、僕が今朝、完璧な力加減で蝶結びにしたままだ。解けるはずがない。


​ 僕は鼻で笑い、そのメモをポケットにねじ込んで歩き出した。


 見上げると、ビルの谷間に月が見えた。


 ……なんだろうか、あの光り方は。


 今夜の月は、妙に輪郭が滲んで見える。まるで、ピントの合っていない写真を重ねたような不自然な光だ。そのせいか、自分の影がわずかに二重にブレている気がして、僕は軽く目を擦った。


​ ふと、腕時計に目をやる。メモを拾ってから、ちょうど三分が経過していた。


 その瞬間だった。


 左足に、ふっと奇妙な「解放感」が宿った。


​「……え?」


​ 視線を落とすと、そこには信じがたい光景があった。


 つい数秒前まで固く結ばれていたはずの紐が、まるで自ら意志を持ってほどけたかのように、だらりと地面に垂れ下がっていたのだ。


 偶然だ。


 僕は解けた紐を結び直し、自分を納得させるように足早に歩いた。だが、ポケットの中のメモが、熱を持っているかのように主張してくる。


​ 僕は確認せずにはいられなかった。街灯の下で再びメモを取り出す。すると、そこにはさっきは無かったはずの二行目が、滲み出すように現れていた。


​『十秒後、向かいの家の窓が開く。』


​ ……十、九、八、……


 数えるつもりはないのに、頭の中の時計が勝手に時を刻む。


 ……三、二、一


​ ガラッ。


​ 静まり返った住宅街に、乾いたアルミサッシの音が響いた。


 左手にある古いアパートの二階。窓から一人の男が顔を出し、夜空を仰いで大きくため息をついた。

 

 鳥肌が立つ。僕の意志とは無関係に、世界の「結果」が先に用意されている。


 いや、違う。僕がこのメモを「読んだ」から、世界がそれに合わせて変質したのか?

 

 混乱する頭で、僕は三行目を見た。


​『三十秒後、君は空を見上げ、絶望する。』


​「……ふざけるな!」


 僕は叫んだ。絶望してたまるか。僕は絶対に、空なんて見上げない。


 僕は強く地面を睨みつけた。アスファルトの亀裂、転がっている石ころ、自分の靴。視線を一ミリも上げないよう、全身に力を込める。


​ だが、僕の視界の端で、影がゆらりと動いた。


 自分の足元に伸びる影。それが、さっきよりもはっきりと「二つ」に分かれている。


 一つは街灯の光によるもの。


 だが、もう一つは……上空にある、何か圧倒的な光によるものだ。


​ 影が、僕を誘惑するように長く伸びる。


 見たくない、見たくない、見たくない……。


 けれど、その光はあまりに強烈で、周囲の闇を白く塗りつぶしていく。

 

 抗えなかった。

 僕はゆっくりと、首を持ち上げる。


​「あ……。」


​ そこには、月があった。

 

 天頂で爛々と輝く巨大な月と、そのすぐ傍らに、今まさに細胞分裂を終えたばかりのような、もう一つの月が浮かんでいた。


​ どちらが本物で、どちらが偽物か。


 いつから二つあったのか。あるいは、僕が空を見たから二つになったのか。

 

 僕の頬を、冷たい涙がつたう。


 原因と結果が、ぐにゃりと混ざり合う。


 僕は、自分の足元で解けたままの靴紐さえ、結び直さないまま立ち尽くしていた。

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