第3章契約と代償

第5話 月に近づく代償


夜は少しずつ、でも確実に形を変えていった。でもそれは誰でも気づくような明確な変化じゃない。街灯の明るさも空の色も、通り過ぎて行く人の表情も全てが昨日と同じ。


でも私だけが気づいてる。私だけがわかってしまう。夜が、脆くなっている。


その日は月が出ていない夜だった。雲の向こうにも光の気配は無い。ただ暗く、静かで深い夜。それなのに胸の奥が熱くなる。


「……来てる。」


足を止め小さく呟いた言葉は確信だった。該当の影が僅かに揺れた。揺れたと言うより縫い目が……緩んだ。


《……夜羽》


静かな声。もう驚きはしなかった。


「……今夜も裂けてる。」


《あぁ、まだ小さいが…このまま放置すれば広がる。》


月光はない。それでも"そこに在る"気配が確かに私を見下ろしている。


「……私が呼べば縫える……んだよね?」


問いかければ一拍の沈黙が流れた。


《呼べば、俺は触れられる。夜に、世界に。》


「……でも、その代わり……私は夜から遠ざかる」


《正確には"人の夜"からだ》


淡々とした声だった。私を怖がらせるためでも、止めるためでもない。ただ事実を告げている。


《夜を縫う度にお前は少しずつ境界へ近づく。感覚は鈍くなり人の輪郭は曖昧になる。》


その言葉に胸元が締め付けられる。


「っ……それって……」


《戻れなくなる可能性もある。》


ひゅっと息が詰まる。街灯の影が大きく揺れた。裂け目もさっきより大きく見える。


「……放っておいたら?」


《夜は崩れる。》


短い答えだった。私は拳を握りしめる。頭の中では「逃げたい」と思っているのに足は一歩も動かない。


「……ずるいよ。私に見せて、気づかせて……それで放っておけって言われても……」


《選んだのは俺ではない。お前が"見てしまった"時点で境界は開いた。》


胸の奥が脈打つ。熱が確かに形を持ちはじめている。


「……まだ、呼ばない。でも……」


《でも?》


「次に大きく裂けた時……その時は……呼ぶよ。」


《……あぁ。それでいい。理解した上で呼ぶならそれは契約に近い。》


夜が一瞬停止したあとまた揺らぎ始めた。胸元の熱を押さえる。怖い……でももう目を逸らせない。


《なら今夜はここまでだ。夜羽》


声が遠ざかり、裂け目はゆっくりと縫い戻される。世界はまた何事も無かったかのように静かになる。


私はその場に立ち尽くしたまま空を見上げていた。


「……近づいちゃったな……。」


誰かに向けた言葉ではない。それでも胸の奥が微かに応えた気がした。

まだ契約はしていない。名前も呼んでいない。


けれど……夜はもう私を"外側の人間"としては扱っていなかった。

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