第三章 選ばれなかった方の未来

 大学のキャンパスは、想像していたよりもずっと広かった。

 見知らぬ建物。見知らぬ教室。見知らぬ顔ばかりの人ごみ。

 高校のときみたいに、

 「見回せば、だいたい知っている誰かがいる」なんて都合のいい世界じゃない。

 それでも、入学式が終わった後、俺は自然とそこへ向かっていた。


 ――図書館。


 ガラス張りの大きな入口を抜けると、

 ひんやりした空気と紙の匂いが鼻をくすぐる。

 高い天井と、どこまでも続いていきそうな書架。

 目の前の世界がひらけたような、逆に自分がちっぽけになったような、

 不思議な感覚がした。


「……すげ」


 思わず小さく漏らした声は、本棚の列に吸い込まれていった。

 受付のカウンターに学生証を見せて、簡単な説明を受ける。

 ふと視線を横に流すと、見慣れた後ろ姿が目に入った。


「冬城?」


 肩まで伸ばした髪をひとつに結んで、メガネをかけた横顔。

 高校のときとあまり変わらないけれど、制服じゃなくて私服になっただけで、

 少し大人びて見える。

 呼びかけると、冬城桜は振り向いて、目を丸くした。


「……黒川?」


「おう」


 なんとも言えない間があってから、彼女はふっと笑った。


「マジで同じ大学なんだね」


「合格発表のとき見ただろ。“同じ大学”って」


「あれ、まだ半信半疑だったから。…じゃあ、確認。学生証、見せなさい」


「経済学部、黒川悠」


「教育学部、冬城桜」


 それぞれのカードを、ぱちん、と軽く合わせる。


「ほら、ちゃんと同じ大学」


「学部棟は全然違うけどな」


「キャンパス一緒なら、十分でしょ」


「距離感バグってんだよ、お前は」


 冬城は図書館の奥を顎で示した。


「中、見る?」


「もちろん」


 二人で並んで、本棚の間を歩く。


 高い窓から差し込む光が、本の背表紙を順番に撫でていく。

 静かなざわめきと、ページをめくる音。


「高校の図書室が、可愛く思えるな」


「ね。ここまで来ると、ちょっとした森だよね、本の。

 でも好きでしょ、こういうとこ」


「まぁ、嫌いじゃない」


 素直に認めると、冬樹が少し笑う。


「経済の本コーナーに住み着きそう」


「教育の棚から出てこなさそうな奴に言われたくない」


 お互い顔を見合わせてクスクス笑う。


「しかし…迷子になりそうだな…」


「迷子になったら経済学部棟に連れてってあげるよ」


「ここから経済学部棟の場所分かってんのかよ」


「さっき案内図見てきた」


 抜け目ないところは相変わらずだった。


 窓際の席まで来ると、冬城は鞄を下ろして、少しだけ息を吐いた。


「ここ、いいね」


「高校のときと同じポジションだな」


「うん。……ここも“逃げ場所”にしよ」


 さらっと言って、いつものように教科書を取り出す。


 その一言で、胸の中の緊張が少し解けた。


 高校を卒業しても、違うキャンパスになっても、

 ちゃんと続いていくものがある。


「じゃあ、“逃げ場所 2号”ってことで」


「ネーミングセンスは微妙だけど、それでいいよ」


 冬城は笑って、ペンを握った。


 俺も、隣で同じようにノートを開く。

 この四年間、ここがきっと、俺たちのもうひとつの生活になる。


 ◇


 一年、二年と、時間は思っていたよりも早く過ぎていった。


 講義に出て、レポートに追われ、

 どうでもいいサークルの飲み会の誘いを適当に断り、

 気づけば、図書館のこの席にいる時間の方が、

 部屋にいる時間より長いんじゃないかと思う日もあった。


 桜は、大学でも相変わらず「よく気がつく人」だった。


 課題に詰まっていれば、自然と隣からノートが差し出される。

 試験範囲がよく分からなければ、

 「ここ押さえとけば、まあ死にはしないよ」と、

 要点だけを的確に絞ってくれる。


「黒川、そこ違う」


「どこだよ」


「その“なんとなくそれっぽい”で乗り切ろうとしてるところ全部」


「ざっくりしすぎだろ」


「大丈夫。私も昔そうだったから」


 そう言って笑って、俺の答案を、

 一つひとつ「なんでこうなるか」を図で説明していく。

 高校のときと同じで、いや、それ以上に、

 桜は俺の勉強の「逃げ方」を知っていた。

 だからこそ、逃げ方ごと矢印を書き換えてくれる。


 春川紗季の名前が、大学のキャンパスで出てくることはほとんどなかった。


 進学先は別々だし、会うしたら、紗季から呼び出しをくらった時ぐらいだった。

 そのたびに、山岸樹の話を聞いては、

 胸の奥がちくりとするのは相変わらずだった。

 でも、その痛みは、前みたいに何日も尾を引くことはなかった。


 日中は経済学の講義で数字と格闘して、

 夕方は図書館で冬城と問題集を潰し合って、

 夜にはレポートに追われているうちに、いつの間にか眠っている。

 そういう日々の中で、「選ばれなかった」という事実は、

 少しずつ、“たまたまそういう結果になっただけ”くらいの重さに変わっていった。


 ◇


 大学三年の夏の終わり。


 その日、俺は珍しく図書館ではなく、自分の部屋で問題集を開いていた。

 机の上で、スマホが震える。画面には「冬城」の名前。


『今日、飲み会、行ってくる』


 短いメッセージと、ふてくされた顔のスタンプ。


『ゼミのやつ?』


『そう。例の先輩もいるやつ』


 何度か愚痴で聞かされた名前が頭をよぎる。

 無理やりお酒を勧めてきたり、距離感がおかしかったりする、

 面倒なタイプの先輩。


『あんま飲まされるなよ』


『分かってる。終わったら連絡する』


 そこまでやりとりして、画面は静かになった。


 問題集に目を落とす。

 経済成長率の計算式が並んでいるはずなのに、

 頭の中では別のことが渦を巻いていた。


 今日はやめとく、って言えばよかったんじゃないか。

 そもそも、行かなくていいだろ、って止めればよかったんじゃないか。

 そんな「言わなかったこと」が、いちいち引っかかる。


「…集中…できないな…」


 誰もいない部屋で呟いて、ペンを置いた。


 飲み会の店の名前は、昼間のメッセージのやりとりの中で聞いている。

 終了予定時間も聞いていた。

 時計の針が、その時間を少し過ぎた辺りで、またスマホを見た。

 メッセージは来ていない。


「……様子だけ」


 自分に言い訳をして、俺は問題集を閉じた。


 ◇


 駅前の居酒屋街は、金曜日の夜らしく賑やかだった。

 酔っぱらいの笑い声と、大声の呼び込みと、油の匂い。

 その中を抜けて、桜が言っていた店の前まで行く。

 ちょうど、団体客がわっと出てきたところだった。

 その中に、見慣れた後ろ姿がある。

 少しよろめきながら歩く桜。

 隣には、ラフな格好の男。教育学部の先輩だろう。


「じゃ、二次会行こっか」


「いえ、私、今日はこれで――」


「いいじゃん、冬城ちゃーん、もう一軒くらい行こうよ。どうせヒマでしょ?」


 男が桜の手首をつかんで、半ば引きずるように歩き出す。


 周りにいる同じゼミの連中は、ちらりと視線を向けるだけで、

 誰も止めようとしない。

 「また始まったよ」とでも言いたげな、見て見ぬふりの空気。


 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 酔っぱらいと揉めるのは面倒だ。

 この場で空気を壊すのも、正直やりたくない。

 「ただの元クラスメイト」が出ていくには、少し敷居が高すぎる。

 それでも、足が勝手に前に出ていた。


「すみません」


 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

 先輩と呼ばれていた男が、鬱陶しそうに振り向く。


「……何?」


「彼女、今日はもう帰るって言ってましたよね」


「あ? お前、誰?」


「高校の同級生で、今は同じ大学の友人です」


 桜の腕をつかんでいる手を除けて、そっと自分の方へ引き寄せる。

 その時、自分の手が、かすかに震えているのが分かった。


「ちょっと、いいですか」


「空気読めよ、後輩くん」


 先輩の目が、ねっとりした苛立ちを帯びる。

 喉がカラカラに渇く。心臓の音がうるさい。

 それでも、口は勝手に動いていた。


「先輩」


「……あ?」


「嫌がる後輩を無理やり連れてって、大丈夫なんですか?

 ハラスメント行為にあたるのでは?教育学部ですよね?」


 自分の声が、意外なくらいよく通る。


「停学とか……教員免許の取り消しとか……最悪、退学なんて話も、

 あるんですかね?」


 そこまで言って、わざとらしく首をかしげる。


「どれを目指してるんですか?」


 しばし、沈黙が落ちた。

 近くにいた別の学生が、気まずそうに咳払いをする。

 先輩の視線が俺と桜の腕に落ちる。

 俺の指が小さく震えたまま、桜の手を離さないのを見て、

 舌打ちがひとつ漏れた。


「……ちっ。しらけたわ」


 イラついた表情で、先輩は後ろを振り返る。


「ほら、行くぞ。次の店行くやつー」


 空気が、そちらに流れていく。


 十分離れたところで、ようやく俺は大きく息を吐いた。


 ◇


 駅から少し離れた住宅街の道を、並んで歩く。

 さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かで、

 自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。


「……ありがと」


 沈黙を破ったのは、桜の方だった。


「さっきは助かった」


「いや」


 どう返せばいいか分からなくて、曖昧に誤魔化す。


「でも、どうして来てくれたの?」


「どうしてって」


「飲み会の場所だって、調べないと分かんないでしょ」


 確かに、その通りだ。


 言葉を選んでいると、桜がじっとこちらを見る。


 一息ついてから答える


「…直感かな?」


 少しだけ茶化すように言う。


「嫌な予感がしたから、様子を見に来た。…とか言っとけば、それっぽいだろ」


「はい出た。かっこつけ」


 桜が、呆れたように笑う。


 少し間を置いて、表情が少しだけ真面目になる。


「でも、本当はどうなの?」


 夜風が、シャツの裾を揺らしていく。


 俺は、少しだけ息を吸い直した。


「お前…助けを求めてただろ?」


「……え?」


「メッセージの文面が、“本当に行きたくない”っての、丸出しだった」


 昼間の短いやりとりを思い出す。


「だから来た」


 それだけ、淡々と言う。


「……かっこつけるな」


 桜は、わざとらしくそっぽを向いた。


 それでも、耳まで赤くなっているのが横顔から分かる。


「怖く…怖くなかったの?」


「何が」


「さっき。手、震えてた」


 自分の手元を見る。

 もう震えはほとんど収まっていたけれど、さっきの感覚はまだ残っている。


「……ん」


 短くうなずいて、前を向いたまま答える。


「…ああ。怖かった。正直、今でも少し怖い…」


 酔っぱらい相手に啖呵を切るような度胸は、元々持ち合わせていない。

 さっきだって、頭の中では最悪のパターンばかり浮かんでいた。


「でも…見て見ぬふりして助けなかったら一生後悔する、そう思った」


 その一言を口にした瞬間、桜の足がぴたりと止まった。


「……ズルいよ」


 俯き加減のまま、小さな声で言う。


「悠……カッコつけすぎだよ」


「ん? いつもの憎まれ口はどこいったんだ?」


 わざと軽く茶化すと、桜は顔を上げて、睨むような、

 でもどこか泣きそうな顔で笑った。


「今のは、さすがに文句言えないよ」


「そうか?」


「そうだよ」


 そう言って、桜はまた歩き出す。


 しばらく並んで歩いたあと、彼女がぽつりと続けた。


「……ありがとう」


「なんだよ、改まって」


「さっきのは、ちゃんと“かっこつけていい”やつだったから。

 そういうときくらい、ちゃんとお礼言っとかないと」


 照れ隠しのように笑うその横顔を見ながら、

 俺は、自分の口から出たさっきの言葉を、頭の中で何度も繰り返していた。


 見て見ぬふりして助けなかったら一生後悔する。


 ただ、それだけだった。

 あの瞬間、俺自身がそう思ったから動いた。

 それに気づいたとき、

 胸の奥に、小さく灯りがともったような気がした。


 ◇


 大学四年の冬は、例年より少しだけ寒く感じた。


 就活はなんとか形になりつつあって、卒論のテーマも決まって、

 あとは目の前のタスクをひとつずつ潰していけばいい――はずなのに。


「……やっぱ冷えるな」


 図書館の窓際の席で、俺は両手を擦り合わせた。


 窓の外では、裸になった木の枝が、灰色の空を切り取っている。


「黒川、問題から逃げても寒さからは逃げられないよ」


 向かいに座る桜が、ホットの紙カップを俺の前に滑らせた。


「さっき買ってきたついで。ミルク多め」


「神かよ…」


「“神”とか言う前に、“ありがとう”でしょ」


「……ありがとう」


 言うと、桜は満足そうに頷いた。


「よろしい」


 彼女は自分のカップを両手で包み込みながら、窓の外を見やる。


「卒論、進んでる?」


「聞くな」


「聞かれたくないときほど聞きたくなるんだよね、人って」


「性格悪いぞ」


「褒め言葉として受け取っとく」


 そんな会話も、いつの間にか“いつもの”になっていた。


 紗季のことを考えない日は、やっぱりなかった。

 それでも、胸の奥を占める割合は、少しずつ変わってきている気がする。

 高校の頃は、紗季が九割、残りの一割に 「他の全部」が

 押し込められているような感覚だった。

 今は――紗季も、冬城桜も、大学も、将来の不安も、

 家族の記憶も、全部がごちゃ混ぜになって、

 それでもなんとか前に進もうとしている感じだ。


「……ねえ、黒川」


 冬城桜が突然、ペンを止めた。


「卒業したらさ」


「おう」


「ここにも、もう“逃げて”来られなくなるじゃん」


 視線の先には、大きな窓と、そこに映る冬のキャンパス。


「大学の図書館って、卒業したら一般人は勝手に入れないでしょ」


「そりゃ、まあな」


「高校のときは、図書室。大学では、ここ」


 桜は指で、机の端を軽く叩く。


「“逃げ場所”2号、もうすぐなくなっちゃうね」


「……逃げ場所、ゼロになるな…」


 ぽろっと、本音が口から漏れた。


「意味わかんない」


 桜が、少しむっとした顔をする。


「大学出たら、むしろ逃げ場所増えるかもしれないじゃん」


「そうか?」


「だって、働き方とかもそうだし、住む場所とかもそうだし。

 選べる範囲、広がるでしょ」


「広がるほど、迷子になりそうだけどな」


「迷子になったら、誰かに迎えに来てもらえばいいじゃん」


「都合のいい“誰か”だな」


「そういう“誰か”をちゃんと捕まえときなさいって話」


 そう言って、桜はペンをくるくる回す。


 その横顔を見ていたら、胸の奥で何かが固まった。


 ああ、そうか。紗季は、ずっと特別だ。

 それでも今、目の前にいるこの人を、「一番大切だ」と言いたい自分がいる。


「黒川」


 不意に名前を呼ばれて、我に返る。


「ん?」


「……外、行こ」


「今?」


「今」


「寒いぞ」


「いいから」


 強引にテキストを閉じられて、そのまま腕を引っ張られる。

 このあたりの遠慮のなさは、高校の頃からまったく変わらない。


 ◇


 外に出ると、頬を刺すような風が吹いた。

 キャンパスの木々はほとんど葉を落としていて、枝越しに夕方の薄い空が見える。

 グラウンドの方から、サークルの掛け声がかすかに聞こえてきた。


「さむっ」


「だから言ったのに」


「寒いからいいの。目、覚める」


 桜はベンチに腰を下ろして、白い息を吐く。

 

「卒業したら、ここも終わりなんだよな…」


「大学のキャンパスなんだから、そりゃそうでしょ」


「“逃げ場所”2号の閉店セールか…」


「その言い方やめなよ。安っぽくなるから」


 軽口を交わしてから、少し沈黙が落ちた。


 風に吹かれて、冬城桜の前髪が揺れる。


「…高校のときさ、卒業式のあと同じこと言ったじゃん、私」


「言ってたな」


「そのとき、大学に行ったら一緒に探してくれる?って」


 桜は、自分の言葉をなぞるように続ける。


「ちゃんと、一緒に探してくれた?」


「どうだろな」


「“どうだろな”って」


 桜が睨んでくる。


「……まあ、少なくとも、ここはお前との一緒の場所だった」


 ベンチの下を見ながら、ぽつりと言う。


「だから…ちゃんと逃げ場所だったよ」


 桜は一瞬きょとんとしてから、少しだけ笑った。


「それなら、合格点かな」


「点数つけてたのかよ」


「つけてない」


 また風が吹く。

 指先がじんじんしてきた。


「ねえ、黒川」


 桜がもう一度、真面目な声で呼ぶ。


「これから先さ。“ここじゃないどこか”探さなきゃいけないとき、

 どうせまた来ると思うんだよ。そういうの」


「逃げ場所探し?」


「そう」


 桜は、自分の胸を指先で小さくつついた。


「でも、次は見つけても、一人かなって思ってるんだけど…」


 そこで、少し寂しげに、ふっと笑う。


「……やっぱり、一人はヤだな…」


「冬城…」


「…だからさ」


 彼女は、ちらりとこちらを見た。


「もし、黒川が“どこかに逃げたいな”って思ったとき、

 その逃げ場所、一緒に探してくれる“誰か”に、ちゃんとなってやりたいなって」


 その言葉に、喉の奥が熱くなる。


「意味わかんない」


 咄嗟にそう返すと、桜がむっとする。


「なにそれ。さっき私が言ったやつ、返さないで」


「すまない」


 息を吐いて、言い直す。


「ただ……そう言ってくれるのお前でよかったなって思っただけ」


 自分でも、どこまでが本音で、どこからが照れ隠しなのかよく分からない。


「……なにそれ」


 桜が顔をそむける。


「ずるい言い方禁止って、いつも言ってるじゃん」


「初耳だが」


「今決めた」


 そこで会話が途切れた。


 風の音と、遠くの車の音だけが聞こえる。

 桜が震えながら、腕を組む。

 

「…寒い。図書館に戻ろっ…」


 桜がつぶやきながら、図書館へ歩き始める。

 このまま笑い話みたいに流してしまうこともできた。

 でも、今逃したら、もう二度とこのタイミングは来ない気がした。


「桜っ!」


 気付けば、名前を呼んでいた。


 彼女の足が止め、鼻水をすすりながら寒そうに答える。


「なんだよー」


「す…」


 肝心なところで舌がもつれて、言葉が出てこない。

 桜が、ぱちぱちと瞬きをしてから、わざとらしく首をかしげた。


「“す”? なんなの?……あっ!わかった」


 ぱっと顔を明るくして、冗談めかして言う。


「“すまない。卒論手伝って”でしょ? はいはい、聞くだけなら聞いてあげるよ?」


 少しでも場を明るくしようとしてくれているのが分かる。


「それもある……」


「やっぱり!」


「って、違う。そうじゃない」


 思わず食い気味に否定していた。


 驚いたように、桜の目が丸くなる。


 冷たい風が、二人の間をすり抜けていく。

 胸の鼓動が、耳のすぐそばで鳴っているみたいにうるさい。

 喉が渇く。それでも、逃げたくなかった。


「……桜」


 もう一度、名前を呼ぶ。


 今度は、はっきりと。


「俺は、桜のことが好きだ」


 言ってから、しばらく呼吸の仕方を忘れていた。


 桜の目が、ゆっくりと見開かれていく。


「……え」


「ちゃんと気持ちを伝えたかった」


 声が震えるのを、自分でもどうすることもできない。


「高校のとき、お前が言ってくれた“逃げ場所、一緒に探してくれる?”って言葉、

 ずっと頭のどこかに残ってた」


 あの日から今まで、ここに至るまでの全部が胸の中に浮かんでくる。


「気づいたら、“一緒に探したい人”が、お前になっていた」


 紗季の名前は出さない。

 でも、その影も含めて、自分の中で納得したうえでの言葉だった。

 桜は、唇をきゅっと結んだまま、しばらく何も言わない。

 風が、二人の間を通り抜けていく。


「……ずる」


 ぽつり、と桜が言った。


「ずるいよ、黒川」


「どこが」


「私が“逃げ場所”とか言ってごまかしてたの、本当はとっくに分かってたくせに」


「何を」


「私が、ずっと前から黒川のこと好きなの」


 顔を覆うように手を上げて、桜は小さく笑った。


「卒業式のとき、“一緒に探してやる”って言ったあたりから、もうずっとね」


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


「……すまない。気づいてなかった…」


「気付いてなかったの?鈍感!」


「すまない…」


「じゃあ、許してあげるから、ひとつだけ条件」


 桜は、指を一本立てた。


「今、“すまない”って言ったの、これから先、私に対しては、あんまり使わないこと」


「なんで」


「だってそれ、“私が望む形じゃない”ときに使う言葉でしょ。黒川のそれ」


 図星をさされて、言葉に詰まる。


「だからさ。出来れば、“ありがとう”とか、“嬉しい”とか、

 そういう言葉、もっと聞かせてよ」


「……分かった」


 少しだけ笑って、彼女の目を見つめる。


「ありがとう、桜」


「なに」


「ここまで一緒に逃げてくれて。これからも、一緒に探してくれるって言ってくれて」


「……うん」


 桜は、涙をこらえるように笑った。


「じゃあ、改めて。よろしくお願いします、黒川悠さん」


「ああ。よろしく頼む、冬城桜さん」


 そう言って、お互い、少しだけ照れたように笑った。

 枝だけになったキャンパスの木々の向こうに、薄い冬空が広がっている。

 そこにまだ桜の花は咲いていないけれど、

 この先に続く道のどこかで、ちゃんと満開になる気がした。


 ◇


 それからの時間は、振り返ると驚くほどあっけなく過ぎていった。


 四年の冬。

 告白して、付き合い始めてからも、俺と桜の生活は大きくは変わらなかった。

 相変わらず、昼は別々の講義に出て、

 夕方には図書館に集まって、同じ机に並んで座る。


「黒川、そのプリントやった?」


「まだ」


「ほら、貸して」


「写させてくれるのか?」


「“考え方”だけ教えてあげる。丸写しは許可しません」


「ケチ」


「はいはい。ケチな家庭教師で結構」


 ペンの音と、ページをめくる音。

 図書館の窓越しに、夕方の光が差し込む。


 ただ一つ違うのは、日が暮れてからの帰り道、

 ときどき、桜の方からそっと俺の袖をつまんでくるようになったことだ。


「……なに」


「別に。転ばないように保険かけてるだけ」


「俺そんなに運動神経悪くないけど」


「私がね」


 そう言って笑うその横顔が、どうしようもなく愛おしかった。


     ◇


 卒業後、俺は都内の中堅企業の経理部に就職した。


 桜は地元の小学校の教員採用試験に受かって、四月から先生になった。

 配属先は、電車で二駅のところにある小学校。


 通勤の都合もあって、二人で相談して、

 職場の真ん中くらいの場所にある、

 ワンルームより少し広いアパートを借りることにした。


「同棲ってやつだね」


 新居に初めて入った日に、桜がそう言った。


「そんなに声を大にして言うことか?」


「いいじゃん。お祝いなんだから」


 安いテーブルと、組み立てたばかりの本棚。

 床にはまだ段ボールが積み上がっている。


「とりあえず、ここを“逃げ場所3号”に認定します」


「また逃げ場所かよ」


「だってさ。学校で色々あっても、会社で色々あっても、

 ここに帰ってきたら、とりあえず一回深呼吸できるでしょ?」


「……まあ、そうだな」


「そういう場所、一個ぐらい持っててもバチ当たらないよ」


 そう言って、桜はふわっと笑った。


 その笑顔を見た瞬間、

 “逃げ場所”って言葉の意味が、また少し変わった気がした。


 ◇


 卒業してから三年が経った。


 仕事は慣れたようで慣れないまま、

 気づけば一年が、会計年度の締めのリズムであっという間に過ぎていく。


 桜は、最初の一年を乗り切ったあたりから、

 「一年生担任のプロフェッショナルになる」とかなんとか言い出して、

 相変わらず全力で走り続けていた。


 同じ部屋で暮らすようになっても、

 俺たちの関係は、不思議と“いい意味で”落ち着いていた。


「ご飯、冷めるよー」


「今行く」


 仕事で遅くなった日には、

 電子レンジの前で腕組みして待っている桜がいる。


「今日、クラスでさ」


 夕飯を食べながら、桜は子どもたちの話を楽しそうにする。

 俺は、決算の愚痴を少しだけする。

 そんな日々の中で、「家族」という言葉が、

 昔みたいにただ痛いだけの言葉じゃなくなりつつあるのを感じていた。


 ◇


 春先の土曜日の午後。

 その日は、特に予定はなかった。

 洗濯物を干し終えて、リビングでだらだらしていると、

 テーブルの上でスマホが震える。

 表示された名前を見て、心臓が一瞬跳ねた。


 ――春川紗季。


「どうしたの?」


 キッチンから、桜の声が飛んでくる。


「……春川さんから」


「ん?」


 画面を見つめたまま固まっている俺のところに、

 桜がマグカップを持って近づいてくる。


 メッセージはシンプルだった。


『久しぶり。ちょっと会って話したいことがあるんだけど、二人の都合どうかな?』


「“二人”って、私も?」


「みたいだな」


 桜は一瞬だけ目を丸くしてから、ふっと笑った。


「いい。行こうよ」


「……いいのか?」


「なに」


「いや、その」


「悠」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「私、自分で選んで、ここにいる」


 それだけ言って、桜はメッセージアプリを覗き込んだ。


「私、土曜日なら空いている」


 少しだけ迷ってから、画面に指を滑らせる。


『来週の土曜なら大丈夫。』


 すぐに返事が来た。


『わかった。土曜日ね。久しぶりの冬城さん。楽しみ。』


 ◇


 約束した日は、よく晴れていた。


 駅前のカフェの窓側の席で待っていると、

 ガラス越しに見慣れたシルエットが近づいてくる。


「悠!」


 ドアが開いて、紗季が笑顔で手を振った。

 以前より少し大人っぽい服装になっているけれど、

 笑ったときの目元の感じは、変わっていない。


「久しぶり、紗季」


「ほんとにね。……冬城さんも」


「お久しぶりです、春川さん」


「もう、“紗季”でいいってば」


 そんなやりとりを交わして席に着く。


 軽く近況報告をしてから、

 紗季は、テーブルの上にそっと封筒を置いた。


「……これ」


 白い封筒。

 少しだけ、胸騒ぎがする。


「読んでみて」


 促されて、封を切る。

 中から出てきたのは、淡い色合いのカードだった。


 印刷された文字が目に飛び込んでくる。


 ――結婚式への招待状。


 新郎新婦の名前のところに、

 「山岸樹」

 「春川紗季」

 と並んで印刷されているのを見た瞬間、

 胸の奥がぎゅっと掴まれたような感覚になった。


 隣の桜が、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

 山岸樹の名前を、今でも特別な音として身体が覚えているのだろう。

 けれど、それはすぐに静かに沈んでいった。

 今の桜にとって、一番大切なのは目の前にいる俺で、

 樹はもう「昔、好きだった人」になっている。


「……そっか」


 喉の奥がひどく乾いていたけれど、どうにか声を出す。


「おめでとう、紗季」


 できるだけ穏やかに、それでもちゃんと届くように。


「ありがとう」


 紗季は、少しだけ照れたように笑った。


「報告、遅くなってごめんね。本当はもっと早く言おうと思ってたんだけど……」


「気にしてない。仕事とか色々あるだろ。タイミングもあるし」


「ううん、それもあるけど」


 紗季は、カップの縁を指でなぞりながら続ける。


「やっぱり、悠になんて言えばいいか、ずっと迷ってて」


 昔と同じように、少しだけ眉を寄せて笑う顔。


「……バカだろ、お前」


 思わず本音が漏れた。


「なんで」


「俺が一番聞きたかった報告だぞ、それ」


 紗季と山岸が並んで笑う未来。

 何度も頭の中で想像して、それでも胸が痛くて避けてきた光景。

 目の前の招待状は、それがちゃんと現実になった証拠だ。

 辛くないと言えば嘘になる。それでも祝福をしたかった。


「春川さん」


 桜が、柔らかく口を挟んだ。


「本当に、おめでとうございます」


「ありがとう、冬城さん」


 紗季の笑顔に、少しだけ安堵の色が混じる。


「二人には、ちゃんと来てほしくて」


 そう言われて、断る理由なんてどこにもなかった。


「……分かった」


 カードをそっと封筒に戻す。


「ちゃんと、行くよ」


「ありがとう」


 紗季は、ほっとしたように息を吐いた。


 ◇


 帰り道。


 駅からアパートへ向かういつもの道を、

 俺と桜は並んで歩いていた。


 夕方の光がゆっくりと傾いて、

 ビルの影が伸びていく。


「……逃げたくなった?」


 不意に、桜がそう聞いた。


 声は穏やかだったけれど、その横顔はまっすぐ前を向いている。


「正直に言おうか?」


「当たり前でしょ」


 少しだけ息を整えてから、答える。


「正直、あの店に入るとき、一瞬だけ、本気で逃げたいと思った」


 喉の奥がきゅっとなった瞬間を、思い出す。


「でも…」


 隣を歩く桜に、ちらりと視線を向ける。


「一番大事な人が一緒にいてくれたから、大丈夫だった」


 桜は足を止めなかった。

 代わりに、少しだけ俯いて、小さく笑う。


「……そういうこと、さらっと言うのズルい」


「本当のことだからな」


「はいはい。そういうとこ。カッコつけの悠くん」


 からかうような言い方なのに、声はどこか嬉しそうだった。


 少しの沈黙が落ちる。


 街灯がぽつりぽつりと灯り始める中で、

 俺は、自分の心臓の音を数えながら、口を開いた。


「なあ、桜…」


「ん?」


「指輪ってさ……」


 言い終わらないうちに、桜がこちらを振り向く。


「なに?」


 笑いながら聞き返すその目は、

 どこか警戒と期待が入り混じっているようにも見えた。

 彼女が頭の片隅で紗季のことを思い浮かべているのが、なんとなく分かった。


「どこのがいいのかなって」


「紗季さんの?」


 一瞬の間のあと、桜がそう言った。

 胸の奥で、何かがちいさく軋む。


「いや」


 ゆっくりと首を振る。


「桜の指輪は、どこで買えばいいのかなって」


 今度は、はっきりと彼女の名を呼ぶ。


 桜の足が、ぴたりと止まった。


「……えっ」


 何か言おうとして、うまく言葉が出てこないらしい。


 街灯の下で、彼女の頬がゆっくりと赤くなっていくのが分かる。


「いつの間にか、同じ部屋で寝て、同じテーブルでご飯を食べて、

 仕事の愚痴も、ぜんぶ桜に最初に話して」


 言いながら、自分の生活をひとつひとつなぞる。


「それが当たり前になってるの、たぶんすごく贅沢なことなんだと思う」


 言葉を選びながら、続ける。


「だからさ。

 もしよかったら、その“当たり前”を、この先もずっと続けさせてほしい」


 桜は、唇をきゅっと結んだまま、じっと俺を見ていた。


「……プロポーズのつもり?」


「他にどんな意味に聞こえる?」


「さあね」


 そう言いながらも、声は震えている。


「でもさ。

 “逃げ場所”とか“当たり前”とかでごまかして、

 肝心なとこちゃんと言わないの、悠の悪い癖」


「そうか」


「そうだよ」


 桜は、一歩だけ近づいてくる。


「だから、その……ちゃんと言って」


「ちゃんと、って」


「私の目見て、はっきり」


 逃げ道をふさがれたみたいで、苦笑いが漏れた。

 それでも、視線をそらさずに、彼女の目を見る。


「桜」


「……うん」


「桜がいい」


 それだけでは足りないと思って、

もう一度、言葉を探す。


「桜が、俺の一番大切な人だ」


 それでもまだ足りない気がして、

 胸の奥に残っていた言葉を、最後に乗せる。


「桜を……誰よりも愛している」


 夜風が、一瞬だけ止まったような気がした。


 桜は、目をぎゅっと閉じてから、ゆっくりと開ける。


「……ずるい」


 ささやくみたいな声。


「今度はどれだ」


「“誰よりも愛してる”なんてさ。

 愛している以上の言葉、ずるいに決まってるでしょ!」


 そう言いながら、桜の目尻に涙が溜まっていく。


「ダメか?」


「ダメじゃない」


 首を横に振る。


「ダメどころか……反則負けレベル」


 涙をぬぐいながら、桜は笑った。


「……よろしくお願いします。これからも、ずっと」


「こっちこそ。よろしく頼む」


 そう言って抱きしめた瞬間、

 胸の奥にあった何かが静かにほどけていくのを感じた。


 選ばれなかった方の未来。

 そのはずだった道の先で、俺は今、確かにひとつの答えを掴んでいる。


 それでも、この先で俺が何を壊してしまうのかを、

 このときの俺はまだ、何も知らなかった。


 ◇


 結婚式当日の朝は、ひどく中途半端な雨だった。


 ざあざあと降るでもなく、止むでもなく。

 細かい水の粒が、灰色の空から延々と落ちてくる。


「なんか、スッキリしない天気」


 ドレスの袖を直しながら、桜が窓の外を見た。


「六月だしな」


「紫陽花は、嬉しそうだけど」


 アパートの前の植え込みには、雨を吸った紫陽花が重たそうに揺れている。

 薄い青と、まだ色づききらないピンク。

 胸の奥が、少しうずいた。


「行こ、悠」


「ああ」


 傘を開く音が重なる。

 ふたり分の足音が、濡れたアスファルトに溶けていった。


 ◇


 式場は、駅から少し離れた丘の上にあった。

 白いチャペルの前に続く石畳には、

 雨よけのテントが張られている。

 受付で名前を告げると、スタッフが笑顔でリストにチェックを入れた。


「新郎新婦とは、高校のご友人で?」


「はい」


「こちら、お二人分の席札になります」


 渡されたカードには、「黒川悠」「冬城桜」と並んで印刷されていた。


 控え室に向かう途中、廊下の窓から外を見下ろすと、

 庭の隅に、色づき始めた紫陽花の花壇が見えた。


 晴れ間が広がり、雨に濡れた花びらが、鈍い光を返している。


 ――“家族みたいで好き”なんだよ。


 ふと、幼い鈴の声が頭の隅でよみがえる。


 思わず目を逸らした。


「……悠?」


 桜が俺の顔を覗き込む。


「大丈夫」


「緊張してる?」


「そりゃ、まあ」


「そっか」


 桜はそれ以上何も聞かず、軽く俺の袖をつまんだ。


「じゃ、ちゃんと見届けよ?二人の晴れ舞台」


「ああ」


 ◇


 チャペルの中は、白と淡いピンクで統一されていた。


 バージンロードには花びらが散らされ、

 祭壇の両脇には大きな花のアレンジメント。


 パイプオルガンの音が、やわらかく天井に響く。


 俺と桜は、真ん中より少し後ろの列に並んで座った。


「……山岸、似合ってる」


 入場の扉の前で待つ新郎の姿が見える。

 緊張しているのか、何度もネクタイを直していた。


「紗季も、きっと綺麗だろうな」


 口に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。

 それでも、視線は扉から離せない。


 やがてオルガンの曲が変わり、参列者たちの視線が一斉に入口へ向く。

 扉が開いた。

 純白のドレスに身を包んだ紗季が、

 父親にエスコートされてゆっくりと歩いてくる。


 ベール越しでも分かるくらい、

 笑っているのに、今にも泣きそうな顔をしていた。


 高校の頃、雨の六月の朝に並んで歩いた、あの横顔。

 傘の下で見上げてきた瞳と同じ色。


 その全部が、今日、誰かの“妻”になろうとしている。


 少しだけ眩暈がした。


「悠」


 隣で、桜がさりげなく袖をつかむ。


 その指先の温度で、なんとか呼吸を整えた。


 ◇


 式は、粛々と進んでいった。


 牧師の穏やかな声。

 誓いの言葉。指輪の交換。


 笑い声も、涙も、すべてがこの空間の祝福になっている。


 ――ちゃんと、祝福しよう。


 そう決めて、ここに来たはずだった。


「それでは、新郎新婦。誓いのキスを」


 牧師の言葉に、会場の空気がふっとふくらむ。

 山岸が、紗季のベールにそっと手を伸ばす。

 その瞬間、胸の中で何かが、音もなく切れた。


 視界の端が、じわりと赤く染まったような気がした。


 ――紗季が、他人のものになる。


 頭のどこかでそう言葉になった途端、

 恐怖と、怒りと、憎しみと、どうしようもない執着が、

 一気に入り混じって溢れ出す。


 立ち上がっていた。


「待てよ」


 自分の声が、チャペル中に響いた。

 樹の手が止まり、会場の視線が一斉にこちらに向く。


「悠……?」


 一番驚いた顔をしていたのは、紗季だった。

 ベールの奥で、目を大きく見開いている。


「待ってくれ、紗季」


 言葉が口から滑り落ちていく。

 考えるより先に、感情だけが俺を動かしていた。


「やっぱり、無理だ」


 祭壇へ向かって、一歩、二歩と踏み出す。


「ずっと言えなかった。

 高校の時から、ずっとお前が好きだった」


 ざわめきが広がる。


「選ばれなかったのは分かってる。

 山岸がいい奴なのも分かってる。

 お前が幸せなら、それでいいって……そう思おうとしてきた」


 喉が焼けるみたいに熱い。


「でも、今日だけは、見ていられない」


 自分でも何を言っているのか分からないまま、言葉は止まらなかった。


「紗季。俺は、今でもお前が――」


「やめて」


 紗季の声が、割り込んだ。

 震えているのに、はっきりとした声だった。


「悠、やめて」


「紗季――」


「やめて!」


 叫ぶような声と同時に、頬に鋭い痛みが走った。

 ビンタの音が、チャペルに乾いた音を立てる。

 視界が一瞬揺れて、足元がぐらりとした。


「……最低だよ」


 紗季が、涙で濡れた目で俺を睨む。


「どうして今なの。

 どうして、私の“晴れの日”を、そんなふうに壊そうとするの」


 言葉ひとつひとつが、胸に突き刺さる。


「私のことを好きだって言うなら、

 どうして、ちゃんと祝福してくれないの。

 どうして、樹の気持ちを、桜ちゃんの気持ちを、何ひとつ考えないの」


 隣で、山岸が紗季の肩にそっと手を置いた。


「もういいよ、紗季」


「よくない!」


 紗季は首を振る。


「悠。私たちのこと、祝福してくれるって、そう言ってくれたよね」


 言葉が続かない。

 喉の奥に、何か重たいものが詰まっている。


「……そんなの、嘘だったんだ」


 紗季の声が、かすかに掠れた。


「私の“逃げ場所”でいてくれた悠が、本当は一番、

 私の幸せを壊そうとしてたなんて……最低だよ」


 足元が、完全に崩れた気がした。


「悠」


 背後から、桜の声がした。


「行こ」


 小さく、でもはっきりと言う。


 振り返ると、桜の顔は真っ青だった。

 それでも、膝を震わせながら、俺の手を掴む。


「これ以上いたら、取り返しつかなくなる」


 細い指先が、強く俺の手を引いた。

 俺は、そのままバージンロードを引き返した。

 背中に、祝福とは全然違うざわめきだけを浴びながら。


 式場の外に出ると、さっきまでの晴れ間が嘘みたいに、空が曇っていた。

 雨が降り出す寸前の、生ぬるい風が吹いている。

 式場から少し離れた植え込みの横で、俺と桜は足を止めた。

 さっき頬を打たれたところが、じんじんと熱い。

 心臓のあたりも、同じように熱くて痛い。


「……やっちまったな」


 自分でも呆れるくらい、薄っぺらい言葉しか出てこなかった。


「うん」


 桜は、正面からその言葉を受け止める。


「やっちまったね。盛大に」


 しばらく、ふたりして黙り込んだ。


 式場の中から、かすかに音楽が漏れてくる。

 さっきまで自分たちも座っていた椅子の上で、別の時間がちゃんと進んでいる。


「……ねえ、悠」


 沈黙を破ったのは、桜だった。


「なんで、あんなこと言ったの?」


 責めるでもなく、ただ確認するみたいな声だった。


「わからない」


 としか言えなかった。


「気づいたら立ってて、気づいたら叫んでた」


 自分でも信じられないくらい、本心だった。


「本当に、わからない?」


 桜が、じっとこちらを見つめる。


 その目に映っているのは、

 紗季に向かって必死に手を伸ばしたさっきの俺の姿なんだろう。


「……わかりたくないだけかもな」


 ようやく絞り出した。

 桜は小さく笑う。


「正直でよろしい」


 そう言ってから、一歩前に出る。


「でさ」


 指輪をはめていた左手を、そっと右手で押さえた。


「これは、どうする?」


 薬指の細いリングが、夕方の薄い光を受けてきらりと光る。

 喉の奥が、ひゅっと締まった。


「俺は——」


「わかってるよ」


 桜が遮る。


「今日の悠を見て、嫌いになったわけじゃない」


 ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。


「むしろ、“やっぱりこうなるか”って変に納得してるところもある」


「……ひどくないか、それ」


「ひどいよ」


 桜はあっさり認める。


「でもね、悠」


 名前を呼ぶ声が、少しだけ震えた。


「あのチャペルで、“一番傷ついた”のは誰だと思う?」


「紗季だろ」


「山岸くんも同じくらいだろうね」


 桜は小さく息を吐く。


「で、その次が、私」


 さらっと言う。


「すまない」


「うん」


 桜はかるく肩をすくめ、左手のリングをそっと引き抜く。


 小さな金属が、指から抜ける感覚が、やけにゆっくり感じられた。


「ここで一回、区切っとく」


 リングを掌にのせて、そっと俺の方に差し出す。


「……ごめんなさい」


 桜が言った。


「私じゃ、ダメなんだろうなって、ずっと思ってた」


「そんなこと——」


「ある」


 桜は笑う。


「私、鈍くない」


 少しだけ視線を落とす。


「悠の中に、私のためだけに空いてる場所があるのは知ってる。

 でもその隣に、ずっと春川さんの影がいるのも、ちゃんと知ってる」


 喉の奥が焼けるように痛くなった。


「それでも一緒にいたのは、私が勝手に選んだことだから。

 でも、悠が自分で選んだ“やらかし”の責任まで、全部かぶる気はない」


 桜が俺の手を取り、掌を上向きに開かせる。

 冷たいリングが、そこにそっと置かれた。


「……ありがとう、悠」


 桜は微笑む。


「私のこと、大事に思ってくれて」


 涙が、ひとすじだけ頬を伝う。


「ごめんね。私じゃ、ダメだった」


 全ての内臓が潰れると思うほど痛んだ。

 指輪の冷たさが、やけに重い。


「……桜」


 名前を呼ぶと、桜は首を振る。


「大丈夫。私、そこまで弱くないから」


 そう言って、くるりと背を向けた。


「ちゃんと帰って、ちゃんと寝て、ちゃんと明日から生きる。

 それくらいは出来るよ」


 振り返らずに歩き出す。

 数歩進んでから、ふと立ち止まる。


「ねえ、悠」


 背中越しに声だけが飛んできた。


「いつか、ちゃんと自分を許せる日が来るといいね」


 それだけ言って、今度こそ振り返らずに式場の建物の方へ歩き去っていった。

 手のひらに残されたリングだけが、現実みたいに冷たい。


 ◇


 どれくらい、そこに立ち尽くしていたのか分からない。


 気づけば、空から細かい雨が降り始めていた。

 スーツの肩に、小さな水滴がいくつも落ちる。


 俺は、ようやく足を動かした。


 式場を離れ、人通りの少ない駅の反対側に出る。

 高架下を抜け、人気のない歩道橋の手前で立ち止まる。


 足元に溜まった雨水が、車のライトをゆらゆらと映していた。


 何やってんだ、俺は


 今日一日だけじゃない。


 高校のときも。大学で桜と笑っていた時間も。

 どれもこれも、自分が自分に仕掛けた罠みたいに思える。


 紗季の泣き顔。

 樹の怒った顔。

 桜の笑い顔と、最後の一筋の涙。


 全部がごちゃ混ぜになって、胸の中で暴れていた。


「……すまない」


 誰に向けてか分からない言葉が、口から漏れた。


 紗季へ。

 樹へ。

 父さんと母さんと、鈴へ。

 そして、桜へ。

 

「すまなかった」


 指の中で、リングが小さく鳴った。


 雨が、強くなる。


 煌々とした車のライトが、遠くから近づいてきて、また遠ざかっていく。


 俺は、手すりにそっと手をかけた。


 風が吹く。

 紫陽花の花が、どこかで揺れる音がした気がした。


(桜…自分を許すことは出来ないみたいだ。すまない)


 俺は、一歩、前に出た。


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