第2話 聖女は歩く孵卵器《インキュベーター》

 暴風雪は勢いを増すばかりだった。

 視界はゼロ。頼みの綱の通信も魔力干渉で途絶している。

 遭難の一歩手前という極限状況の中、俺たち聖女小隊は深い雪に足を埋めながら下山を続けていた。


 だが、今の俺にとって最大の敵は寒さではない。

 腹に抱えたこの「お荷物」だ。


「……重い」


 ドレスとマントの下、下腹部にずしりとした重量感が食い込んでいる。

 高さ三、四〇センチの金属塊。それを太腿と腹筋だけで支え、さらに魔力炉としての熱を送り続けながら歩く。これはただの行軍ではない。終わりの見えない筋力トレーニングだ。


 卵は俺の体温を貪るように吸い上げている。

 最初は氷のように冷たかった殻が、今では俺の肌と癒着しそうなほど熱を帯び、ドクンドクンと力強い脈動を俺の骨盤に伝えてきていた。


(……おいおい。随分と燃費の悪いガキだな)


 俺は心の中で毒づく。

 俺の体内で生成された魔力が、へその緒のようにドレスの下で卵へと流れていく感覚。

 気持ち悪いと切り捨てることもできたはずだ。だが不思議と不快感はない。

 むしろ自分の命の一部を分け与えているような奇妙な充足感が、寒さで凍えた意識を辛うじて繋ぎ止めていた。


「聖女様……。やはり私が代わります。貴女様にそのような重労働をさせるわけには……」


 先頭を歩くリーゼロッテが、雪まみれの兜を揺らして振り返る。

 彼女の視線は俺の大きく膨らんだ腹部――正確にはその中の卵に向けられていた。心配と、そして隠しきれない焦燥が混じっている。


「却下します。貴女の鎧の中は保冷庫でしょう?入れた瞬間に卵が死にますよ」

「うっ……!し、しかし!その体勢はお体に障ります!」

「平気ですよ。……これでも昔、もっと重い荷物を背負って泥沼を這うような『修行』をしていましたから」


 俺は努めて穏やかに微笑む。

 部下には、あくまで「聖地での過酷な荒行」の話として聞こえているはずだ。まさか前世の帝国軍歩兵時代の愚痴だとは思うまい。


 だがリーゼロッテは納得がいかない様子だ。彼女は俺の隣を歩きながら、羨ましそうに……いや、明確な敵意を持って俺の腹を睨みつけている。


「……不遜な鉄クズめ。聖女様の胎内ふところを独占するとは、万死に値する」


 騎士団長が、卵に対して本気の殺気を飛ばしている。

 どうやら彼女の目には、この卵が「保護対象」ではなく「泥棒猫」に見えているらしい。


「ん。……場所、空けて」


 反対側ではセツナが俺のマントの裾を引っ張っていた。

 彼女もまた不満げだ。いつもなら寒さを理由に俺のコートの中に潜り込んでくるのだが、今日は特等席が謎の金属塊に占領されている。

 彼女は行き場を失った小動物のように、俺の腕に頬を擦り付けることで我慢しているようだ。


「二人とも大人げないですよ。……これはただの任務奉仕です」

「あらあら。お二人には刺激が強すぎたかしらね」


 後方のヴェロニカが楽しげに笑う。


「側から見れば、愛する殿方との愛の結晶を身籠った若奥様にしか見えませんもの。独占欲の強い騎士様とワンちゃんが嫉妬するのも無理はないわ」

「……冗談でもやめていただけますか、その例えは」


 俺は顔をしかめる。

 だが否定しきれないのも事実だ。一四五センチの華奢な少女が、マントの下にお腹を突き出して歩く姿。これを行軍と呼ぶ人間はいないだろう。


 その時だった。

 ピシリ、と俺の腹の底で小さな音がした。


「……?」


 立ち止まる。

 今、卵が動いたか?

 単なる振動ではない。内側から殻を叩くような、微弱だが意志のある胎動。


(……まさか、目覚めたのか?)


 司令部の情報は正しかったらしい。

 こいつは加熱によって再起動ハッチングする。俺の高濃度魔力と体温を浴び続けた結果、予想以上のスピードで「中身」が活性化しているのだ。


 同時に、嫌な予感が背筋を走った。

 卵が活性化したということは、外部に漏れる魔力反応シグナルも強くなったということだ。

 この吹雪の中、灯台のように光り輝くエネルギー源。

 それを鼻の利く連中が見逃すはずがない。


「……セツナ」

「ん。……来る」


 俺が名を呼ぶより早く、セツナが虚空を睨んで短剣を抜いた。

 風の音が変わる。

 雪を切り裂く人工的な駆動音と、獣の咆哮が混ざり合った響き。


「敵襲ッ!!」


 リーゼロッテが大剣を引き抜き、俺の前に立ちはだかる。

 白い闇の向こうから現れたのは、雪上迷彩を施した帝国の強襲部隊。

 そしてその上空を旋回する、数体の「スノー・グリフォン」の群れだった。


「見つけたぞ!『試作生体コア』の反応だ!」

「聖女が抱えているぞ!殺しても構わん、卵を奪還しろ!!」


 指揮官らしき男の声が響く。

 交渉の余地はない。あちらも必死だ。国家最高機密の兵器の卵を、敵国に持ち帰られるわけにはいかないのだろう。


(やれやれ。卵運びにしては随分と騒がしいハイキングになりそうだ)


 俺は腹の中の温かい重みを庇うようにマントを強く合わせ、パイルバンカーの撃鉄を起こした。


「総員、戦闘用意。……誰一人、私の『子供』には指一本触れさせませんよ」


 俺が言い放った冗談に、リーゼロッテとセツナの背中から凄まじい殺気が立ち昇った。

 嫉妬の炎を敵への殺意に変換したらしい。頼もしい限りだ。


「承知いたしました……ッ!!あの鉄クズに触れて良いのは、聖女様だけです!!」

「……卵ドロボウ、排除する」


 戦端が開かれる。

 雪原を舞台にした、卵(いのち)を巡る争奪戦の始まりだ。

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