第七章 紫陽花の咲く場所



 ——あれから、どれくらい経っただろう。


 六月の雨は、やっぱりしつこい。

 でも今日は、その雨が嫌いじゃなかった。


 チャペルの外の庭に、紫陽花が並んでいる。

 青と紫のあいだを揺れる花びらが、

 濡れた石畳の上に柔らかい影を落としていた。


 ぼくは、その景色を窓越しに眺めながら、

 胸ポケットの中の招待状を軽く指で押さえる。


 新郎・山岸樹。

 新婦・春川紗季。


 何度も夢みたいに歪んで、

 何度も壊れかけた二人の名前が、

 今は真っ直ぐに並んで印刷されている。


「緊張してる?」


 隣から声がした。


 振り向くと、淡い色のワンピースを着た桜が、

 少しだけ笑いながらこちらを見上げている。


「……まあ、少し」


「そりゃそうだよね。

 “元同級生の片思い相手の幼馴染の結婚式”って、

 肩書きだけで情報量多すぎるし」


「言い方」


「お前だって”元同級生の片思い相手の結婚式”だぞ」


「言い方」


 お互いに一笑した後、桜が目を細めた。


「でも、お互いちゃんと来れたね」


「…ああ」


 紗季の晴れ姿を、

 ちゃんとこの目で見届けるって決めた。


 あの日、教室で言葉を交わしてから、

 ループは起こっていない。


 あの瞬間を境に、

 時間はやっと前にしか進まなくなった。


「春川さん、きれいだね」


 桜が、チャペルの中をちらりと覗き込む。


 白いドレスに身を包んだ紗季が、

 家族と並んで写真を撮っている。


 その隣で、山岸が照れくさそうに笑っていた。


「うん。似合ってる…。…山岸もかっこいいぞ」


「うーん…それは…どうだろ」


 桜と目を見合わせて一緒に笑う。


「……大丈夫?」


 桜が、ぼくの横顔を覗き込む。


「昔のこと、思い出してない?」


「少しくらいはな…」


 嘘ではなかった。


 最初に紗季から彼氏報告を受けた雨の日も、

 式場で全部ぶち壊しかけた日のことも、

 頭のどこかにはちゃんと残っている。


 でも、それと同じくらい鮮やかに、

 図書室で桜と勉強していた時間や、

 一緒にアパートを探して歩いた日のことも思い出す。


「でも、冬城が一緒にいてくれてるから大丈夫だ」


 そう言うと、桜が耳まで赤くした。


「そういうこと、さらっと言うようになったよね、黒川」


「……そうか?」


「そうだよ」


 肩を軽く肘でつつかれる。


「昔のあんたなら、全部飲み込んで“ごめん”か“すまない”って

 言って終わりにしてた」


 その言葉に、

 どきりと胸が鳴った。

 …ごめん。

 すまない…。

 いつもそればかり繰り返していた姿が、

 一瞬だけ頭をよぎる。


 すぐに、静かになる。

 今はもう、

 あの声が前に出てくることはない。


「……そうかもな」


 ぼくは、小さく笑った。


 チャペルの扉が開く。

 呼び出しのベルが鳴って、

 ゲストたちがぞろぞろと中へ入っていく。


「行こっか」


「うん」


 桜と並んで、バージンロードの端の席に座る。


 前方には、祭壇。

 淡い紫の紫陽花が、ガラスの向こうで揺れている。


 チャペルの扉が開き、音楽が流れ始める。


 白いドレス姿の紗季が、ゆっくりと父親と共にバージンロードを歩いてくる。

 緊張で少し表情が固い樹の姿。


 昔見た光景と、同じようでいて、決定的に違う。


 あのときの紗季は、泣きながら立っていた。

 今の紗季は…

 ちゃんと、笑っている。


 涙の気配は、まったくないわけじゃない。

 でも、それは悲しみではなくて、

 たぶん、ここまで来るまでに積み重なった、いろんなものの重さだ。

 桜がそっと、ぼくの手を握る。


 誓いの言葉。

 指輪の交換。

 キスの直前、ほんの一瞬だけ、紗季の視線がこっちに向いた。

 

 目が合う。


 紗季は、少しだけ目を細めて笑った。

 あのときと、同じ「最低」と言った目じゃない。

 「見ててね」と言うような、

 それでも「もう来ないで」と線を引くような、

 不思議な距離感のある笑顔。

 ぼくは、ほんの少しだけ顎を引いて頷いた。

 それだけで十分だった。


 誓いのキス。

 拍手。

 花びらが舞い上がる。


 終わった、という実感が、

 胸の奥に静かに沈んでくる。

 胸の奥で、何かがきちんと締めくくられていく感覚があった。


 これでいい。


 心からそう思えた。


 ◇


 式が終わって、

 披露宴会場へ移動する手前。


 廊下の角で、紗季と目が合った。


「悠」


 ドレスの裾を少し持ち上げて近づいてくる。

 山岸は、少し離れたところで友人たちに囲まれていた。


「来てくれて、ありがとう」


「おめでとう」


 自然と、そう言えていた。


 紗季は、桜にも目を向ける。


「桜ちゃんも、来てくれてありがとう」


「当然。黒川は一人で行かせると危ない」


 二人が笑い合う。


 その光景を見ているだけで、

 胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……じゃあね」


 紗季は短くそう言って、

 ひらひらと手を振り、再び人の中に消えていった。


 背中越しに、一瞬だけこちらを振り返ったような気がしたが、

 それが気のせいかどうか確かめる必要はなかった。


 ◇


 披露宴の最後の拍手が、廊下の奥に吸い込まれていく。

 扉が閉まった途端、音が遠くなって、世界が少しだけ静かになった。


 外は雨上がりで、石畳が街灯をぼんやり映している。

 式場の裏手に回ると、植え込みの端に紫陽花が咲いていて、

 花びらの先に水滴が残っていた。


「……追い出されずに済んだね」


 桜が、息を吐くみたいに言う。

 いつもの憎まれ口の温度より、少しだけ柔らかい。


「さすがに今回は、静かにしてたからな」


「自慢?」


「違う」


 肩をすくめると、桜は鼻で笑った。

 笑うくせに、目はこっちを見ない。


 沈黙が落ちる。

 けれど、気まずい沈黙じゃない。

 言わなくても分かってしまうことが、

 二人の間に増えすぎただけの沈黙だ。


「……ねえ」


 桜が、紫陽花を見たまま言った。


「春川さん……綺麗だったね」


「ああ」


 それ以上は出てこない。

 言えば、余計なものが混ざる気がした。


 桜は少し間を置いて、手をポケットに入れた。

 指先が何かを探すみたいに、布の中で動く。


「……黒川」


「ん」


「……帰ろ」


「うん」


歩き出して、数歩。

桜が不意に立ち止まって、こちらを見た。


真正面から目が合う。

逃げ道を塞がれたみたいに、喉が詰まる。


「……逃げたくなった?」


「……なった」


正直に言うと、桜は小さく笑った。


「でしょ」


「でも…」


言葉が勝手に続く。


「一番大切な人が一緒にいたから、大丈夫だった」


桜の笑みが消える。

驚いたみたいに、目がわずかに揺れる。

それでも桜は、何も言わない。言わせない顔をする。


風が吹いて、木の上の水滴が落ちた。

桜の髪の毛先が濡れて、桜が眉を寄せる。


「……ほんと、そういうとこ」


「どういうとこ?」


「……ずるい」


桜は視線を逸らして、先に歩き出した。

追いかける足が、自然と同じ歩幅になる。

少し間を空けて、ぼくは言った。


「指輪ってさ」


桜が足を止める。

振り返る目が、ほんの少しだけ身構える。


「……なに。それ。春川さんの話?」


「違う」


「じゃあ誰の」


「……桜の」


桜の呼吸が止まるのが分かった。

雨上がりの空気が、妙に冷たく感じる。


「どこのがいいのかなって」


桜は固まったまま、笑うのを忘れた顔をする。


「……え?」


「いや」


俺は一度だけ視線を落として、もう一度持ち上げる。


「桜の指輪は、どこで買えばいいのかな」


言い直した瞬間、桜の目の奥が熱を帯びた。

泣きそうな顔をするのに、泣かない。

強がりだけが、最後まで残る。


「……それ、ずるいよ。悠…」


「ずるくない」


「ずるい。だって……」


桜は言いかけて、噛みしめる。

言葉にしたら壊れるものがあると知っているみたいに。

ぼくは…俺は言い訳をしなかった。

もう…確認は要らない。


「桜」


名前を呼ぶと、桜が小さく肩を震わせた。


「……なに」


「桜のことを誰よりも愛している」


桜が、ゆっくり瞬きをした。

その瞬きの隙間に、過去のどこかの景色が混ざった気がした。

桜は唇を噛んで、それからようやく息を吐いた。


「……遅い」


「すまない…」


「……謝るの、そこじゃない」


「じゃあ、どこ」


桜は一歩近づいて、俺の胸元の服を軽く掴む。

爪は立てない。逃がさない程度の力。


「……言葉」


「言った」


「足りない」


桜はそう言って、少しだけ笑った。

泣きそうな笑い方だった。


「……もう一回」


俺は、もう一度だけ繰り返す。


「桜。誰よりも愛している」


桜は、ようやく頷いた。

そして、照れ隠しみたいに乱暴に言う。


「……じゃあ、買って。私の」


「うん」


桜は俺の胸元を掴んだまま、視線を下げた。


「次は…返してあげないから…」


俺は、桜の手の上にそっと手を重ねた。


「じゃあ…」


桜が顔を上げる。


「……なに」


「帰えるか…」


桜は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「……ばか」


桜は小さく頷いて、俺の手を握り直した。

雨上がりの風が吹いて、紫陽花の葉が揺れる。

どこかで、花びらみたいな小さなものが舞った気がした。


二人は並んで歩き出す。

まだ名前を呼ぶには少し照れくさくて、

でも

もう、迷子にはならない。

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