第9話 退職届と深層ダンジョン

退職届は、驚くほどあっさり書けた。


名前。

日付。

理由――一身上の都合。


たったそれだけ。


「……拍子抜けやな」


何年も縛られていた鎖が、

紙一枚で形になる。


だが。


会社に向かう足取りは、重かった。


---


「……本気?」


会議室。

向かいには、例の上司。


机の上に置かれた退職届を、

まるで汚物でも見るかのように眺めている。


「探索者ごっこにハマっただけだろ」


ごっこ。


「どうせ、すぐ死ぬ」


言い切りだった。


「今なら、なかったことにしてやる」


――優しさのつもりか。


遠藤は、ゆっくりと首を振った。


「もう、十分です」


「は?」


「俺、ここで死んでましたから」


一瞬、理解できない顔。


「毎日、削られて。

 怒ることも、考えることも、

 全部やめて」


遠藤は、淡々と続けた。


「ダンジョンの方が、

 まだ生きてる感じがするんですわ」


上司の顔が、歪んだ。


「ふざけるな!」


机を叩く音。


「社会を舐めるなよ!

 会社辞めたら、何が残る!」


「……自分です」


その一言で、空気が凍る。


「受け取ってください」


遠藤は、立ち上がった。


背中に、怒鳴り声が飛ぶ。


「後悔するぞ!」

「戻ってきても、居場所はないからな!」


ドアを閉める。


音が、やけに大きく響いた。


――これで、終わりや。


心臓が、激しく打っている。


怖い。

不安。

でも。


後悔は、なかった。


---


その足で、遠藤はダンジョンに向かった。


深層指定区域。


初心者は立ち入り禁止。

中級探索者でも、死亡率が跳ね上がる場所。


「……退職初日から、これか」


苦笑しながら、歪みに足を踏み入れる。


空気が、違う。


重い。

呼吸が、浅くなる。


――殺しに来とる。


明確な悪意。


奥で、何かが動く。


現れたのは、

異形の集合体――深層ボス。


視線が合った瞬間、

全身が硬直する。


【精神威圧:極】


膝が、笑う。


「……さすがに、これは」


一瞬、逃げる選択がよぎる。


だが。


――逃げたら、また戻るだけや。


会社に。

あの会議室に。


【感情変換:怒 最大出力】


怒りが、静かに燃え上がる。


恐怖は、消えない。

だが、支配されない。


「俺は……」


一歩、前に出る。


「もう、使われる側ちゃう」


鉄パイプを構える。


ボスが、咆哮する。

衝撃波。


身体が、吹き飛ばされる。


「ぐっ……!」


壁に叩きつけられ、視界が揺れる。


【サービス残業:発動】


限界を、超える。


血の味。

息が、苦しい。


――死ぬかもしれん。


それでも。


「……それで、ええ」


次の瞬間。


視界が、白く染まった。


【ユニークスキル取得条件:達成】


【退職届:発動待機】


「……は?」


意味を理解する前に、

身体が、熱に包まれる。


――終わらせろ。


誰かの声。

自分の声。


遠藤は、最後の力を振り絞った。


---


外に出た時、

夜が、やけに静かだった。


担架。

医療スタッフ。

遠くで、ざわめき。


だが、意識ははっきりしている。


【退職届:発動】


【不利契約・隷属・支配効果:解除】


【全能力一時回復】


遠藤は、天を仰いだ。


「……ほんまに、辞めたんやな」


会社も。

過去も。


あとは――


「……生きるだけや」


深層ダンジョンの闇は、

まだ彼の背後にある。


だが。


もう、引き返す場所はない。


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