第2話 名前はまだ呼ばれない
その場から動けないままどれだけ時間が経ったか分からない。
夜は相変わらず静かで裂けかけた感覚だけが私の中に残っていた。月は少しだけ遠くなったけれど先程までの異変が嘘だとは思えない。胸元を押さえた指先にまだ熱が残ってる。
「夢……じゃないよね……」
誰かに向けたわけではない言葉は返事を待たないまま夜へ落ちた。音は響いているのにどこか膜越しに聞いているような感覚が抜けない。
「……帰らなきゃ」
一歩、慎重に足を踏み出す。今度は動く足に私は小さく息を吐く。背後に月の気配を感じながら振り返らないように足を速める。振り返ってしまったら何かが決定的に変わってしまうだろうから。
数歩進んだところで胸の奥がまた疼いた。今度は痛みではない。まるで冷たい指先で内側を撫でられたような感覚。
「っ……!?」
空気がさっきよりも重くなった。まるで夜が私の周りに集まり逃げ道を塞ぐような……。その時、声のようなものが聞こえた。言葉じゃない。音ですらない。
けれど確かに"呼びかけられている"と分かる何か。胸の奥がまた熱くなり脈を打つ。
《まだ、だ。》
はっきりとした意味を持たないのにそう受け取った。受け取ってしまった。"今はまだ、名前を呼ぶ時じゃない"と。
「誰……なの……?」
問いかけると月光が揺れる。夜が呼吸するように膨らみまた静かになる。答えは返ってこない。
ただ胸の奥に刻まれかけた感覚だけが確かにそこに残っていた。これは偶然じゃない。私が見てしまったから?違う。通りかかったから?それも違う。
"選ばれた"という言葉が頭によぎりすぐに打ち消す。そんな大それた話なんかじゃない。ただ境界に触れてしまっただけ。
月は黙ったまま空に浮かんでいる。白く、冷たく変わらない顔で。
「……今日、は帰る。」
それが逃げだとしても構わない。今はまだ名前を呼ばない。呼んでしまえば……もう"何も知らなかった夜"には戻れないことが分かるから。
私は月から視線を逸らし今度こそ歩き始めた。
胸元の熱を抱えたまま。
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