最終章 縫われた夜、その先で

第7話 最初の縫い目


夜は、何事も無かったかのように続いていた。街灯は点き、風は冷たく吹いていて遠くからは車の音が流れている。まるで契約を交わした夜の続きを世界は気にもしていないような……。


それが私は怖かった。


「……変わって……ない……?」


自分の声が遠く聞こえる。足元の影はしっかりしているし空の月もいつも通り。それなのに胸の奥が静かすぎる。熱はもうなく、代わりに何か落ち着いてしまった感覚がある。


《……落ち着いたというより馴染んだの方があっている。》


不意に聞こえた声。驚くという感情より納得の方が勝った。


「……冴」


名前を呼ぶと微かに夜が応えた。月光が強くなるわけでもない。ただ確かに"近い"。


《初めて縫った夜だ。過剰な反動は出ないだろう》


「反動……出る時もあるんだ……」


《ある。だが今夜は小さい。》


冴の声は相変わらず淡々としていた。でも、その"当たり前"がもう私には普通じゃない事に気づいてしまった。


「……ねぇ冴」


《……なんだ》


「……私、ちゃんと"人間"のまま?」


この問いは冗談のつもりだった。でも声が震えた。


《……完全に人では無くなるには、まだ遠い。》


「……まだ?」


《夜を縫うたびに感覚が削られる。恐怖、躊躇い、迷い……お前が"人として夜を見る輪郭"だ。》


告げられる言葉に胸の奥が冷える。


「っ……それって……」


《今夜、既に一つ縫われた。》


冴の言葉と共に違和感が輪郭をもった。振り返ってみれば私はあの裂け目を前にした時、ほとんど迷いがなかった。怖かったはずなのに、逃げたいと思ったはずなのに。


「私……思ったよりも、平気だった……」


《それが最初の縫い目だ。》


冴の声は静かな断定だった。私はそっと空を見上げた。月は相変わらず白くて冷たい。でも……前みたいに"見下ろされてる"感覚は無かった。代わりにどこか内側から繋がっている。


「……もう、戻れないの?」


《戻れる夜もある。》


この間と同じ答え。でも、意味は少し違って聞こえた。


《だが今夜の感覚は……もう戻らない。》


胸の奥に静かな実感が落ちる。悲しいとも、後悔とも違う。ただ一線を超えたという事実。


「最初の縫い目……ね」


呟くと影がそっと揺れた。


《あぁ、これからお前は夜を縫う度に変わる。》


その言葉を聞いて私はゆっくり息を吐いた。


「……それでも呼ぶよ。夜が裂けたら、私が見てしまったら……呼ぶよ。」


月は黙って浮かんでいる。でも、もう何も言わなくてもわかる。


私はゆっくり歩き出した。人の夜と、境界の夜。そのどちらにも片足を残したまま。


これが……これが最初の縫い目。

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