エピローグ 

帝都の喧騒から遠く離れた、名もなき街道の茶屋。 湿った土の香りと、店先で焼かれる団子の甘辛い醤油の匂いが、旅の疲れを心地よく解きほぐしていく。


シルヴィアは、使い込まれた木製のベンチに腰を下ろし、湯呑みから立ち上る湯気をじっと見つめていた。指先には、剣だこならぬ、拳法の修練で刻まれた独特の硬い角質がある。かつて、絹の刺繡を嗜んでいた公爵令嬢の手とは、似ても似つかない。


「……ふふ。すっかり、武芸者の手になりましたわね」


独り言は、風にさらわれて消えた。 視界の端で、小さな騒ぎが起きた。茶屋の隅、荷運びの男たちが、給仕の少女を囲んでからかっている。


「おい、もっと景気よく注げよ。魔力もねえ平民が、愛想まで悪くちゃ価値がねえだろう?」


男たちの下卑た笑い声。少女の怯えた視線。 かつてのシルヴィアなら、冷徹な一言で彼らを排斥しただろう。あるいは、カイル皇太子なら、その「序列」に従って無価値な者として切り捨てただろう。


だが、今の彼女は違う。 シルヴィアは音もなく立ち上がり、男たちの背後に立った。


「そこまでに、なさい」


凛とした声。それは鋼のように鋭く、それでいて真綿のように柔らかい。 男たちが、毒気に当てられたように振り返る。


「あぁ? なんだ、美人じゃねえか。あんたも魔力持ちの貴族様か?」


「いいえ。私はただの、冒険者ですわ」


男が苛立ち、シルヴィアの肩を掴もうと手を伸ばした。 その瞬間。 シルヴィアは動かなかった。ただ、ふっと肩の力を抜き、相手の指先が触れる刹那に、自身の重心をわずかに「開いた」だけだった。


男の手は、まるで空気を掴んだかのように滑り、彼は自らの勢いでよろめいた。


「……っ!? 何をした!」


「何も。貴方が、勝手にお倒れになりそうだったから、道をお譲りしただけですわ」


シルヴィアは微笑んでいる。だが、その碧い瞳の奥には、底知れない淵があった。 男たちは本能的に悟った。目の前の女は、魔力という「目に見える光」ではなく、もっと根源的な、肉体の「理」を支配しているのだと。


「……チッ、気味の悪い女だ。行くぞ!」


男たちが捨て台詞を吐いて去っていく。 静寂が戻った茶屋で、給仕の少女が震える声で言った。


「あの……ありがとうございます。魔法も使えないのに、あんなに強そうな人たちを追い払うなんて……」


シルヴィアは少女の前に膝をつき、目線を合わせた。 そして、その小さな手を、温かな自分の手で包み込んだ。


「魔法は、空を飛ぶことも、火を熾すこともできます。けれど、自分の心を守るためには、魔法はいりません。……この温もりを、覚えていなさい。貴方の身体には、貴方自身を守るための力が、最初から宿っているのですよ」


少女の瞳に、一筋の希望が宿る。 それは、魔法という「天賦の才」に頼らない、人間としての自負の芽生えだった。


夕刻。 シルヴィアは一人、夕日に染まる丘の上に立っていた。 遠く帝都の塔が、逆光の中で黒い影となって沈んでいく。


あそこで、私は一度死んだ。 「悪役令嬢」として断罪され、魔力がないというだけで全てを奪われた。 けれど、その絶望の底で思い出したのは、前世で流した汗と、師の厳しい、けれど温かな声だった。


『シルヴィアよ、拳は人を倒すためにあるのではない。己を正し、理を貫くためにある』


風が吹き抜け、彼女の銀髪を激しく揺らす。 今なら分かる。 カイル皇太子は、最後まで私を理解しなかった。彼は「力」を「他者を屈服させるための序列」だと信じて疑わなかったからだ。 古代魔神もまた、力そのものの暴走に過ぎなかった。


けれど、私はこの拳で、世界の「尺度」を少しだけ変えた。 魔力の多寡ではなく、どれだけ自分を律し、どれだけ他者を想えるか。 そんな新しい理が、ルークや、あの村の子供たちの中で、静かに、けれど確実に根を張っている。


「……さて」


シルヴィアは、背負った袋を担ぎ直した。 明日からは、また新しい町、新しい人々との出会いがあるだろう。 そこにはまた、力に溺れる者や、力なき自分を呪う者がいるはずだ。


私は、救世主ではない。 ただ、一人の道を示す者(ガイド)として、この拳を振るい続ける。


「次は、どのような理を綴りましょうか」


彼女が第一歩を踏み出した時、草むらから一匹の小鳥が空へと羽ばたいた。 自由で、気高く、何にも縛られない翼。


シルヴィア・フォン・アステリア。 かつて「悪役」と呼ばれた少女は、今、この世界の「理」そのものとなって、荒野を歩んでいく。


その足取りは、どこまでも軽く。 その心は、どこまでも澄み渡っていた。


不殺の拳は、今日もしなやかに、世界の明日を撫でていく。


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『婚約破棄ですか? 結構です。――元少林寺師範、拳一つで異世界(ギルド)をのし上がる』 春秋花壇 @mai5000jp

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