第20話|理は継がれ、旅は続く

第20話|理は継がれ、旅は続く


帝都を揺るがした騒乱は、静かに幕を下ろした。


魔力を絶対の価値とし、弱者を切り捨てることで成り立っていた「カイル皇太子の秩序」は、一人の「魔力なき令嬢」の手によって、その根底から覆された。古代魔神の暴走を止めたのは、空を焼き尽くす魔法ではなく、泥にまみれ、地に足をつけて振るわれた一筋の「理」だった。


しかし、シルヴィア・フォン・アステリアは、救国の英雄としての椅子を蹴り飛ばした。 公爵令嬢という称号も、かつての婚約者への執着も、すべては遠い過去の残滓に過ぎない。


「……本当に行ってしまうのですか、シルヴィア様」


帝都の西門。朝靄(あさもや)が立ち込める中、マリアが寂しげに声を震わせた。 その隣には、ボロボロになった修練着を纏いながらも、その瞳に一点の曇りもないルークが立っている。


「ええ。ここはもう、私がいなくても大丈夫。……いえ、私のような異質がいない方が、新しい理は根付きやすいものですわ」


シルヴィアは、背負った小さな風呂敷を一つ直すと、薄く笑った。 銀髪が朝露に濡れて輝き、その碧眼は、かつての冷徹な「悪役令嬢」のそれではなく、慈愛に満ちた師範の光を宿している。


「ルーク。貴方に預けたものは、もう私のものではありません。貴方が、貴方の信じる人々のために振るいなさい」


「はい、先生。……半分は己の幸せのために、半分は他者のために。この言葉、生涯忘れません」


ルークは深々と頭を下げた。彼の腰にあるのは、人を斬るための剣ではない。己を律し、大切な場所を守るための、折れない「意志」だ。


シルヴィアは一人、旅を続けた。 馬車は使わない。自分の足で地を踏みしめ、風の匂いを感じ、人々の営みの中に身を置く。


数ヶ月後。 彼女はある辺境の村に立ち寄っていた。そこはかつて、帝国軍の「模倣拳法部隊」に蹂躙され、深い傷を負ったはずの村だった。


村の広場から、鋭い掛け声が聞こえてくる。


「せーのっ、えい!」


幼い子供たちの声だ。 シルヴィアが足を止め、木陰から覗き込むと、そこには驚くべき光景があった。


村の青年――かつて兵士に腕を砕かれ、絶望していたあの青年が、小さな子供たちを相手に「型」を教えていたのだ。 だが、その動きは帝国の兵士たちが模倣した「殺人術」とは似て非なるものだった。


無駄な力みがなく、円を描くような柔らかな手の動き。 相手を突き放すのではなく、包み込むような足運び。


「お兄ちゃん、これって悪い人をやっつけるための技なの?」


一人の少女が、不思議そうに首を傾げた。 青年は、かつて自分が味わった痛みを思い出すように、優しく少女の頭を撫でて答えた。


「いや、違うんだ。これは戦うための技じゃない。……大切な場所に、ちゃんと『ただいま』って帰るための動きなんだよ」


その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアの胸の奥で、何かが静かに溶け落ちた。 かつて自分がこの世界に持ち込んだ「力」への恐怖。それが、人々の手によって、この世界の言葉で、新しい「希望」へと書き換えられていた。


「あら、その立ち姿、少し重心が高いですわよ」


シルヴィアは思わず、木陰から姿を現した。 青年が驚愕に目を見開き、そして泣きそうな顔で「先生……!」と叫ぼうとするのを、彼女は指先を唇に当てて制した。


「今は、ただの旅の冒険者ですわ」


シルヴィアは子供たちの前に歩み出た。 彼女がスッと半身に構えると、周囲の空気が一変した。 殺気はない。だが、そこには巨大な大樹のような、揺るぎない「静」があった。


「いいですか、皆さん。よく見ていなさい」


彼女はゆっくりと、基本の型を演じ始めた。 右手を内側から外側へ、まるで流れる水を導くように回す。 左足を引き、相手の力を大地へと逃がす。


その指先が空を切るたび、朝の柔らかな風が渦を巻き、草原の花々が波打つ。 子供たちは、魔法を見ているかのように目を輝かせてその姿を追った。


「これは、誰かを傷つけるためのものではありません。……自分の心に負けないための、そして、隣にいる誰かの涙を止めるための理(ことわり)です」


シルヴィアの身体が躍動する。 彼女の動きは、もう「悪役令嬢」という役割からも、「前世の師範」という重圧からも解き放たれていた。 この世界で、この足で、この瞬間を生きる一人の女性としての、真の武。


(力愛不二。……ようやく、この世界と一つになれた気がします)


演武を終え、彼女が静かに残心(ざんしん)を示すと、村全体を包むような穏やかな風が吹き抜けた。


「先生、今のもう一回! かっこいい!」 「私も! 私にも教えて!」


子供たちが一斉に駆け寄ってくる。 シルヴィアは、かつて決して見せなかったであろう、太陽のような明るい笑みを浮かべた。


「ええ、いいですわ。ただし、お腹が空く修行ですから、覚悟なさって」


その光景を、マリアが見れば「お嬢様も随分と変わられましたね」と呆れるだろう。 カイル皇太子が見れば「理解不能な弱者の戯れ」と吐き捨てるだろう。


だが、この広場にあるのは、誰にも奪えない「個の尊厳」と、それを支える「確かな力」だった。 魔法の序列も、家柄の貴賎も関係ない。 ただ、正しくありたいと願う心が、肉体を介して形を成す。 それが、シルヴィア・フォン・アステリアがこの異世界に遺した、最大の「断罪」であり「救済」だった。


陽が高くなっていく。 シルヴィアは子供たちに囲まれながら、ふと遠い空を見上げた。


旅はまだ続く。 世界の価値観を書き換えるには、まだ時間はかかるだろう。 けれど、彼女が歩いた後には、必ず「理」の種が芽吹く。 それは、暴力を超え、支配を超え、いつか世界を優しく包み込む森になるはずだ。


「さあ、始めましょうか」


風の中、彼女の白い道着が、誇り高く揺れた。


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