第二章 失恋の使い道
次の日の朝、目を覚ましたとき、最初に浮かんだのは紗季の顔だった。
東屋のベンチ。
雨の音。
「半年くらい前から、彼氏がいるの」――あの声。
胸の奥が、じわっと痛む。
それでも、世界はちゃんと朝になって、スマホのアラームは容赦なく鳴るし、
制服はいつも通りそこにある。
どうしても変わらないものと、あっさり変わってしまうもの。
その境目みたいなところに、自分が立っている気がした。
――だったらせめて、変えられる方を握りしめるしかない。
布団から身体を起こしながら、小さく息を吐く。
「……勉強でもするか」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、制服に袖を通した。
◇
学校に着いても、クラスはいつも通りだった。
教室のざわめき。
机の間を歩き回る担任。
誰かの笑い声。
紗季は、いつもの席に座って、いつものように友達と話している。
その横顔を、無意識のうちに目で追ってしまいそうになって、
慌てて視線をノートに落とした。
「悠、おはよ」
「あ……おはよう」
声をかけられてしまえば、無視するわけにもいかない。
「昨日、ちゃんと帰れた?」
「うん。大丈夫だったよ」
本当は大丈夫じゃなかったけど、「大丈夫」としか言えない。
「……そっか。よかった」
紗季は一瞬、何か言いたそうにしてから、結局何も言わずに笑った。
その笑顔を見ているだけで胸が軋むのに、
「距離を置こう」とか、「もう話しかけないでくれ」とか、
そんなことを言えるほど、俺は強くない。
だからせめて、別のところで距離を取るしかないと思った。
◇
放課後、図書室に向かった。
前からテスト前だけはたまに使っていた場所だ。
でも「毎日通う場所」にしようと思ったのは、昨日の夜が初めてだった。
家にいると、どうしても考えてしまう。
紗季と山岸が並んで歩く姿。
笑い合う声。
知らない話題で盛り上がっているふたり。
想像だけで、勝手に苦しくなって、勝手に惨めになる。
だったら、その時間を全部、別のものに注ぎ込んでやればいい。
どうせなら「何かになった」と胸を張れるものに。
図書室のドアを開けると、涼しい空気と、紙の匂いがふわりと出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
カウンターの司書の先生が、いつも通りの、少し眠そうな声で挨拶する。
「失礼します」
軽く会釈をして、本棚の間を抜けていく。
窓際の二人掛けの机。
そこには既に、同じクラスの冬城桜が座っていた。
黒髪をひとつにまとめた横顔。
真面目そうなメガネ。
教科書とノートと参考書が、きれいに並べられている。
チラリとこっちを見て、すぐに視線を戻した。
……邪魔じゃないかな。
一瞬、別の席に行こうか迷ったけれど、
窓際のこの席がいちばん集中できるのも事実だ。
「ここ、座ってもいい?」
恐る恐る声をかけると、冬城は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ん……ああ。どうぞ」
それだけ言って、また教科書に目を落とす。
「特別歓迎」でも「拒絶」でもない、その距離感に、少しだけホッとした。
鞄からノートと問題集を取り出し、ペンを握る。
失恋のことは、とりあえず脇に置く。
今は目の前の問題にだけ、集中する。
そう自分に言い聞かせて、ページを開いた。
◇
どれくらい時間が経った頃だろうか。
ページの同じ場所をじっと見つめながら、
書いたり消したりを繰り返していたとき、隣から小さな声がした。
「……それ、四回目だよ」
「え?」
顔を上げると、冬城がペンをくるくる回しながら、俺のノートを覗き込んでいた。
「その問題。さっきから、ずっと同じとこやってる」
「なんでわかった?」
「さっきから“あー分かんね”って顔したの、もう何回も見た」
恥ずかしさと情けなさが、一気に押し寄せてくる。
「あー……なるほど。恥ずかしいな」
「別に、恥ずかしがらなくていいけど」
冬城は、少しだけ笑った。
「ただ、同じとこばっかり繰り返しても、あんまり意味ないからさ」
「だよな……」
分かってはいる。
分かってはいるけれど、気づくと同じところをぐるぐる回っている。
どこか、今の自分そのものみたいで、少し嫌になる。
「ここ、苦手なんでしょ」
冬城が、俺のノートのページを指で軽く叩いた。
「ちょっと貸して」
「ああ」
ノートを渡すと、彼女は斜めから覗き込んで、答案の書き方をじっと眺める。
「……うん」
すぐに、納得したように頷いた。
「単語は覚えてるのに、“なんとなく雰囲気で”つなげてる感じ」
「そこまで分かる?」
「分かるよ。私も前そうだったから」
自分のノートを開いて、俺の方にくるっと回す。
そこには、図表と矢印と短いメモが整然と並んでいた。
「ここさ、“出来事AがあったからBが起きて、
その結果Cが起きた”って流れで覚えた方がいいよ。
単語をバラバラに覚えるんじゃなくて、ストーリーにしちゃった方が早い」
「……ストーリー、ね」
「うん。
単語一個ずつは、たぶんもう頭に入ってるからさ。
あとは“つなぎ方”を覚えれば、かなり点になるよ」
言われてみると、その通りだった。
俺がやっているのは、問題を解くふりをしながら、
実は頭の中で別のことを考えている時間稼ぎみたいなものだ。
「ありがとう。助かる」
「どういたしまして」
そこで会話は終わりかと思ったら、冬城はペン先を頬に当てたまま、
少しこちらをじっと見た。
「……黒川ってさ」
「ん?」
「なんか、こう……必死な感じするよね」
「必死?」
「うん。“落ちたくない”っていうより、“落ちたら終わる”って顔してる」
図星すぎて、何も言えなかった。
冬城は、少しだけ視線をそらしてから、ぽつりと言葉を足す。
「……まあ、人のこと言えないけど」
「冬城も?」
「逃げてるって意味では、ね」
メガネの奥の目が、少しだけ遠くを見る。
「家帰っても、どうしても考えちゃうことあるからさ。
だったら、考える余裕ないくらい詰め込んだ方が楽っていうか」
「……分かる気がする」
本当に分かる。
俺も同じ理由でここにいるから。
「なんかあったの?」
口にした瞬間、「聞きすぎたかな」と少し後悔した。
でも冬城は、意外とあっさり頷いた。
「うん。まあ、ざっくり言えば失恋」
「失恋……」
「ちゃんと告白したわけじゃないけどね。
“あ、これはもう無理だな”って分かったっていうか」
淡々とした言い方とは裏腹に、その横顔には、まだ遠くに残っている痛みの影が見えた。
「……そっか」
それ以上、相手が誰かは聞かなかった。
聞けば名前が出てくるかもしれない。
でも、それを聞いたところで、俺にできることは何もない。
それに、俺だって、自分の失恋のことを詳しく話す気にはなれなかった。
「黒川は?」
今度は逆に聞かれる。
「俺も、まあ……似たようなもん」
ため息混じりに笑うと、冬城も小さく肩をすくめた。
「まあ、そういう意味では、お互い“失恋仲間”ってことで」
「仲間って言い方する?」
「する。そうでも思わないと、やってられないし」
そう言って笑う横顔は、どこか少し救われたようにも見えた。
◇
図書室に通う日々は、そこから少しずつ変わっていった。
最初はただ、同じ席に座っているだけ。
次第に、問題集の話をするようになり、
やがて、お互いの進路の話をするようになった。
「教育学部か。先生になりたいんだっけ」
ある日の放課後、進路希望調査の紙を机の上に出しながら尋ねると、
冬城は少し考えてから答えた。
「“絶対先生になりたい!”ってほどじゃないけどね。
でも、“誰かに教える側”の方にいたい感じはあるかな」
「似合うとは思う」
「ほんと?」
「うん。なんか、説明うまいし」
さっきも、世界史の範囲を、俺でも分かるレベルに噛み砕いてくれたところだ。
「黒川は? 書いた?」
「一応、国立の経済」
「お、すご」
「すごくはないだろ。受かるかどうか分からないし」
「“すごいとこに挑戦しようとしてる人”は、すごいって言っていいんだよ」
あまりにもまっすぐな言い方に、少しだけ照れくさくなる。
「なんで経済?」
「……将来のこと考えたら、無難かなって。
あと、なんとなく数字とかグラフの方が、まだマシっていうか」
本当は、「どうせやるなら、ちゃんと上を狙いたい」という、
ちょっとした意地もあった。
紗季にとって俺がどう見えるか。
いつか、結果だけでも見せつけられたらいい。
その感情を、わざわざ口には出さないけれど。
「ふーん」
冬城は、じっと俺の顔を見てから、小さく笑った。
「“どうせなら見返してやりたい”って感じ?」
「……まあ、それも、少し」
否定しきれない。
「いいと思うけどね。きれいごとだけで頑張れるほど、受験って優しくないし」
「お前、けっこう辛辣だな」
少しだけくすくす笑って、それから真面目な顔に戻る。
「でもさ」
「ん?」
「“失恋のせいで”頑張るっていうより、“失恋を使って”頑張るって思った方が、
まだマシかなって」
「使う…、ね」
「うん。だって、起きちゃったことはもう変わらないじゃん。
だったら、せめて“起きたことを材料にする側”に回らないと、
損した気がしない?」
「……それは、分かる気がする」
失ったものを、ただただ嘆くだけで終わらせたくない。
何かしらの形に変換して、自分の中に残しておきたい。
それが「勉強」という形なら、まだ受け入れやすい。
「冬城も、そうなのか?」
「まあ…ね」
冬城は、窓の外に目を向ける。
校舎裏の紫陽花が、少しだけ色を濃くしていた。
薄い青と、まだ緑がかった蕾。その奥に、かすかにピンクが混じっている。
「私も、ちゃんと失恋してるからさ。
名前までは言わないけど」
「聞かないよ」
「聞かないで」
きっぱりと言われて、思わず笑う。
「でも、“このまま家帰っても考えるだけだな”って思うとき、
ここ来て、問題解いてると、ちょっとだけ楽なんだよね」
「俺も、だいたい同じ」
「だよね」
冬城は、机の上を軽く指でトントンと叩いた。
「じゃあ、ここはしばらく、“逃げ場所”ってことで」
「新しい名前ついたな」
「でしょ」
冗談めかしながらも、どこか本気の響きがあった。
◇
文化祭の日も、図書室は紙の匂いがしていた。
廊下の甘ったるい匂いが扉の外で渦を巻いているのに、
ここだけはいつも通りだった。
古本市の準備で、俺と冬城は机に向かって値札を貼っていた。
角が少し浮く。
「黒川。また斜めってる」
「分かってる」
「分かってないから言ってるんでしょ」
そう言って、冬城が真っ直ぐにきれいに張る。
その動作が、やけに落ち着く。
扉が開いて、紗季が顔を出した。実行委員の腕章。
「悠、冬城さん。進んでる?」
不意に名前を呼ばれて、胸が痛む。
「進んでるよ。でも、黒川が使えない。雑。根性無し。
あと、値札が足りないかも」
「言いすぎだぞ」
紗季が吹き出した。
「悠、冬城さんに根性無しの上、使えないって言われてるよ?」
「違う。こいつが職人なだけだよ」
紗季が大笑いしながら、話しかける。
こんなに笑う紗季を久々に見た気がした。
「冬城さん、悠を一人前の職人に鍛え上げてやって」
「わかった。任せて」
「勝手に任されるな」
そんな俺と冬城のやり取りを見て、紗季は微笑んでいた。
「値札の件はわかったよ。あとで持ってくるね」
短い会話。それだけなのに、胸の奥が一度だけ騒いだ。
少し遅れて、山岸も箱を運んできた。
「黒川、おはよう」
「おはよう」
山岸の視線が、机の端――冬城の指先に落ちた。
露骨じゃない。けど、ちゃんと見てる。
「冬城さん、おはよう」
冬城は顔を上げる。
息が一拍だけ浅くなる。すぐに整えて答えた。
「……おはようございます。山岸くん」
丁寧すぎるくらい丁寧。自分で線を引いてる声音だ。
山岸は、その線を乱暴に跨がない。
「準備からずっといるんだろ。指、大丈夫?」
“大丈夫?”の言い方が押しつけじゃない。確認だけして、
返事がなかったら引く声。
「……平気です」
冬城は短く言って、値札に目を戻す。戻し方が速い。逃げる速さだ。
山岸は追わない。代わりに、机の端のテープ台を指でちょんと示す。
「上手に張ってるね。」
「……はい」
冬城の返事は小さい。
「手伝う?」
「大丈夫です」
即答。
山岸は「そっか」と頷いて、そこで止めた。
紗季がメモを見ながら言う。
「樹、次は体育館の案内板。貼り直し」
「わかった。行こうか、紗季」
「うん」
名前で呼んで、名前で返す。短いのに息が合ってる。
二人が出ていく直前、山岸が一度だけ立ち止まった。
振り返らずに、でも聞こえる声で言う。
「黒川、すまないが、冬城のフォローしてやってくれ」
余計な説明も、気遣いの上乗せもない。
仕事の頼み方みたいに、さらっと託していく。
「了解」
俺が答えると、山岸はそれ以上何も言わずに出ていった。
紗季も続いて、喧騒がまたガラス越しのものになる。
扉が閉まって、図書室の静けさが戻る。
冬城は一拍置いてから、小さく息を吐いた。
「……ああいう言い方、ずるいよね」
「何が」
「優しいって分かってるから。断れないやつ」
冬城はそう言って、俺の手元の値札を見た。
「黒川。また斜め」
「はいはい」
俺はわざといつもの調子で言う。
「で。冬城は何だ。さっきの“はい”」
冬城が俺を見る。逃げるのをやめた目で、鼻で笑った。
「黒川、見てたでしょ」
「何を?」
「何を、じゃない。全部」
冬城は値札の束を机に置いた。観念したみたいに。
「…私さ。山岸くんのこと、好きだった」
“だった”って言いながら、目は揺れる。
終わってない揺れ方だ。隠す気がない。
「……いつから」
「高一の時から…。助けられたことがあって。引きずってた」
言い切って、冬城は俺の顔を見る。
「で、黒川もさ」
「俺も?」
「うん。黒川と春川さん、名前で呼び合ってるのに、今さら他人みたいな顔してるじゃん」
刺し方がうまい。痛いところだけ正確に押してくる。
「……してない」
「してる。春川さんに『悠』って呼ばれた瞬間、黒川、目が一回死ぬ」
「観察すんな」
「観察するよ。図書室の逃げ友なんだから」
冬城は笑って、でもすぐ真顔に戻る。
「黒川も、春川さんのこと好きだったでしょ。
はい、失恋相手、春川さん。はい確定」
「確定って言うな」
「だってバレバレ」
冬城は肩をすくめて、目を伏せる。
伏せた目が、すぐ俺に戻る。
「私のことは、変に気遣わないで。気遣われるほうがキツいから」
「気遣うの下手だから助かる」
「そこは直せ」
「直さない」
「直せ」
言いながら、冬城は結局いつも通り俺の値札を注意してくる。
俺は息を吐く。
「……で、どうすんだよ。冬城」
「どうもしない。……したいけど」
即答して、すぐ付け足す。正直すぎて、こっちが困る。
「春川さん、幸せそうだし。山岸くんも、あれ……春川さんのこと好きだよ」
「うん」
もう付き合ってるとは言えなかった。言いたくなかった。
「だから私のは、私の中で終わらせる。……ただ、黒川には言っときたかった」
「なんで俺」
冬城は少しだけ目を細めた。
「黒川は逃げてる。私も逃げてる。……同類にだけは、嘘はつきたくない」
図書室の外は、文化祭の喧騒が続いている。
でもこの机の上だけ、いつもの放課後みたいに静かだった。
俺は値札をもう一枚取って、丁寧に貼る。
「……分かった。聞いたよ」
「うん。じゃ、手伝って。…黒川。斜め」
「はいはい、親方」
「さっさと直せ。根性無しの弟子」
冬城が笑って、値札の束をまた取る。
その笑いが、さっきの告白だけを机の引き出しにしまうみたいに、空気を戻した。
文化祭が終わっても、結局俺たちは、ここに戻ってくる。
逃げ場所は、名前だけじゃなく、ちゃんと形になっていった。
◇
それから時間は、いつの間にか受験本番へ向けて加速していった。
模試の判定に一喜一憂しながら、問題集を潰していく。
紗季と山岸が廊下を並んで歩いているのを、
前ほど刺さらない角度で見られるようになってきたのは、
単純に、考える余裕がなくなってきただけかもしれない。
そして、冬。
雪こそ降らなかったものの、空気がやたらと冷たく澄んだある日、
俺と冬城はそれぞれ、第一志望の試験会場に向かった。
試験当日のことは、正直あまり覚えていない。
問題用紙をめくる手の震えと、マークシートを塗る音。
知らない受験生たちの、押し殺した咳払い。
「やれるだけやった」と言い切れるかどうかは怪しい。
それでも、少なくとも去年の俺では届かなかったはずの場所に、
ちゃんと座っていた。
◇
合格発表の日。
大学の掲示板に番号を見に行く、という選択肢もあったけれど、
結局、俺はスマホの画面で確認する方を選んだ。
家だと落ち着かない。
だから、自然と足は学校に向いていた。
放課後の図書室より少し早い時間。
まだ誰もいない窓際の席に座って、大学の合格発表ページを開く。
「……緊張するな」
ログイン画面の前で、指が止まる。
落ちていたらどうしよう。
紗季に、冬城に、「ダメだった」と笑って言えるほど格好よくもない。
深呼吸をひとつして、受験番号を入力した。
画面が切り替わる。
しばらく、読み込みのぐるぐるが回る。
――合格おめでとうございます。
文字が表示された瞬間、肺から一気に空気が抜けた。
「……マジか」
声に出してしまう。
実感は、すぐには来なかった。
でも、指先がじんじんと熱くなる。
「やったじゃん」
不意に頭の上から声がして、顔を上げると、冬城が立っていた。
「見てたのか」
「入ってきたときから、スマホ握りしめてるの丸分かりだったし」
「……お前、怖いな」
「褒め言葉として受け取っとく」
冬城は、自分のスマホをちらっと見せてきた。
そこには、同じ大学の教育学部の合格通知画面。
「そっちも?」
「うん。とりあえず、スタート地点には立てたっぽい」
ふっと笑う横顔が、いつもより少しだけ柔らかい。
「おめでとう」
「黒川もおめでとう。……経済だよね?」
「ああ」
「同じ大学だね」
「そうなるな」
言葉にすると、じわじわと実感が湧いてきた。
高校の先にある景色なんて、ぼんやりとしか想像していなかった。
でも今、少なくとも「行き先が重なる相手」が目の前にいる。
「なんか変な感じだね」
「何が」
「ここで一緒に参考書めくってた人が、
そのまんま同じキャンパスにいるって思うとさ」
「……確かに」
俺も笑う。
「じゃあ、向こうに行っても、あんまりサボれないな」
「うん、残念でした」
冬城はわざとらしく肩をすくめた。
「でもまあ、“ここまで来れた”くらいは、自分で自分褒めていいと思うよ」
「お前に言われると、ちょっとだけ信じられるな」
「でしょ」
あっさり言って、彼女はスマホをポケットにしまう。
「春川さんには、どうするの? 報告」
「……そのうち、かな」
「そっか。じゃ、頑張って“自慢”してきなよ」
「自慢って」
「いいじゃん。ここまで頑張ったのは事実なんだし」
からかうような言い方なのに、その奥にちゃんとした労いがあるのが分かる。
「……ありがとな」
「なにが」
「いや、いろいろ」
「まだ何もしてないよ。これからでしょ」
そう言って、冬城はひらひらと手を振った。
図書室を出ていく背中を見送りながら、
「これから」という言葉を、胸の中で何度か反芻した。
◇
そして三月。
卒業式の日が来た。
体育館のステージに並ぶ教員。
校歌。卒業証書授与。校長の長い話。
在校生代表の送辞と、卒業生代表の答辞。
流れていく儀式の一つ一つが、「高校生活」という枠がもうすぐ終わることを、
しつこいくらいに告げてくる。
式が終わり、教室に戻ると、空気が一気にゆるんだ。
「山田くん、第二ボタンちょうだいよー!」
「こんなのいるのか!?汚いぞ!これ!」
「記念なんだって!」
あちこちで、女子が男子の制服に群がっている。
そんな光景を、少し遠巻きに眺めながら、俺は自分の席に座った。
第二ボタンは、特に外す予定はなかった。
欲しいと言ってくる相手もいないだろうと思っていたし、
正直、こういうイベントにはあまり乗り気になれない。
「悠」
名前を呼ばれて顔を上げると、紗季が立っていた。
卒業証書の筒を片手に持って、もう片方の手で自分のリボンをいじりながら、
少しだけ照れくさそうな顔をしている。
「第二ボタン、ちょうだい」
教室のざわめきが、一瞬だけ遠くなった気がした。
「……山岸にもらえばいいだろ」
反射的に、そう言ってしまう。
紗季は、むっとしたように眉をひそめた。
「樹のも、もらうよ。でも、悠のも欲しいの」
「なんで」
「なんでって……」
言い淀んで、少しだけ笑う。
「一緒にいてくれた時間、長いじゃん。」
紗季は、半歩近づいて、俺の胸元のボタンを指先でつついた。
「ちょうだい?」
その仕草が、妙に子どもっぽくて、
でも、もう二度と戻れない距離を思い出させる。
「……はいはい」
ため息をひとつついて、ボタンを外す。
制服の布越しに、指先に冷たい金属の感触が残った。
外した第二ボタンを紗季に渡すと、彼女は大事そうに掌で包んだ。
「ありがとう」
そう言って、いつもの笑顔を見せる。
その笑顔に、救われたことは何度もある。
でも今は、ほんの少し、胸がきしむだけだった。
「じゃあ、行ってくるね」
「……ああ」
紗季は友達の輪に戻っていった。
山岸のところにも行くのだろう。
きっと彼女は、あいつの第二ボタンもちゃんと受け取る。
それが当然で、それが正しい。
頭では分かっているのに、心のどこかが、
どうしようもなくわがままを言いたがっていた。
そんなとき、背中をぽん、と叩かれた。
「人気者だね、黒川くん」
振り向くと、冬城桜がいた。
「からかいに来たのか」
「そりゃもう。第二ボタン、ちゃんと持ってかれてるかなーと思って」
「見てたなら、分かるだろ」
「見てたから言ってるんだけど」
冬城は、にやりと笑う。
「そんなにため息つかなくてもいいじゃん」
「ついてない」
「さっき三回ついてた」
「数えるな」
思わず笑ってしまう。
「……お前も、欲しかったのか?」
冗談半分で言うと、冬城は即答した。
「いらない」
「はっきりだな」
「だって、そういうの、柄じゃないし」
肩をすくめて笑ってから、少しだけ真顔になる。
「それに、黒川のそういうの、“あっちのため”の方が似合うでしょ」
紗季の方、という意味だとすぐ分かった。
何も言い返せなくて、代わりに机のふちを指でつつく。
冬城は、それを責めるような顔はしなかった。
少し間を置いて、窓の外に視線を向ける。
校庭の桜の木が、まだ満開には少し早いけれど、
枝先に薄いピンクをまとっているのが見えた。
「……逃げ場所、なくなっちゃったね」
ぽつりと、冬城が言う。
「図書室?」
「うん。図書室も、教室も。“高校生だから”って言い訳できる場所、
だいたい今日で終わり」
「……ああ」
返事をしながら、自分でも思っていた。
毎日のように通った教室。
バカみたいに問題集を解いて、あーだこーだ言い合った図書室。
そこから先は、それぞれの進路が待っている。
「ねえ」
冬城が、少しだけ俺の方に身体を向けた。
「大学行ったらさ。一緒に探してくれる?逃げ場所」
真正面から見られて、少しだけ戸惑う。
「……俺の逃げ場所も、一緒に探してくれるならな」
気づけば、そう答えていた。
冬城は、一瞬だけ目を丸くして、それから、ふっと笑う。
「いいよ。じゃあ契約成立だね」
「勝手に契約にすんな」
「今のは立派な合意だよ。覚えとくから」
軽口を叩き合いながら、ふたりで笑った。
窓の外では、少し強めの風が吹いて、校庭の桜の枝を揺らす。
まだ咲きはじめの花びらが、何枚かふわりと舞い落ちた。
その薄いピンクが、どこかで見た紫陽花の色と重なって見えて、
俺はほんの少しだけ、息を吸いやすくなった気がした。
ここから先のことは、きっと楽じゃない。
それでも、同じ逃げ場所を探してくれる誰かがいるなら――
そう悪くない俺は思っていた。
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