第四章 気付かない六月

 目を開けると、雨の匂いがした。


 窓ガラスを叩く細い雨。

 教室のざわめき。

 黒板の隅に書かれた、六月の日付。

 紗季から山岸の事を聞く前。


 息を吸うより先に、背中が冷たくなった。


 ——戻ってきた…


 あり得ない。そう思うのに、身体の方が先に理解してしまう。

 最後の記憶は、紗季の声だった。彼氏ができた、と告げられて、

 胸の奥がぐちゃぐちゃになって。そこから先は曖昧で、気づいたら今だ。

頭が揺れる。喉が乾く。心臓だけが異様に速い。

 怖い。けれど、その怖さの底に、別の感覚が沈んでいる。


 ——やり直せるなら…


 浮かんだ瞬間、ぞっとした。

 でも、浮かんでしまった。


 僕は机の下で指先を握りしめた。

 紗季の隣が、山岸じゃなくなる未来。

 それを考えた途端、胸の奥が熱を持った。

 だから僕は、まず小細工から始めた。


 山岸の噂を流した。

 匿名のアカウント。短い文。

 確かめようのない言葉は、確かめようがないから強い。


 放課後、廊下の端で女子たちがひそひそ話しているのが耳に入った。


 「山岸ってさ……」


 けれど、紗季は笑い飛ばした。

 「そんなわけない」って、強い声で言った。

 山岸も「気にすんな」と返した。


 崩れない。

 その当たり前が、腹立たしかった。


 僕は次の手を選んだ。

 もっと確実に、二人の間を削る方法。


 駅から少し外れた喫茶店。煙草の匂い。

 無表情の男が、手順と料金だけを並べた。


 「ターゲットは山岸。相手は春川。で、別れさせたい」


 僕が言うと、男は淡々と頷く。


 「情報と行動パターン。……あとは予算」


 紙袋を机の下で滑らせた、そのとき。

 ドアベルが鳴った。


 嫌な予感がして顔を上げると、冬城桜が入ってきていた。

 冬城は一瞬だけこちらを見て、薄く眉を寄せた。

 驚きじゃない。“見た”という目だった。


 僕は視線を落とし、打ち合わせを早々に切り上げた。

 店を出るとき、桜と目が合った。桜は何も言わない。ただ、静かに見ていた。


 翌日、紗季から呼び出された。


 駅前。雨。

 紗季は傘を差したまま、僕をまっすぐ見た。顔が冷たい。


「悠、聞きたいことある」


 胸が縮む。

 僕は笑おうとして、失敗した。


 「冬城さんが見たって。喫茶店で、知らない男と会ってた。

 樹の名前、聞こえたって」


 心臓が一度、変な音を立てた。


 僕は否定した。否定の形だけは、すぐ出る。


 「違う。そんなの——」


 「じゃあ何」


 紗季の声は低い。怒りと失望が混ざっているのに、ぶれていない。


 「私、悠のこと信じたいって思ってた」


 “思ってた”。

 過去形が、胸の奥に刺さった。


 「でも、山岸を傷つけるようなことするなら……無理」


 雨音が強くなる。傘の上で弾ける音が、やけにうるさい。


 「……最低」


 紗季はそれだけ言って、背を向けた。

 友達の輪に戻るみたいに、でも戻れないみたいに、足取りが重かった。


 僕は立ち尽くした。


 追いかけることも、謝ることもできなかった。

 言葉を出した瞬間、全部が嘘になる気がしたから。


 胸の奥が、じわじわ冷えていく。


 ——終わった。


 ただそれだけが、頭の中で反響していた。


 ◇


 次の日の放課後。


 雨上がりで、空気が湿っていた。

 僕は学校には行かず、街をさまよっていた。

 紗季の顔も、冬城の目も、山岸の姿も見たくなかった。


 そして、角を曲がったとき、見てしまった。


 紗季と山岸が並んで歩いている。

 紗季が何か言って、山岸が笑う。

 山岸の手が、紗季の頭に触れる。軽く撫でる。


 その瞬間、胸の奥が音を立てて崩れた。


 ——僕だけが終わったのに…。


 足が勝手に動いた。身体が勝手に近づいていく。


「悠?」


 紗季が気づいて、目を丸くする。

 山岸も振り向く。


 僕は何も言えない。

 喉の奥が固くなって、息だけが浅くなる。


 山岸が一歩前に出る。


「……おい、大丈夫か——」


 その肩に、僕の手が触れた。


 触れた瞬間、内側から熱がせり上がった。

 怒りとか嫉妬とか、そんな綺麗な名前じゃない。


 ただ、“邪魔だ…どけ!” だった。


 僕は押していた。


 山岸の身体が前に崩れる。

 濡れた路面で足が滑って、車道へ流れていく。


「——樹っ!!」


 紗季の悲鳴が、世界を割った。


 紗季が駆け寄る。膝をつく。肩を揺さぶる。呼びかける。

 返事はない。


 紗季が顔を上げた。

 僕を見つけた。


 怒りと絶望で濡れた目。


「……悠……っ!!」


 その声で、僕は萎縮した。

 全身が冷たくなって、足が動かない。胸が詰まる。


 耐えきれない。


 ◇


 雨の冷たさが頬に当たった。


 立っているだけで、足がふらつく。

 ——生きてる?

 そんなことを思ってしまう自分に、俺は驚いた。


 次の瞬間、遅れて流れ込む。


 押した手。

 車のライト。

 鈍い音。

 紗季の悲鳴。

 倒れている山岸。


 息が止まった。


 視線の先で、紗季が膝をついている。

 山岸の肩を揺さぶって、呼び続けている。

 返事はない。


 紗季が俺を睨む。

 言葉が飛んでくる。止まらない。鋭い。冷たい。熱い。

 当たり前だ。

 俺は言い訳ができなかった。

 喋る気力も…もう残っていなかった。


「……すまない」


 それだけで精一杯だった。


 ここに立っているだけで、紗季が壊れる。

 胸の奥が釘で打たれていくみたいだった。

 …ちゃんと終わらせる。

 俺は背を向けて歩いた。雨の中を、逃げるみたいに。


 横断歩道。赤信号。滲むライト。


(……紗季。……山岸。すまない)


 心の中でだけ謝って、俺は一歩踏み出した。


 ◇


 また六月だった。

 頭が揺れる。

 さっきまでの事はなかったことになっていた。

 今度は、もっと“綺麗に”別れさせようとした。

 誤解を増やして、すれ違いを増やして、自然に離れるように。


 でも崩れない。

 山岸は紗季を守り、紗季は山岸を信じる。


 その強さが、僕を苛立たせた。

 そのせいで考えが稚拙になっていく。


 放課後。図書室。

 雨音が窓に張りついて、空気が湿っている。


 紗季が席に座って、参考書を開いている。

 いつもの横顔。いつもの距離。


 僕は立ち上がって、紗季の肩を掴んだ。


「ちょ、悠——」


 驚いた声。身体が引かれる。

 離せない。離したくない。


 顔を近づける。


「やめ——っ」


 紗季が身を引く。

 唇は空を切って、頬に触れた。


 湿った温度だけが残って、次の瞬間、乾いた音が鳴る。


 ビンタ。


 紗季の目が震える。怒りと怖さ。

 紗季の言葉が、途切れず落ちてくる。


 「何してるの」

 「信じてた」

 「幼馴染だと思ってた」

 「……怖い」


 その途中で、僕の胸の奥がぎり、と軋んだ。

 僕は何をやっているんだ。

 息が詰まる。耳が遠くなる。


 耐えられない。


 ◇

 

 気づいたら立っていた。


 身体が重い。息が浅い。

 さっきの雨が、まだ骨に残っているみたいだった。

 なぜ…。終わらない…。


 遅れて流れ込む映像。

 掴んだ肩。迫った顔。頬に落ちたキス。ビンタ。紗季の批難。


「……すまない」


 それだけ言って、一歩下がった。


 紗季は何も返さず、背を向けて去った。


 追えない…。触れない…。


 残された静けさの中で、俺は理解する。

 ——戻るなら…。

 さっきの赤信号が、身体に答えを残している。


 紗季の心を元に戻すには、俺が…。


(……紗季。すまない)


 赤信号。滲むライト。

 俺は一歩踏み出した。


 ◇


 それから先、六月は折り重なっていった。


 最初のうちは、簡単なことで死ななかった。

 失敗しても、謝って、取り返して、夜を越えた。

 死ぬのは“取り返しのつかないミス”をしたときだけだった。


 でも、その基準は少しずつズレていく。


 紗季の返信が遅い。

 山岸が紗季の手を取る。

 冬城が図書室で僕を見て、薄く眉を寄せる。


 それだけで胸の奥がざわついて、眠れない夜が来る。

 眠れない夜は、赤信号を連れてくる。


 ——失敗しても、やり直せる。


 その考えが染みていくたび、僕は少しずつ狡くなっていった。

 そして実験を重ねた。小さな嘘。小さな誘導。小さな圧。

 失敗するたび、やり直して、やり直して、やり直した。


 最初は怖かった。

 死ぬのは最後の手段だった。


 でも、戻る回数が増えるほど、死は“便利な手段”になっていった。


 ——ミスった。じゃあ、やり直しだ…。


 そんな軽さが、少しずつ身体に染みてくる。


 ただ一つだけ、越えられない線があった。


 紗季。冬城。山岸。

 この三人が傷つく気配がするときだけ、

 胸の奥が強く軋んで、視界の端が暗くなる。

 止まれ、と内側から押し返してくる。

 それはいつも、数秒遅れてやってきた。


 ある日の放課後。廊下。


 冬城が一人で窓際を歩いていた。

 僕は追いついて肩を並べ、何でもない顔で声をかける。


「冬城」


 冬城桜は振り向いて、眉を少し上げた。


「なに、黒川」


 僕は笑ってみせた。

 雑談を装って、少しずつ距離を詰める。

 山岸の話題へ、自然に流す。冬城の反応を見る。


 ——この子を動かせば、山岸が揺れる。


 その考えが頭の中で形になり始めた瞬間、

 僕の手が、冬城へ伸びかけた。


 けしかければ、たぶん簡単だった。

 上手くいけば、紗季の言葉も、視線も、全部“こちら”へ向く。


 ——言葉を発しようとした瞬間。


 胸の奥が、ぎり、と強く軋んだ。

 息が止まる。視界の端が暗くなる。


 数秒遅れて、身体の重さが変わった。


 ◇


 何とか表に出れた…。


 ——間に合ってる…。

 桜には…何もしていない…。


 足元がぐらつく。息が浅い。

 胸の奥が、ずっと痛い。


 桜がこちらを見ていた。

 驚いた顔じゃない。怒ってもいない。

 ただ、警戒している。


 俺は一歩、後ろへ下がった。


 その瞬間、桜と目が合った。


 たった一拍。

 なのに、頭の奥が焼ける。


 雨の匂い。

 指輪の話。

 まっすぐ見つめた目。


 ——「愛している」


 声が胸の中でだけ響いて、すぐ消えた。


 そして、桜は今もここにいて、ちゃんと息をしている。


 ——裏切り、傷つけたはずのことが、なかったことになっている。


 それが…嬉しかった。


 俺は、よろよろと横へ退いた。

 桜から離れ、廊下の角を曲がって、誰もいない場所へ逃げ込む。


 壁に手をついて、膝が笑う。

 ——守れた。

 その事実だけが残って、次の瞬間、堪えきれなくなった。


 俺は声を殺して泣いた。

 肩が上下するのを押さえようとしても止まらない。

 涙が頬を伝って、床に落ちる。


 泣いているうちに、身体の芯が冷えていく。

 立っていられない。ここに居続けられない。


 視界が白くなる。


 ◇


 次の瞬間。


 僕は壁に手をついたまま、荒い呼吸をしていた。

 頬が濡れている。


 なんで泣いているのか、すぐには分からない。

 ただ、胸の奥に重たいものだけが残っていた。


 そして、その重さが僕を苛立たせた。


 ——また邪魔された。こいつは…邪魔だ…


 便利だと思っていた“やり直し”は、

 いつのまにか僕の心を削っていた。


 邪魔なら消せばいい。

 失敗しても、死ねばいい。

 そう思うほど、失敗の重さが軽くなる。


 軽くなるほど、次の一手が乱暴になる。


 ◇


 夜。


 街灯の届かない道で紗季の背中を見つけた瞬間、

 胸の奥の熱は抑えられなかった。

 帽子を深く被って息を殺し、距離を詰める。

 指先が紗季の腕に触れた。

 紗季が振り向くより先に、力を込めた。


「……っ!」


 抵抗する腕。爪がどこかに当たって痛い。

 僕は押す。壁際へ。暗い影へ。


「やめて!」


 震える声が、胸の奥の熱をさらに煽る。


 口元を押さえる。

 もう片方の手が制服の胸元へ滑って——

 布越しに、確かな感触が指に触れた瞬間。


 胸の奥が破裂しそうに軋んだ。

 また…邪魔しに…

 

 数秒遅れて、世界が揺れて、身体の重さが変わる。


 ◇


 俺は紗季から手を離した。

 体が重い。手足が痺れる…。


 それでも、指先に感触だけが残っている。

 遅れて映像が流れ込む。

 押し倒した体重。塞いだ口。触れてしまった胸。


 ——間に合ってない…。

  

 紗季が咳き込み、必死に距離を取る。

 帽子がずれて落ちる。


 紗季の目が俺の顔を捉えた。

 嫌悪が一気に塗り替える。


 罵倒。否定。拒絶。

 言葉が降ってくる。


 心が痛む…。削られる…。

 俺は言い訳をしない。

 いや…できない。

 かろうじて、喉の奥だけが動いた。


「……すまない」


 紗季は泣きそうな顔で後ずさりして、そのまま走って消えた。


 路地に残るのは荒い呼吸と、取り返しのつかない感触だけ。

 

(……紗季。すまない)


 赤信号。滲むライト。

 俺はふらつきながら、一歩踏み出した。


 ◇


 まだ六月は気付いていない。

 頭が揺れる。


 雨の匂いが前より重い。

 紗季の顔が前より疲れて見えた。


 昼休み、紗季は窓際でぼんやりしていた。

 呼んでも返事が一拍遅れる。

 僕は紗季に話しかけてみた。


「……紗季。最近、ちゃんと眠れてる?」


 紗季は首を振った。

 強気に笑おうとして、笑い損ねる。


「変な夢見る。……毎日」


 声を落とす。


「誰かに追いかけられる。逃げても逃げても、同じ場所に戻るみたいな感じ」


 紗季は袖を強く握った。


「近づかれて、掴まれて……嫌なこと、されそうになる」


 言いながら、紗季の指先が震えている。


「途中から、何が怖いのか分かんなくなる。……でも最後は決まって同じ」


 紗季が目を伏せる。


「“すまない”って、聞こえる」


 雨の音の中に、その言葉だけが残った。


「優しい声なの。……だから余計に気持ち悪い。怖い」


 僕は喉を動かした。


「……すまない」


 小さく、確かめるみたいに。


 紗季の肩がびくっと跳ねた。


「……やめて」


 震える声。


 僕はすぐに“いつもの僕”へ戻した。


「ごめん。嫌だったよね。ごめん」


 紗季はそれ以上言わず、話を終わらせるみたいに立ち上がった。

 友達の輪へ戻っていく背中が、やけに遠い。


 胸の奥で、何かが噛み合う音がした。


 ——反応した。たった一言で。


 紗季は、最後に必ず“すまない”を聞いている。

 そしてその声を、優しいと言った。


 僕は雨の廊下を歩きながら、口の中でだけ言葉を転がした。


 すまない。

 すまない。

 すまない。


 もしそれが、“僕のもの”になったら?

 そして、あいつを消せたら?

 もし紗季がそれを聞くたびに、

 「悠が止めようとしてる」って思うようになったら?


 雨が強くなって、紫陽花の色が滲む。


 芽は、刺さった。

 抜けない形で。


---


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る