第六章 選んだ終わり方

 六月の雨は、朝からずっと降ったりやんだりを繰り返していた。


 放課後の教室には、もうほとんど人がいない。

 黒板には最後の授業の数式が残り、

 窓の外では、灰色の雲の下を車のライトが行き交っている。

 紗季との約束の日で計画決行の日。待ち合わせにはまだ早い時間だ。

 僕は自分の席に腰を下ろし、スマホの画面を見つめていた。


『ちょっと相談がある。教室、寄れない?』


 宛先は、冬城桜。

 あいつと逃げ場所を一緒に探してきた相手であり、

 別のルートでは、僕のことを誰よりも大事にしてくれた子。

 胸の奥のどこかが、うすく笑う。

 「了解」のスタンプが飛んできたあと、しばらくして廊下から足音が聞こえた。

 ガラリ、とドアが開く。


「黒川?」


 顔を覗かせた冬城桜が、教室を見回し、僕を見つけてほっとしたように笑う。

 冬城桜はカバンを抱えなおしながら、僕の方へ歩いてくる。


「で、“相談”ってなに?」


「その前に、ちょっとだけ…」


 ポケットの中でスマホを握り直し、別の名前をタップする。

 春川紗季。

 発信ボタンを押し、コール音が鳴り始めたところで切る。

 たった一回だけ鳴った着信音。

 約束の時間より早いコール。

 紗季なら、それだけで「何かあった」と察して、ここに来る。


「ねえ、本当にどうしたの?」


 冬城桜が、机の横で足を止める。


「顔、こわいよ。らしくない」


「……らしくない、ね」


 無意識に口元が歪む。


「ちょっとさ。冬城にしか頼めないことがあって」


「頼み……?」


 眉が、不安そうに寄る。


「嫌な予感しかしないんだけど」


「すぐ終わるよ」


 僕は席から立ち、口ではそう言いながら、

 冬城桜との距離をじりじりと詰める。

 

「ちょっと、近い」


「我慢して」


 肩に手を置いた瞬間、冬城桜の体がびくんと跳ねる。


「黒川?」


「冬城」


 名前を呼びながら、覗き込む。

 怖がっている。

 でも、『逃げ場』はもうない。


「ほんとに、どうしたの。様子、おかしいって」


「おかしくなんかないよ」


 自分でも驚くほどなめらかに、嘘が出てくる。


「ただ——少し、試したくなっただけ」


「試す?」


「うん。どこまでだったら、壊れずに済むのか」


 片方の手で桜の手首をつかみ、乱暴に引き寄せる。


「っ……ちょ、なに——」


 言葉を途中で切るように、身体ごと机に押し付けた。

 片腕で肩を押さえつけ、空いた手が制服越しの胸元をつかむ。


「や、っ——離して!」


 桜の膝が、反射的に僕の脇腹を蹴り上げる。

 息が詰まる。それでも、指は離さない。

 顔をそらそうとする顎をつかみ、無理やり正面に向け——唇を近づける。


『やめろっ!!』


 頭の奥で、怒鳴り声が弾けた。

 視界がぐにゃりとゆがみ、足元が抜ける。

 胸の内側から、誰かに思い切り引きずり出される感覚。


 そこまで思ったところで、世界が裏返った。


 ◇


 次に目を開けたとき、俺は桜に突き飛ばされ、机の角に背中をぶつけていた。

 息が、うまく吸えない。


 足がふらつく。

 身体が鉛みたいに重い。

 乱れた机。倒れた椅子。桜の顔。

 遅れて流れ込む映像が喉に詰まって、胃がひっくり返る。


 間に合ってない…。

 桜は机の向こうへ跳ねるように下がり、

 肩で息をした。


 頬が熱い。どこかをぶつけたらしい。

 視界が揺れて、音が少し遅れて入ってくる。


 ——まずい。

 このままじゃ……。


 桜は距離を取り、胸元を腕でかばいながら、ゼェゼェと荒い息をしている。

 頬には涙の跡。制服の襟は伸び、髪も乱れていた。


「……最低」


 桜が、かすれた声で言う。


「最っ低だよ、黒川」


 違う、と喉の奥まで出かかった言葉を、飲み込んだ。


 ここにいるのが誰だろうと、桜から見れば同じ顔だ。

 止めるのが遅かった、それは紛れもない事実だった。


 立ち上がろうとした足が、さらにもつれる。

 何度も自分の死を引き受けてきたツケが、

 何度も非難を浴びたツケが、

 じわじわと精神を蝕んでいた。


 そのとき——廊下の向こうから、駆け足の音。

 聞き慣れたリズムだった。


「悠!」


 勢いよくドアが開き、紗季が飛び込んでくる。

 桜の姿を見つけるなり、まっしぐらに駆け寄った。


「冬城さん! 大丈夫!?」


「……私は平気」


 息を整えながら、桜がかぶりを振る。


「間に合った。……ほんとにギリギリだけど…」


 その一言で、紗季の視線が、ゆっくりと俺に向いた。


 真正面から、睨みつけてくる。


「……あんた、なんだよね」


 低く沈んだ声だ。


「悠の“悪意”」


 足音を鳴らしながら近づいてくる。

 一歩ごとに、視界の中の紗季が大きくなる。


「どこまでやれば気が済むの…。

 樹を殺して…。

 何度も私を襲おうとして…。

 今度は冬城さんまで、同じ目に遭わせようとして…

 私は絶対にあなたを許さない…」


 胸の奥がひどく軋む。

 それでも、逃げなかった。

 いや、逃げるだけの体力が、もう残っていなかった。


 目の前まで来た紗季が、俺の胸ぐらをつかんだ。


「何度も何度も、夢で見た。

 樹が血だらけで倒れて、私が泣いてて。

 図書室でも、夜道でも、誰かが私に触ろうとしてくる」


 紗季の手が震えた。


「怖かった。気持ち悪かった。

 何回も目が覚めて、吐きそうになって。

 それでもまた目を閉じたら、また同じ夢を見せられて」


 一つ一つの言葉が、刃みたいに刺さる。


「あんたなんか…大嫌い。私の世界を何回も壊して、

 大事な人を奪って、私の心まで踏みにじって…」


 足元が崩れそうだ…。

 ああ、そうか…。

 紗季の中では、全部「悪意」の仕業にされている。

 紗季の視線が、刺さる。


「消えて」


 短い。鋭い。視界が霞む。


「二度と、私たちに触らないで!」


 拒絶が、刺さる。

 否定が、押し潰す。


「私の大事な人に、指一本触れないで!」


 紗季の声が、さらに低くなる。


「私の人生に、二度と関わらないで!」


 全身から力が抜けていく。思考が真っ白になり

 輪郭が、ふちから削れていくような感覚。


 ああ、これは…。消える…のか…


 言葉が続くたびに、世界が遠のいた。

 音が、少しずつ水の中みたいにくぐもっていく。

 輪郭が薄くなる。立っているのに、床が遠い。


 …消える。


 これが、本当に「終わる」ということかもしれない。

 身体から力が抜けていく。視界の端が暗く染まり始める。


 …このまま…消える…のなら…


 最後くらい、見ておきたい顔があった。

 重たい首を無理やり持ち上げる。

 紗季の向こう側。黒板の脇の壁にもたれて、桜がこちらを見ていた。

 乱れた襟を握りしめたまま、唇を噛んで。


(すまない…最後ぐらい…お前に逃げても…) 


 目が合う。


 その瞬間、桜の表情が大きく揺れた。


「……春川さん…」


 桜が、掠れた声で呼ぶ。


「邪魔をしないでっ!」


 まだ怒りの熱を残したまま、紗季が振り返る。


「その人は…違う!少しでいいから…」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 桜はただ、紗季の腕を掴んで止める。

 紗季の動きが、その一拍だけ止まる。

 教室の空気が固まったみたいに、静まり返る。


 紗季と、俺の視線が真正面からぶつかった。


 逃げ場はない。視界が暗い…。

 謝る言葉なんて、本当はもう何の意味もない。

 それでも…俺には、もうそれしか持っていなかった。


「……すまなかった…」


 喉の奥から、絞り出すように。

 それは、何度も悪夢の中で繰り返されてきた言葉と同じ響きで。

 けれど今度だけは、そのまま消えてしまっていい…という諦めが、

 少しだけ混ざっていた。


 視界の中で、紗季の顔が揺れる。

 桜の顔も、涙でぼやけていく。


 音が遠のいていく。

 雨の音だけが、だんだんと濃くなっていく。


 俺の世界は、静かに、底の方へ沈んでいった。


 ………


 いや、沈んでいく…はずだった。


 真っ暗な水底に、そのまま落ちていく感覚。

 音も光も遠ざかっていくその途中で。

 不意に、引き止められた。


 あたたかい。


 胸のあたりに、柔らかい重さ。

 制服の前を、誰かの指がぎゅうっと掴んでいる。


「…ち…がう…」


 耳元で、しゃくり上げるような声がした。


 …紗季、か…。


 ぼんやりした意識の底で、名前だけが浮かぶ。


「違う……違う……あんたじゃない……」


 涙で滲んだ声が、制服越しに震える。


 重たいまぶたをどうにか持ち上げると、視界いっぱいに紗季の髪と肩があった。

 胸に縋りつくみたいにしがみつきながら、顔を押し付けて泣いている。


「……紗季」


 掠れた声が、自分の喉から漏れた。


「さっきの…“悪意”の目じゃない……」


 紗季が、しゃくり上げながら絞り出す。


「夢で何回も見た“すまない”と……同じ目だった……。

 あなたが…私を…私たちを守って…くれていた……」


 喉の奥が、ひりつく。


 山岸が撥ねられたとき。

 図書室で、押し倒されかけたとき。

 夜道で、顔を隠した誰かに胸を掴まれたとき。


 間に合わなかった分だけ、俺が最後に引き受けてきた場面だ。


 桜が、俺の手を握った。

 言葉はない。

 ただ静かに頷く。

 胸の奥が少しだけ持ち上がって、逆に痛かった。

 時間がない。保てない。


「……俺は」


 言いかけたところで、別の気配に気づく。

 俺は、息を整えるみたいに、ゆっくりと口を開いた。


「……紗季」


 今度は、紗季の両肩に手を置く。

 力が入らず、指が小さく震えた。


 そして…覚悟を決めた。


「これから言うこと、すごく最低だ…」


 紗季の喉が、ごくりと動く。


「でも、やらなきゃ終わらない。悠を、終わらせるために…」


 その名前を口にした瞬間、胸の奥で何かがざらりと軋んだ。

 奥の方で、まだ消え切っていない“僕”が、かすかに暴れる。

 心の中で押し込める。


「さっきまで紗季が“悪意”だって信じてた方…あれが悠だ…」


 はっきり言う。


「山岸を押したのも。

 何度もお前に手を伸ばそうとしたのも。

 桜を、机に押し付けたのも。全部、悠だ…」


「……うそ」


 紗季がかぶりを振る。


「だって、悠は…」


「家族を失って、紗季に縋って、勝手に期待して、勝手に絶望して。

 山岸を殺して、それでも『僕だって被害者なんだ』って顔を続けてきた…」


 俺は、逃げ道を残さないように言葉を選ぶ。


「ループを見つけてからは、自分が納得できる世界を作るためだけに、

 何回も死んだ。

 死ねば戻れるって分かってからは、何度も繰り返した…」


 紗季の肩が、小さく震える。


「……じゃあ、あなたは?」


「俺は悠が自分を守るために生み出した…ただのコピーだ…」


 それが正しいかどうかは分からない。

 ただ、事実としてそうだった。

 紗季の目から、ぽろぽろと涙が落ちる。


「樹のことも、私のことも、冬城さんのことも……

 あんたが守ろうとしてくれてたのに……

 全部“悪意”のせいだって決めつけて……

 何回も、罵って、否定して……」


「それでいい」


 短く返す。


「そう見えるように、全部悠が仕組んでた。

 俺は、止めて沈むことしか出来なかった」


 喉が焼けるように痛い。

 指先に、残っている力を全部込める。


「紗季…。悠を…否定してやってくれ…」


 紗季の目が、大きく見開かれる。


「名前で呼んで、言ってくれ。

 『悠なんて大嫌い』って。

『二度と私の前に現れないで』って」


 胸の奥で、何かがびくんと痙攣する。

 奥に沈んでいた“僕”の気配が、はっきりと抵抗を始めた。


「今までお前が俺にぶつけてきた言葉、全部、本当は悠が受け取るべきだった。

 だから、それをあいつに返してやってほしい」


「……私が、悠を殺すってこと?」


「殺すんじゃない…」


 首を振る。


「もうこれ以上、誰も傷つけなくていい場所で、寝かせてやるだけだ。

 『ここまででいい』って、誰かが言ってやらなきゃいけない」


 それを、自分じゃなく紗季に頼んでいることが、どれだけ残酷かも分かっている。


「辛い役目を押し付けて、本当に……すまない」


 そこだけは、どうしても言わずにいられなかった。


 紗季は、ぎゅっと目を閉じる。


 肩に置いた俺の手から、じわじわと力が抜けていく。


「……時間…あんまり残ってねえわ…」


 冗談みたいに言ってみせると、桜が鼻で笑った。


「そんな顔で言わない。……ほんと、ずるいんだから」


 その声に、救われる。


「紗季」


 もう一度、名前を呼ぶ。


「これで最後だ。後は…任せた…」


 そう告げて、俺はそっと目を閉じた。


 胸の奥で、静かに何かが切り替わる。


 前に立っていた俺は、一歩、奥へ下がる。

 代わりに、ずっと奥で牙をむいていた“僕”が、

 ゆっくりと浮かび上がってくるのを感じながら——


 俺は、そのまま暗闇の向こう側へと、静かに身を引いた。


 ◇


次の瞬間、胸の奥が熱かった。


 腕が回っている。髪が頬に触れる。

 紗季の匂い。


 …抱きしめられている。


 僕は喉の奥で笑いそうになった。

 成功した。やっとここまで来た。


「……紗季」


 名前を呼ぶ声が、自分で思うより柔らかい。

 でも今は、それでいい。そういう空気だ。


 紗季は顔を上げない。震えている。

 近くで桜の息を呑む気配がした。


 僕は顔だけ向ける。


 冬城桜の目が赤い。

 その目が僕を見た瞬間…胸の奥が、ざわりと揺れた。


 遅れて何かが流れ込もうとしている。


 まだだ。今は喜べ。勝て。


 僕は紗季の髪に手を伸ばしかけた。


「……ありがとう」


 言いかけた、その瞬間。


 遅れて、全部がひっくり返った。


 空き教室。冬城の抵抗。

 襲ったこと。止められたこと。

 紗季の拒絶。冬城の割り込み。

 そして…紗季が抱きしめたのが………僕じゃない誰かだったこと。


 喉が詰まった。


「……紗季、待っ——」


 紗季が顔を上げた。


 涙でぐしゃぐしゃなのに、目だけは澄んでいる。

 その澄んだ目が、僕の中の逃げ道を一つずつ塞いでいく。


「悠」


 低い声。震えているのに揺れていない。


 僕は笑おうとした。

 弱い笑い方を作ろうとした。


「……違う、今のは…」


 紗季は首を振る。


「違わない」


 短い言葉が、胸の奥に刺さった。

 紗季は息を吸い、ためらいなく言った。


「私は、悠が嫌い」


 空気が凍った。


「ずっと私のそばにいたのに、私のことを見てなかった」


 僕は首を振る。言い訳を探す。

 でも、紗季は止まらない。今度は、容赦がない。


「冬城さんを襲おうとしたことも…」


 喉が締まる。


「私の大事な人に手を出したことも…」


 胸の奥が、ぱき、と割れる。


「全部、忘れない!」


 紗季の目は逸れない。

 その目が、僕を“人”として扱っていないみたいで、息が止まった。


「私は、悠を選ばない」


 足元が消える。

 音がくぐもる。

 身体の輪郭が薄くなる。


「二度と、私の前に現れないで…。

 悠なんて…大っ嫌い!」


 僕の口が開く。


「あっ……」


 声にならない。


 …消える。


 そう思った刹那、反射みたいに思考が跳ねた。


 まだだ…。

 死ねば戻れる…。

 死ねば…。


 その瞬間だけ、指先に温度が触れた。


 小さな手が、ぎゅっと握ってくる。


「……お兄ちゃん」


 鈴の声。

 幻だと分かる。

 でも、分かるからこそ苦しい。

 都合のいい救いじゃない。


「もう……やめよ…」

 その一言が、胸の奥に刺さった。

 “死ねば戻れる”という思考が、薄くほどけていく。


 雨の夜。

 腕の中で冷えていった体温。

 守れなかったこと。

 それでも守りたいと願ったこと。


 僕は息を吐いた。


「……そう…だね。鈴」


 その声が、教室の空気に落ちた。


「ごめんね」


 戻るための言葉じゃない。

 やめるための言葉だった。


 支えが抜け落ちる。

 “次”という足場が、音もなく崩れる。


 僕は、紗季を見上げた。

 紗季の目が揺れる。

 怒りと悲しみの奥に、

 確かな優しさが残っている。


 その優しさが、一番苦しかった。


 僕は崩れた。

 紗季の腕が遅れて僕を支えようとして揺れる。


 床が近い。息が吸えない。

 音が遠のく。


 最後に見えたのは、紗季の口の形だった。

 何かを言っている。

 でも、もう聞き取れない。


 僕はただ、沈んだ。


 もう、浮かび上がれない場所へ。

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