第2章 月に名を呼ばれる

第3話 月は名を求める


その夜は結局眠れなかった。目を閉じればあの月の輪郭が脳裏に焼き付いていたから。胸の奥の熱は時間が経っても消えず、脈打つ度に存在を主張してきた。


夢を見たのかどうかも分からない。ただ気が付けば朝になっていて昨日と同じように世界は動き出していた。


学校へ向かう道、騒がしい声に車の音。いつも通り"普通"の朝。それなのに私の視線は空へと向いた。もうそこには月はないのに……。


「気の所為……だよね。」


自分にそう言い聞かせて私は歩き出す。昨日の夜を無かったことにする為に。けれどその願いはあっさりと裏切られた。


その日の夕方、帰り道の途中で空気が変わった。昨日ほど露骨じゃない。けれど確かに夜が"薄く"なっている。


「また……?」


見上げた空に月は浮かんでいない。それなのに月光だけが落ちてくる。その時、影が揺れた。私は小さく息を飲んだ。昨日と同じ……夜が正しい形を失いかけている。


「逃げ……なきゃ……」


そう思うのに身体が動かない。胸元が熱を帯びる。昨日よりもはっきりと鮮明に。


《……夜羽》


頭の中に直接落とされる声。はっきりと私の名前を呼んだ声。


「誰……!?」


声が震える。心臓が痛いほど速く脈打つ。返事は返ってこない。けれど空気が応えた。月の気配が確かにそこに"在る"


《やっと目が合った。》


淡々と告げられる声。そこには怒りも、喜びも……感情が感じ取れなかった。


「あなたが……昨日の……?」


言葉が途切れる。どう問いかければいいか分からない。


《名前を呼ぶ必要は、まだない。ただ理解は必要だ。呼べば俺は夜に触れられる。》


息が止まる。口を開こうとした瞬間ぐらりと視界が揺れる。頭の中に響く声はさっきの夜と同じ静けさを纏っているのに……確かに世界の奥を掴んだ。


《夜は、縫わなければ崩れる。呼べば触れられる。だがその代わりお前は夜から遠ざかる。》


「遠ざかる……?」


問いかけたはずなのに声が震えて殆ど音にならなかった。


《戻れなくなる、という訳では無い。ただ以前とは同じでは居られない。》


月光が僅かに強くなる。それに合わせて胸元は脈打った。まるで何かが私の中で居場所を作ろうとしているみたいに。


「それでも……」


続けようとした言葉は音にならなかった。もし続けてしまえば境界を超えてしまう。


《今はまだ、呼ばなくていい。理解する時間が必要だ。お前も、夜も。》


その言葉で月光が引く。影が元の形に戻り歪みかけていた夜は何事も無かったかのように静かになった。私はそっと空を見上げる。もう月は、ただの月の顔をしていた。


「……分かった。」


返事は夜に溶ける。それでも胸の奥が微かに応えたような気がした。私は足早にその場を離れる。まだ名前は呼ばない。呼べない。


けれど次に夜が裂けた時……もう知らないふりは出来ない。

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