第二章 失恋の使い道

 次の日の朝、目を覚ましたとき、最初に浮かんだのは紗季の顔だった。


 東屋のベンチ。

 雨の音。

 「半年くらい前から、彼氏がいるの」――あの声。


 胸の奥が、じわっと痛む。


 それでも、世界はちゃんと朝になって、スマホのアラームは容赦なく鳴るし、

 制服はいつも通りそこにある。


 どうしても変わらないものと、あっさり変わってしまうもの。

 その境目みたいなところに、自分が立っている気がした。


 ――だったらせめて、変えられる方を握りしめるしかない。


 布団から身体を起こしながら、小さく息を吐く。


「……勉強でもするか」


 自分に言い聞かせるみたいに呟いて、制服に袖を通した。


 ◇


 学校に着いても、クラスはいつも通りだった。


 教室のざわめき。

 机の間を歩き回る担任。

 誰かの笑い声。


 紗季は、いつもの席に座って、いつものように友達と話している。

 その横顔を、無意識のうちに目で追ってしまいそうになって、

 慌てて視線をノートに落とした。


「悠、おはよ」


「あ……おはよう」


 声をかけられてしまえば、無視するわけにもいかない。


「昨日、ちゃんと帰れた?」


「うん。大丈夫だったよ」


 本当は大丈夫じゃなかったけど、「大丈夫」としか言えない。


「……そっか。よかった」


 紗季は一瞬、何か言いたそうにしてから、結局何も言わずに笑った。


 その笑顔を見ているだけで胸が軋むのに、

 「距離を置こう」とか、「もう話しかけないでくれ」とか、

 そんなことを言えるほど、俺は強くない。


 だからせめて、別のところで距離を取るしかないと思った。


     ◇


 放課後、図書室に向かった。


 前からテスト前だけはたまに使っていた場所だ。

 でも「毎日通う場所」にしようと思ったのは、昨日の夜が初めてだった。


 家にいると、どうしても考えてしまう。


 紗季と山岸が並んで歩く姿。

 笑い合う声。

 知らない話題で盛り上がっているふたり。


 想像だけで、勝手に苦しくなって、勝手に惨めになる。


 だったら、その時間を全部、別のものに注ぎ込んでやればいい。

 どうせなら「何かになった」と胸を張れるものに。


 図書室のドアを開けると、涼しい空気と、紙の匂いがふわりと出迎えてくれた。


「いらっしゃい」


 カウンターの司書の先生が、いつも通りの、少し眠そうな声で挨拶する。


「失礼します」


 軽く会釈をして、本棚の間を抜けていく。


 窓際の二人掛けの机。

 そこには既に、同じクラスの冬城桜が座っていた。


 黒髪をひとつにまとめた横顔。

 真面目そうなメガネ。

 教科書とノートと参考書が、きれいに並べられている。


 チラリとこっちを見て、すぐに視線を戻した。


 ……邪魔じゃないかな。


 一瞬、別の席に行こうか迷ったけれど、

 窓際のこの席がいちばん集中できるのも事実だ。


「ここ、座ってもいい?」


 恐る恐る声をかけると、冬城は少し驚いたように目を瞬かせた。


「ん……ああ。どうぞ」


 それだけ言って、また教科書に目を落とす。

 「特別歓迎」でも「拒絶」でもない、その距離感に、少しだけホッとした。


 鞄からノートと問題集を取り出し、ペンを握る。


 失恋のことは、とりあえず脇に置く。

 今は目の前の問題にだけ、集中する。


 そう自分に言い聞かせて、ページを開いた。


     ◇


 どれくらい時間が経った頃だろうか。


 ページの同じ場所をじっと見つめながら、

 書いたり消したりを繰り返していたとき、隣から小さな声がした。


「……それ、四回目だよ」


「え?」


 顔を上げると、冬城がペンをくるくる回しながら、俺のノートを覗き込んでいた。


「その問題。さっきから、ずっと同じとこやってる」


「なんでわかった?」


「さっきから“あー分かんね”って顔したの、もう何回も見た」


 恥ずかしさと情けなさが、一気に押し寄せてくる。


「あー……なるほど。恥ずかしいな」


「別に、恥ずかしがらなくていいけど」


 冬城は、少しだけ笑った。


「ただ、同じとこばっかり繰り返しても、あんまり意味ないからさ」


「だよな……」


 分かってはいる。

 分かってはいるけれど、気づくと同じところをぐるぐる回っている。


 どこか、今の自分そのものみたいで、少し嫌になる。


「ここ、苦手なんでしょ」


 冬城が、俺のノートのページを指で軽く叩いた。


「ちょっと貸して」


「ああ」


 ノートを渡すと、彼女は斜めから覗き込んで、答案の書き方をじっと眺める。


「……うん」


 すぐに、納得したように頷いた。


「単語は覚えてるのに、“なんとなく雰囲気で”つなげてる感じ」


「そこまで分かる?」


「分かるよ。私も前そうだったから」


 自分のノートを開いて、俺の方にくるっと回す。


 そこには、図表と矢印と短いメモが整然と並んでいた。


「ここさ、“出来事AがあったからBが起きて、

 その結果Cが起きた”って流れで覚えた方がいいよ。

 単語をバラバラに覚えるんじゃなくて、ストーリーにしちゃった方が早い」


「……ストーリー、ね」


「うん。

 単語一個ずつは、たぶんもう頭に入ってるからさ。

 あとは“つなぎ方”を覚えれば、かなり点になるよ」


 言われてみると、その通りだった。


 俺がやっているのは、問題を解くふりをしながら、

 実は頭の中で別のことを考えている時間稼ぎみたいなものだ。


「ありがとう。助かる」


「どういたしまして」


 そこで会話は終わりかと思ったら、冬城はペン先を頬に当てたまま、

 少しこちらをじっと見た。


「……黒川ってさ」


「ん?」


「なんか、こう……必死な感じするよね」


「必死?」


「うん。“落ちたくない”っていうより、“落ちたら終わる”って顔してる」


 図星すぎて、何も言えなかった。


 冬城は、少しだけ視線をそらしてから、ぽつりと言葉を足す。


「……まあ、人のこと言えないけど」


「冬城も?」


「逃げてるって意味では、ね」


 メガネの奥の目が、少しだけ遠くを見る。


「家帰っても、どうしても考えちゃうことあるからさ。

 だったら、考える余裕ないくらい詰め込んだ方が楽っていうか」


「……分かる気がする」


 本当に分かる。

 俺も同じ理由でここにいるから。


「なんかあったの?」


 口にした瞬間、「聞きすぎたかな」と少し後悔した。


 でも冬城は、意外とあっさり頷いた。


「うん。まあ、ざっくり言えば失恋」


「失恋……」


「ちゃんと告白したわけじゃないけどね。

 “あ、これはもう無理だな”って分かったっていうか」


 淡々とした言い方とは裏腹に、その横顔には、まだ遠くに残っている痛みの影が見えた。


「……そっか」


 それ以上、相手が誰かは聞かなかった。


 聞けば名前が出てくるかもしれない。

 でも、それを聞いたところで、俺にできることは何もない。


 それに、俺だって、自分の失恋のことを詳しく話す気にはなれなかった。


「黒川は?」


 今度は逆に聞かれる。


「俺も、まあ……似たようなもん」


 ため息混じりに笑うと、冬城も小さく肩をすくめた。


「まあ、そういう意味では、お互い“失恋仲間”ってことで」


「仲間って言い方する?」


「する。そうでも思わないと、やってられないし」


 そう言って笑う横顔は、どこか少し救われたようにも見えた。


 ◇


 図書室に通う日々は、そこから少しずつ変わっていった。


 最初はただ、同じ席に座っているだけ。

 次第に、問題集の話をするようになり、

 やがて、お互いの進路の話をするようになった。


「教育学部か。先生になりたいんだっけ」


 ある日の放課後、進路希望調査の紙を机の上に出しながら尋ねると、

 冬城は少し考えてから答えた。


「“絶対先生になりたい!”ってほどじゃないけどね。

 でも、“誰かに教える側”の方にいたい感じはあるかな」


「似合うとは思う」


「ほんと?」


「うん。なんか、説明うまいし」


 さっきも、世界史の範囲を、俺でも分かるレベルに噛み砕いてくれたところだ。


「黒川は? 書いた?」


「一応、国立の経済」


「お、すご」


「すごくはないだろ。受かるかどうか分からないし」


「“すごいとこに挑戦しようとしてる人”は、すごいって言っていいんだよ」


 あまりにもまっすぐな言い方に、少しだけ照れくさくなる。


「なんで経済?」


「……将来のこと考えたら、無難かなって。

 あと、なんとなく数字とかグラフの方が、まだマシっていうか」


 本当は、「どうせやるなら、ちゃんと上を狙いたい」という、

 ちょっとした意地もあった。


 紗季にとって俺がどう見えるか。

 いつか、結果だけでも見せつけられたらいい。


 その感情を、わざわざ口には出さないけれど。


「ふーん」


 冬城は、じっと俺の顔を見てから、小さく笑った。


「“どうせなら見返してやりたい”って感じ?」


「……まあ、それも、少し」


 否定しきれない。


「いいと思うけどね。きれいごとだけで頑張れるほど、受験って優しくないし」


「お前、けっこう辛辣だな」


 少しだけくすくす笑って、それから真面目な顔に戻る。


「でもさ」


「ん?」


「“失恋のせいで”頑張るっていうより、“失恋を使って”頑張るって思った方が、

 まだマシかなって」


「使う…、ね」


「うん。だって、起きちゃったことはもう変わらないじゃん。

 だったら、せめて“起きたことを材料にする側”に回らないと、

 損した気がしない?」


「……それは、分かる気がする」


 失ったものを、ただただ嘆くだけで終わらせたくない。

 何かしらの形に変換して、自分の中に残しておきたい。


 それが「勉強」という形なら、まだ受け入れやすい。


「冬城も、そうなのか?」


「まあ…ね」


 冬城は、窓の外に目を向ける。


 校舎裏の紫陽花が、少しだけ色を濃くしていた。

 薄い青と、まだ緑がかった蕾。その奥に、かすかにピンクが混じっている。


「私も、ちゃんと失恋してるからさ。

 名前までは言わないけど」


「聞かないよ」


「聞かないで」


 きっぱりと言われて、思わず笑う。


「でも、“このまま家帰っても考えるだけだな”って思うとき、

 ここ来て、問題解いてると、ちょっとだけ楽なんだよね」


「俺も、だいたい同じ」


「だよね」


 冬城は、机の上を軽く指でトントンと叩いた。


「じゃあ、ここはしばらく、“逃げ場所”ってことで」


「新しい名前ついたな」


「でしょ」


 冗談めかしながらも、どこか本気の響きがあった。


 ◇


 文化祭の日も、図書室は紙の匂いがしていた。

 廊下の甘ったるい匂いが扉の外で渦を巻いているのに、

 ここだけはいつも通りだった。


 古本市の準備で、俺と冬城は机に向かって値札を貼っていた。

 角が少し浮く。


「黒川。また斜めってる」


「分かってる」


「分かってないから言ってるんでしょ」


 そう言って、冬城が真っ直ぐにきれいに張る。

 その動作が、やけに落ち着く。


 扉が開いて、紗季が顔を出した。実行委員の腕章。


「悠、冬城さん。進んでる?」


 不意に名前を呼ばれて、胸が痛む。


「進んでるよ。でも、黒川が使えない。雑。根性無し。

 あと、値札が足りないかも」

 

「言いすぎだぞ」


 紗季が吹き出した。


「悠、冬城さんに根性無しの上、使えないって言われてるよ?」


「違う。こいつが職人なだけだよ」


 紗季が大笑いしながら、話しかける。

 こんなに笑う紗季を久々に見た気がした。 


「冬城さん、悠を一人前の職人に鍛え上げてやって」


「わかった。任せて」


「勝手に任されるな」


 そんな俺と冬城のやり取りを見て、紗季は微笑んでいた。


「値札の件はわかったよ。あとで持ってくるね」


 短い会話。それだけなのに、胸の奥が一度だけ騒いだ。

 少し遅れて、山岸も箱を運んできた。


「黒川、おはよう」


「おはよう」


 山岸の視線が、机の端――冬城の指先に落ちた。

 露骨じゃない。けど、ちゃんと見てる。


「冬城さん、おはよう」


 冬城は顔を上げる。

 息が一拍だけ浅くなる。すぐに整えて答えた。


「……おはようございます。山岸くん」


 丁寧すぎるくらい丁寧。自分で線を引いてる声音だ。


 山岸は、その線を乱暴に跨がない。


「準備からずっといるんだろ。指、大丈夫?」


 “大丈夫?”の言い方が押しつけじゃない。確認だけして、

 返事がなかったら引く声。


「……平気です」


 冬城は短く言って、値札に目を戻す。戻し方が速い。逃げる速さだ。

 山岸は追わない。代わりに、机の端のテープ台を指でちょんと示す。


「上手に張ってるね。」


「……はい」


 冬城の返事は小さい。


「手伝う?」


「大丈夫です」


 即答。

 山岸は「そっか」と頷いて、そこで止めた。


 紗季がメモを見ながら言う。


「樹、次は体育館の案内板。貼り直し」


「わかった。行こうか、紗季」


「うん」


 名前で呼んで、名前で返す。短いのに息が合ってる。


 二人が出ていく直前、山岸が一度だけ立ち止まった。

 振り返らずに、でも聞こえる声で言う。


「黒川、すまないが、冬城のフォローしてやってくれ」


 余計な説明も、気遣いの上乗せもない。

 仕事の頼み方みたいに、さらっと託していく。


「了解」


 俺が答えると、山岸はそれ以上何も言わずに出ていった。

 紗季も続いて、喧騒がまたガラス越しのものになる。


 扉が閉まって、図書室の静けさが戻る。


 冬城は一拍置いてから、小さく息を吐いた。


「……ああいう言い方、ずるいよね」


「何が」


「優しいって分かってるから。断れないやつ」


 冬城はそう言って、俺の手元の値札を見た。


「黒川。また斜め」


「はいはい」


 俺はわざといつもの調子で言う。


「で。冬城は何だ。さっきの“はい”」


 冬城が俺を見る。逃げるのをやめた目で、鼻で笑った。


「黒川、見てたでしょ」


「何を?」


「何を、じゃない。全部」


 冬城は値札の束を机に置いた。観念したみたいに。


「…私さ。山岸くんのこと、好きだった」


 “だった”って言いながら、目は揺れる。

 終わってない揺れ方だ。隠す気がない。


「……いつから」


「高一の時から…。助けられたことがあって。引きずってた」


 言い切って、冬城は俺の顔を見る。


「で、黒川もさ」


「俺も?」


「うん。黒川と春川さん、名前で呼び合ってるのに、今さら他人みたいな顔してるじゃん」


 刺し方がうまい。痛いところだけ正確に押してくる。


「……してない」


「してる。春川さんに『悠』って呼ばれた瞬間、黒川、目が一回死ぬ」


「観察すんな」


「観察するよ。図書室の逃げ友なんだから」


 冬城は笑って、でもすぐ真顔に戻る。


「黒川も、春川さんのこと好きだったでしょ。

 はい、失恋相手、春川さん。はい確定」


「確定って言うな」


「だってバレバレ」


 冬城は肩をすくめて、目を伏せる。

 伏せた目が、すぐ俺に戻る。


「私のことは、変に気遣わないで。気遣われるほうがキツいから」


「気遣うの下手だから助かる」


「そこは直せ」


「直さない」


「直せ」


 言いながら、冬城は結局いつも通り俺の値札を注意してくる。

 

 俺は息を吐く。


「……で、どうすんだよ。冬城」


「どうもしない。……したいけど」


 即答して、すぐ付け足す。正直すぎて、こっちが困る。


「春川さん、幸せそうだし。山岸くんも、あれ……春川さんのこと好きだよ」


「うん」

 

 もう付き合ってるとは言えなかった。言いたくなかった。


「だから私のは、私の中で終わらせる。……ただ、黒川には言っときたかった」


「なんで俺」


 冬城は少しだけ目を細めた。


「黒川は逃げてる。私も逃げてる。……同類にだけは、嘘はつきたくない」


 図書室の外は、文化祭の喧騒が続いている。

 でもこの机の上だけ、いつもの放課後みたいに静かだった。


 俺は値札をもう一枚取って、丁寧に貼る。


「……分かった。聞いたよ」


「うん。じゃ、手伝って。…黒川。斜め」


「はいはい、親方」


「さっさと直せ。根性無しの弟子」


 冬城が笑って、値札の束をまた取る。

 その笑いが、さっきの告白だけを机の引き出しにしまうみたいに、空気を戻した。


 文化祭が終わっても、結局俺たちは、ここに戻ってくる。

 逃げ場所は、名前だけじゃなく、ちゃんと形になっていった。



     ◇


 それから時間は、いつの間にか受験本番へ向けて加速していった。


 模試の判定に一喜一憂しながら、問題集を潰していく。

 紗季と山岸が廊下を並んで歩いているのを、

 前ほど刺さらない角度で見られるようになってきたのは、

 単純に、考える余裕がなくなってきただけかもしれない。


 そして、冬。

 雪こそ降らなかったものの、空気がやたらと冷たく澄んだある日、

 俺と冬城はそれぞれ、第一志望の試験会場に向かった。


 試験当日のことは、正直あまり覚えていない。

 問題用紙をめくる手の震えと、マークシートを塗る音。

 知らない受験生たちの、押し殺した咳払い。


 「やれるだけやった」と言い切れるかどうかは怪しい。

 それでも、少なくとも去年の俺では届かなかったはずの場所に、

 ちゃんと座っていた。


 ◇


 合格発表の日。


 大学の掲示板に番号を見に行く、という選択肢もあったけれど、

 結局、俺はスマホの画面で確認する方を選んだ。


 家だと落ち着かない。

 だから、自然と足は学校に向いていた。


 放課後の図書室より少し早い時間。

 まだ誰もいない窓際の席に座って、大学の合格発表ページを開く。


「……緊張するな」


 ログイン画面の前で、指が止まる。


 落ちていたらどうしよう。

 紗季に、冬城に、「ダメだった」と笑って言えるほど格好よくもない。


 深呼吸をひとつして、受験番号を入力した。

 画面が切り替わる。


 しばらく、読み込みのぐるぐるが回る。


 ――合格おめでとうございます。


 文字が表示された瞬間、肺から一気に空気が抜けた。


「……マジか」


 声に出してしまう。


 実感は、すぐには来なかった。

 でも、指先がじんじんと熱くなる。


「やったじゃん」


 不意に頭の上から声がして、顔を上げると、冬城が立っていた。


「見てたのか」


「入ってきたときから、スマホ握りしめてるの丸分かりだったし」


「……お前、怖いな」


「褒め言葉として受け取っとく」


 冬城は、自分のスマホをちらっと見せてきた。


 そこには、同じ大学の教育学部の合格通知画面。


「そっちも?」


「うん。とりあえず、スタート地点には立てたっぽい」


 ふっと笑う横顔が、いつもより少しだけ柔らかい。


「おめでとう」


「黒川もおめでとう。……経済だよね?」


「ああ」


「同じ大学だね」


「そうなるな」


 言葉にすると、じわじわと実感が湧いてきた。


 高校の先にある景色なんて、ぼんやりとしか想像していなかった。

 でも今、少なくとも「行き先が重なる相手」が目の前にいる。


「なんか変な感じだね」


「何が」


「ここで一緒に参考書めくってた人が、

 そのまんま同じキャンパスにいるって思うとさ」


「……確かに」


 俺も笑う。


「じゃあ、向こうに行っても、あんまりサボれないな」


「うん、残念でした」


 冬城はわざとらしく肩をすくめた。


「でもまあ、“ここまで来れた”くらいは、自分で自分褒めていいと思うよ」


「お前に言われると、ちょっとだけ信じられるな」


「でしょ」


 あっさり言って、彼女はスマホをポケットにしまう。


「春川さんには、どうするの? 報告」


「……そのうち、かな」


「そっか。じゃ、頑張って“自慢”してきなよ」


「自慢って」


「いいじゃん。ここまで頑張ったのは事実なんだし」


 からかうような言い方なのに、その奥にちゃんとした労いがあるのが分かる。


「……ありがとな」


「なにが」


「いや、いろいろ」


「まだ何もしてないよ。これからでしょ」


 そう言って、冬城はひらひらと手を振った。


 図書室を出ていく背中を見送りながら、

 「これから」という言葉を、胸の中で何度か反芻した。


 ◇


 そして三月。

 卒業式の日が来た。


 体育館のステージに並ぶ教員。

 校歌。卒業証書授与。校長の長い話。

 在校生代表の送辞と、卒業生代表の答辞。


 流れていく儀式の一つ一つが、「高校生活」という枠がもうすぐ終わることを、

 しつこいくらいに告げてくる。


 式が終わり、教室に戻ると、空気が一気にゆるんだ。


「山田くん、第二ボタンちょうだいよー!」


「こんなのいるのか!?汚いぞ!これ!」


「記念なんだって!」


 あちこちで、女子が男子の制服に群がっている。


 そんな光景を、少し遠巻きに眺めながら、俺は自分の席に座った。


 第二ボタンは、特に外す予定はなかった。

 欲しいと言ってくる相手もいないだろうと思っていたし、

 正直、こういうイベントにはあまり乗り気になれない。


「悠」


 名前を呼ばれて顔を上げると、紗季が立っていた。


 卒業証書の筒を片手に持って、もう片方の手で自分のリボンをいじりながら、

 少しだけ照れくさそうな顔をしている。


「第二ボタン、ちょうだい」


 教室のざわめきが、一瞬だけ遠くなった気がした。


「……山岸にもらえばいいだろ」


 反射的に、そう言ってしまう。


 紗季は、むっとしたように眉をひそめた。


「樹のも、もらうよ。でも、悠のも欲しいの」


「なんで」


「なんでって……」


 言い淀んで、少しだけ笑う。


「一緒にいてくれた時間、長いじゃん。」


 紗季は、半歩近づいて、俺の胸元のボタンを指先でつついた。


「ちょうだい?」


 その仕草が、妙に子どもっぽくて、

 でも、もう二度と戻れない距離を思い出させる。


「……はいはい」


 ため息をひとつついて、ボタンを外す。

 制服の布越しに、指先に冷たい金属の感触が残った。

 外した第二ボタンを紗季に渡すと、彼女は大事そうに掌で包んだ。


「ありがとう」


 そう言って、いつもの笑顔を見せる。

 その笑顔に、救われたことは何度もある。

 でも今は、ほんの少し、胸がきしむだけだった。


「じゃあ、行ってくるね」


「……ああ」


 紗季は友達の輪に戻っていった。

 山岸のところにも行くのだろう。

 きっと彼女は、あいつの第二ボタンもちゃんと受け取る。


 それが当然で、それが正しい。


 頭では分かっているのに、心のどこかが、

 どうしようもなくわがままを言いたがっていた。


 そんなとき、背中をぽん、と叩かれた。


「人気者だね、黒川くん」


 振り向くと、冬城桜がいた。


「からかいに来たのか」


「そりゃもう。第二ボタン、ちゃんと持ってかれてるかなーと思って」


「見てたなら、分かるだろ」


「見てたから言ってるんだけど」


 冬城は、にやりと笑う。


「そんなにため息つかなくてもいいじゃん」


「ついてない」


「さっき三回ついてた」


「数えるな」


 思わず笑ってしまう。


「……お前も、欲しかったのか?」


 冗談半分で言うと、冬城は即答した。


「いらない」


「はっきりだな」


「だって、そういうの、柄じゃないし」


 肩をすくめて笑ってから、少しだけ真顔になる。


「それに、黒川のそういうの、“あっちのため”の方が似合うでしょ」


 紗季の方、という意味だとすぐ分かった。

 何も言い返せなくて、代わりに机のふちを指でつつく。


 冬城は、それを責めるような顔はしなかった。


 少し間を置いて、窓の外に視線を向ける。


 校庭の桜の木が、まだ満開には少し早いけれど、

 枝先に薄いピンクをまとっているのが見えた。


「……逃げ場所、なくなっちゃったね」


 ぽつりと、冬城が言う。


「図書室?」


「うん。図書室も、教室も。“高校生だから”って言い訳できる場所、

 だいたい今日で終わり」


「……ああ」


 返事をしながら、自分でも思っていた。


 毎日のように通った教室。

 バカみたいに問題集を解いて、あーだこーだ言い合った図書室。


 そこから先は、それぞれの進路が待っている。


「ねえ」


 冬城が、少しだけ俺の方に身体を向けた。


「大学行ったらさ。一緒に探してくれる?逃げ場所」


 真正面から見られて、少しだけ戸惑う。


「……俺の逃げ場所も、一緒に探してくれるならな」


 気づけば、そう答えていた。


 冬城は、一瞬だけ目を丸くして、それから、ふっと笑う。


「いいよ。じゃあ契約成立だね」


「勝手に契約にすんな」


「今のは立派な合意だよ。覚えとくから」


 軽口を叩き合いながら、ふたりで笑った。


 窓の外では、少し強めの風が吹いて、校庭の桜の枝を揺らす。

 まだ咲きはじめの花びらが、何枚かふわりと舞い落ちた。


 その薄いピンクが、どこかで見た紫陽花の色と重なって見えて、

 俺はほんの少しだけ、息を吸いやすくなった気がした。


 ここから先のことは、きっと楽じゃない。

 それでも、同じ逃げ場所を探してくれる誰かがいるなら――

 そう悪くない俺は思っていた。


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