第一章 雨の六月
六月の雨は、嫌いじゃなかった。
暑すぎもしないし、まだ蝉も鳴かない。
グラウンドの土の匂いと、校舎のコンクリートに打ちつける雨音が混ざって、
世界全体が少しだけ静かになる。
――少し前までは、そう思っていた。
「悠、帰るよー。ほら、ぼーっとしない」
教室の入り口から顔を出して、春川紗季が手を振った。
茶色がかったポニーテールが、蛍光灯の光の下で揺れる。
「……あ、ごめん」
慌てて鞄を持ち上げる。
放課後の教室には、もう人影はほとんどない。
黒板には今日の英語の例文が薄く残っていて、
窓の向こうでは細かい雨粒が縦に線を描いていた。
「ほら、またひとりで考えごとしてたでしょ」
「そんなことないよ」
「バレバレ。昔からだし」
そう言って笑う顔を見ていると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
僕が事故で家族を失ってからの何年か、
学校にちゃんと通えるようになるまで付き合ってくれたのは、
他でもない、この幼馴染だ。
だからこそ、余計に。
「傘、それで平気?」
教室を出て踊り場に向かう途中で、紗季が尋ねてきた。
「うん。どうせ家までだし」
「……ん。じゃあ、入れてあげる」
「入れるってなに?」
「だって、悠の持ってるビニール傘、骨曲がってるじゃん。昨日見た」
「見てたの?」
「見てたよ」
わりとなんでも見ている幼馴染だ。
そういうところも、ずるいと思う。
昇降口を抜けると、湿った空気が一気に押し寄せてきた。
コンクリートの匂い。濡れた土の匂い。
その向こうに、学校の花壇の紫陽花が、雨に打たれて揺れているのが見えた。
「うわ、けっこう降ってる」
「だね」
紗季が、紺色の長い傘をぱっと開く。
広がった布に雨粒が当たって、ぽつぽつと小さな音を立てた。
「ほら、入って」
「あ、うん。ありがと」
自然な動作で差し出される傘に、僕はいつものように半歩だけ近づく。
ふたり分にしては少し心もとない傘の下に、
雨音がやわらいだ小さな世界ができる。
紗季の髪から、シャンプーの甘い匂いがふわっとした。
「ねえ、帰りさ」
「うん?」
「ちょっと寄り道していい?」
心臓が一瞬、強く鳴る。
「……あの公園?」
「うん。最近行ってなかったし。東屋、まだ残ってるかな」
「残ってるでしょ、さすがに」
僕たちが小さいころから何度も遊んでいた、小さな公園。
夏休みに水鉄砲を持って走り回ったり、冬に雪だるまを作ったりした場所。
中学のときには、僕が学校に行けなかった時期、
紗季が何度も連れ出してくれた場所でもある。
あの東屋のベンチで、何度「ごめんね」と言ったか分からない。
今でも、あの屋根の下に座ると、不思議と呼吸が少しだけ楽になる。
「……いいよ」
紗季と一緒なら、どこだっていい。
本当は、そう言いたかった。
◇
学校から少し歩いたところにあるその公園は、
平日の夕方ということもあって、人の気配がほとんどなかった。
滑り台の鉄の部分が雨で濡れて光っている。
砂場には、誰かが作りかけて放置した山が、既に半分崩れかけていた。
公園のいちばん端。
紫陽花と低いフェンスに囲まれた東屋の下に、僕たちは並んで座る。
ここから少し離れた場所にも、ピンクが混じった紫陽花の株があるのを、
僕は知っていた。
ふと視線を向けると、まだ色づききらない蕾が、
雨に濡れながら小さく揺れている。
「なんかさ」
紗季が、濡れた傘を足元の柱に立てかけて、ぽつりと言った。
「ここ来ると、ちょっと落ち着くよね」
「うん。そうだね」
「悠、よくここで泣いてたし」
「言わなくていいから、そういうの」
苦笑いすると、紗季は「ごめん」と笑った。
からかい半分、でもそれだけじゃない顔。
僕は、視線を落として、自分のスニーカーのつま先を見る。
雨に濡れたコンクリートに、水滴がぽたぽたと落ちて、丸い模様を作っている。
少しの沈黙。
雨音だけが、一定のリズムで辺りを満たしていた。
「ねえ、悠」
「ん?」
「ちょっと、聞いてほしいことがあるんだ」
紗季の声が、少しまじめな色を帯びる。
胸の奥が、きゅっと強くなる。
こういうときの紗季は、冗談を言わない。
「なに?」
「えっとね……」
紗季は、一度だけ深く息を吸い込んだ。
それから、言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと続ける。
「半年くらい前から、彼氏がいるの」
世界が、一瞬だけ、静止した。
雨音が消えたように感じて、すぐに、さっきより何倍も大きく戻ってくる。
紫陽花の葉を叩く雨粒の音が、やけに耳障りだった。
「……そっか」
口が勝手に動く。
自分の声じゃないみたいに乾いた音が、傘の中に落ちた。
「おめでとう」
笑えている自信はなかった。
でも笑っているふりだけは、なんとか貼り付けた。
紗季は少しだけ目を伏せてから、小さく息をついた。
「ありがと。悠にだけはちゃんと話しておきたかったから」
胸の奥で、何かがひっかかった。
「僕に、だけ?」
「うん。……一番、いろいろ話してきた相手だし」
それは、たぶん嘘ではない。
紗季にとって、僕は「一番近くにいる幼馴染」だ。
でも、それは僕が望んでいる「一番」とは、少し違う。
「どんなやつ?」
声が掠れないように気をつけながら尋ねる。
「同じクラスの山岸くん。中学は別だったけど、
高校入ってから、よく話すようになって」
山岸樹。
真面目で、よく先生に褒められているやつだ。
教室の端の方で、紗季と笑い合っているのを、僕は何度か見たことがある。
なるべく見ないようにしてきたけれど。
「最初は、あっちが一方的に頑張ってる感じだったんだけどね。
でも、ちゃんと自分で考えて動く人で……
困ってる人がいると、放っておけないタイプでさ」
紗季の声は、自然と柔らかくなる。
僕も、そういう話を聞くのは嫌いじゃないはずなのに、
今は胸が少しずつ削られていくような感覚しかなかった。
「……そっか」
それでも、言う。
「いい人、なんだね」
「うん。すごく、いい人」
ここで「じゃあ、よかったね」と笑えればいいのに。
口の中がからからに乾いて、舌が思うように動いてくれない。
「なんで、僕に言うの、そんな大事なこと」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「やっぱり、怒った?」
「怒ってないよ」
即答する。
本当は、怒りかどうかもよく分からない感情でぐちゃぐちゃなのに。
「……ごめんね」
紗季が、ぽつりと呟く。
「なんで紗季が謝るの」
「だって、悠、なんとなく……薄々、気づいてたでしょ?」
心臓が、一拍分、脈を打ち損ねたような感覚がする。
気づいている。
紗季が、僕の気持ちに気づいていることくらい。
それでも目をそらしてきたのは、僕の方だ。
「……うん」
小さく頷くしかなかった。
「本当はさ、黙ってるのも卑怯かなって思ってて。
でも、言ったら……悠、困るかなって思って」
「困らないよ」
ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど細かった。
「だって、紗季が決めたことでしょ。
紗季が幸せなら、それでいいよ」
言いながら、胸の中で何かがずるりとずれた気がした。
それがなんなのか、今の僕にはまだ分からない。
「……悠は、どうするの?」
「どうって?」
「これから」
「これから、か」
窓の向こうの紫陽花を見る。
まだ色づきかけの小さな花が、雨の重さに耐えながら揺れている。
「勉強、頑張る。
ちゃんと、大学受かって……」
言葉を途中で切る。
本当は、「ちゃんと一人で生きていけるようになる」
みたいなことを言おうとした。
でも喉が拒否した。
紗季に頼り切ってここまで来た僕が、そんなことを簡単に言っていいはずがない。
「心配しないで。とりあえず、目の前のことを、ちゃんとやるよ」
それが今の僕に言える、精一杯だった。
紗季は少しのあいだ黙って、それから、そっと笑ってみせた。
「……悠なら、きっと大丈夫だよ」
本気でそう思っているのかどうか、確かめる勇気はなかった。
◇
公園を出てからの帰り道は、雨も止み、いつも通りだった。
いや、いつも通りにしようと、僕が意地になっていたのかもしれない。
紗季はいつものように、くだらないテレビの話や、
クラスメイトの噂話をしてくれる。
僕は相槌を打ち、適当に会話を続ける。
少しでも沈黙を作ってしまえば、
さっきの「彼氏がいる」という言葉が頭の中で形を持ってしまいそうで、
それが怖かった。
住宅街の角をいくつか曲がり、紗季の家の近くまで来たところで、
いつもの分かれ道が見えてくる。
「じゃあ、ここまででいいよ」
紗季が足を止めた。
本当は、門の前まで送っていきたい。
でも、それをやったら、今度こそ自制がきかなくなる気がした。
「今日は、ありがとね」
「何が」
「聞いてくれて。……ちゃんと言ったら、ちょっと楽になった。
これからも、前みたいにしてくれると嬉しいな。
……その、図々しいかなって思うけど」
「前みたいにって?」
「一緒に帰ったりとか。くだらない話聞いてくれたりとか」
胸の奥のどこかが悲鳴を上げた。
――前みたいに。
前みたいに、なんて、本当はもう無理だ。
でも、紗季がそう言ってくれるのなら。
「……前まで、どうだったっけ」
冗談めかして言うと、紗季は呆れたように息をついた。
「もう。そういうとこだよ」
それから、少しだけ真剣な目になる。
「でも、ありがとね。
ちゃんと聞いてくれて。
怒らないでくれて」
「怒る理由ないよ」
喉がきつく締めつけられるのを、笑顔でごまかす。
「紗季が選んだんなら、それが正解なんだと思う」
本音ではない。
本音じゃないけれど、紗季を安心させるために、そう言うしかなかった。
「……うん」
紗季は、何かを飲み込むように一度だけ息を吸ってから、小さく頷いた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
そう言って、僕たちはそこで別れた。
紗季が背中を向け、傘の下に消えていく。
雨音の向こう側に、その足音が少しずつ遠ざかっていくのが聞こえた。
しばらく、その場から動けなかった。
頭のどこかで、「早く帰らなきゃ」とぼんやり考える。
でも足が動かない。
また振り出した雨粒が、髪と制服に直接当たり始めて、
ようやく一歩を踏み出した。
◇
気づいたときには、自分の家の前に立っていた。
どうやってここまで帰ってきたのか、あまり覚えていない。
どの道を通ったのかも思い出せない。
ただ、玄関の脇にある小さな花壇だけは、やけにはっきりと目に入ってきた。
楕円形のスペースに植えられた紫陽花の株。
まだ色づきかけの、小さな蕾たち。
父さんが生きていたころ、「ここに植えようか」と言って掘ってくれた場所だ。
その紫陽花も、今年で何度目の六月を迎えたのか。
雨粒を受けて揺れる葉を見ていたら、不意に喉の奥が熱くなった。
「……ごめん」
誰に向かってなのか、自分でも分からない。
鈴にか。父さんや母さんにか。
紗季にか。あるいは、自分自身にか。
玄関の鍵を開けて、中に入る。
濡れた靴を脱ぎながら、ようやく「寒い」と思った。
その夜、布団に入っても、なかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、東屋で笑う紗季の顔と、
ピンクの紫陽花の前で笑っていた鈴の顔が、交互に浮かんでは消えていく。
雨の音だけが、変わらず屋根を叩いていた。
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