第8話 出立

 器土堂かわらけどうが茂兵衛を見た。


 「須原屋すはらや。お主には世話になった。お礼に『万宝まんぼう料理りょうり秘密箱ひみつばこ』の補刻版の原稿を残しておく。出版して金に換えるがよい」


 器土堂はそう言うと、蔵の出口を指さした。


 「では、私はこれから、この船で波留螺はるら星に向けて出立することにする。お主たち、ここにいては波留螺はるら星に行ってしまうぞ。早く蔵から出るがよい」


 写楽たち三人は、器土堂に言われるまま蔵の外に出た。


 外に出ると、重三郎が器土堂に聞いた。


 「出立というと・・この船が天空高く飛び上がるのか?」


 蔵の中から器土堂が応えた。


 「飛び上がったりはしない。お主たちの概念で言うと・・消えるのだ」


 今度は写楽が聞いた。


 「器土堂。波留螺はるら星とはどのような星なのだ?」


 蔵の中から声がした。


 「素晴らしい星よ。この星のような醜い争いなどはない。美しい色彩にあふれた絵画のような世界だ・・では、さらば」


 蔵がだんだんと薄くなっていった。


 写楽は思わず叫んでいた。


 「待て。私はそのような素晴らしい星をぜひ絵に描いてみたい。器土堂、私も波留螺はるら星に連れて行ってくれ」


 写楽が薄れていく蔵の中に飛び込んだ。


 重三郎が叫んだ。斎藤ではなく、思わず写楽という名前が出た。


 「写楽さん。行っちゃあいけねえ・・」


 重三郎と茂兵衛の目の前から・・蔵が消えた。跡には紙が散乱していた。器土堂が言っていた『万宝料理秘密箱』の補刻版の原稿だ。紙以外は・・裏庭の草が生えているばかりだ。


 その原稿を目で追いながら、茂兵衛がポツリと言った。


 「蔦屋さん。阿波徳島藩お抱えの能役者、『斎藤十郎兵衛』てえのは・・お宅の絵師、東洲斎写楽だったんだね」


 重三郎は黙って夜空を見上げた。


 寛政7年の初夏の月が出ていた。

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