第6話 月名を呼ぶ
夜は静かすぎた。街灯は点いているし風もある。車の音も遠くで聞こえている。それなのに、この一角だけが切り取られたみたいに薄い。
「……やっぱり」
足を止めた瞬間胸の奥がはっきりと熱を持つ。もう偶然だなんて思わない。この感覚は私を裏切らない。影が揺れる。縫い目がもう誤魔化しきれないほどに開き始めている。
《……来たか。》
声はもうすぐ近くにある。もう遠くない。夜の向こう側でもなくて……私のすぐ背後で同じ空気を吸っているみたいに。
「……今回は……大きいね。」
《あぁ……放っておけば人の夜に影響が出る。》
淡々とした声。だからか余計に逃げる理由を奪うようだった。胸の奥が強く脈打つ。まるでもう"決めているのだろう"と急かすみたいに。
「……ねぇ」
《なんだ》
「……私が呼んだらここは縫われるの?」
《正しく呼べばな》
「……その代償は?」
一拍、沈黙が流れた。
《……お前が人の夜から少しずつ外れる。完全にではない。戻れない瞬間は来る。》
その言葉を聞いて足が竦む。怖い。本当は逃げたい。でも……もう何も知らなかった頃には戻れない。
「それでも……それでも、放っておけない……」
影が大きく揺れる。裂け目が今までよりも深く夜を歪めている。
《理解した上で呼ぶのか》
「……呼ぶよ。見てしまったから。もう、知ってしまったから」
足が一歩、前に出た。もう……迷いはない。胸元に手を当てる。刻まれかけていた感覚がはっきりと在った。
「……お願いじゃない。逃げでもない。私が呼ぶ……だから、縫って」
そう告げた瞬間、世界が一瞬停止した。
《……いいだろう。》
その声はほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
《……なら呼べ。境界のこちら側から》
夜が……縫われるのを待っている。私は目を閉じて胸の奥にある"名前"を確かに掴む。
「……冴」
名前を呼んだ瞬間、夜が震える。月光が降り、空気が張りつめる。裂け目が縫い合わされて世界が、正しい形を取り戻していく。
同時に胸の奥が熱を通り越して"定着"した。逃げ道はもう……完全に塞がった。
《……契約は成立した。》
声はもう、夜の向こうではない。
《夜羽、これよりお前は夜に触れる者となる》
目を開く。月はいつも通り空に浮かんでいる。街も、人も、何も変わっていない。変わったのは……私だけ。
「……戻れない?」
私は小さく問いかけた。
《……戻れる夜もある。だが、戻れない夜も来る。》
それでも……それでも私は頷いた。
「……それでいいよ」
胸の奥が静かに応えた。夜はもう私を拒まない。
こうして私は、夜と名を交わした。
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