第19話|拳は、誰のものか

第19話|拳は、誰のものか


雨は上がり、夜の冷気だけが村を包んでいた。


焚き火の爆ぜる音が、妙に大きく響く。 激闘の後。倒れた兵士たちは自警団に引き渡され、広場には静寂が戻っていた。けれど、その静寂は穏やかなものではない。


「……シルヴィア様」


声を絞り出したのは、ルークだった。 彼の剣は鞘に収まっているが、それを握る拳は白くなるほど震えている。彼の隣には、先ほど私に助けられた青年――捻り上げられた腕を吊り、顔を屈辱と痛みで歪ませた青年が座り込んでいた。


「あれが、先生の仰っていた『技』なのですか。私たちが学んでいる『力』の正体なのですか」


ルークの瞳には、かつてないほどの色濃い迷いが宿っていた。 彼は、帝国軍の兵士たちが私の技を模倣し、無慈悲に人を壊していく様を目の当たりにした。その絶望が、彼の正義感を内側から蝕んでいる。


「あんな風に……誰かを踏みにじるために、僕たちは強くなろうとしているのですか? もし、僕の振るう力がいつか誰かを壊すだけのものであるなら、僕は……」


言葉が途切れ、夜の闇に沈む。 周囲にいた他の若い門下生たちも、一様に俯いていた。 彼らの視線が痛い。それは私への非難ではなく、自分たちが手にしようとしている「力」という名の獣への恐怖だ。


私は、自分の手のひらを見つめた。 泥がこびりつき、指先は細かく震えている。 ……正直に言えば、私だって迷っていた。


この世界に「少林寺拳法」を持ち込んだのは、正しかったのだろうか。 理を持たないこの世界で、技だけが独り歩きし、最悪の殺人術として広まってしまったら。私が伝えた一突きが、誰かの親を殺し、私が教えた一蹴りが、誰かの未来を刈り取る道具になったとしたら。


(私は、罪を犯しているのではないか)


胸の奥が、冷たい氷を押し当てられたように疼く。 前世で師範として立っていた頃には感じなかった、孤独な重圧。 私は「現・冒険者」であり、ただの「元・公爵令嬢」だ。この世界の理を変える力など持っていない。


「シルヴィア様……」


マリアが、心配そうに私の肩に手を置こうとした。その時だ。


「敵襲ッ!」


自警団の見張り声が、夜気を引き裂いた。 広場の入り口。闇の中から、数条の黒い影が矢のように飛び込んできた。 「鴉(カラス)」――皇太子直属の暗殺部隊の生き残り。 彼らは倒れた仲間を救うためではなく、証拠を隠滅するために、この村を「焼き払う」つもりだ。


一人が松明を掲げ、油を撒いた家屋へ投げ込もうとする。 その先には、逃げ遅れた老女と、震える子供がいた。


「やめろ!」


ルークが叫び、剣を抜こうとした。だが、彼の動きは硬い。 「この力で人を傷つけていいのか」という迷いが、彼の身体をコンクリートのように重く縛り付けていた。


私は、走っていた。 考えるよりも早く。 思考が喉元で凍りつく前に、私の肉体は、長年培われた「理」に従って地を蹴った。


視界が加速する。 冷たい風が頬を切り、鼻腔を突く油の匂いが「危機」を告げる。


松明が、老婆の頭上を舞う。 私は空中でその軌道を読み、右手を伸ばした。 熱い。 掌が火に煽られるが、構わず松明を掴み、その勢いのまま地面へ叩きつける。


「……なっ!?」


暗殺者が、仮面の奥で目を剥いた。 彼は即座に腰の短剣を抜く。毒が塗られた、黒い刃。 ルークが、叫び声を上げる。 「先生、危ない……! 殺さなきゃ、やられます!」


殺す。 その一言が、私の脳裏で爆発した。 相手を殺さなければ、こちらが殺される。相手を壊さなければ、大切な人は守れない。 それがこの世界の、そして武力の、抗えない真理だ。


だが――。


(いいえ。それは違う)


私は短剣を突き出してきた男の手首を、柔らかく、包み込むように掴んだ。 それは『木葉送り(このはおくり)』。 相手の力を拒絶せず、むしろその流れを加速させ、円の動きで虚空へと放り出す技。


男の身体が宙に舞い、私はその背中に手を添えて、衝撃を和らげるように地面へと落とした。 殺さない。壊さない。 ただ、彼の「悪意」だけを、大地へと逃がす。


周囲の鴉たちが、一斉に私を取り囲む。 私は静かに立ち上がり、背後のルークと、迷える弟子たちを見た。


「ルーク。……みんな、聞きなさい」


私の声は、もう震えていなかった。 雨上がりの月光が、私の掌の泥を白く照らしている。


「拳は、世界を変えるためのものではありません。国家の正義や、歴史の転換点に立つためのものでもない」


一人の暗殺者が、背後から音もなく肉薄する。 私は見ずしてその気配を察し、半身を翻して彼の突きを流す。 指先が彼の喉元に触れるが、突き抜かず、ただ「そこにある」ことを突きつけるだけで、彼は恐怖に硬直した。


「拳は――目の前の一人を、救うためのものです」


私は、暗殺者の攻撃を捌きながら言葉を紡ぐ。 それは自分自身への、答えでもあった。


「大きな理想に迷う必要はありません。貴方の隣で泣いている人。貴方の手が必要な人。その人の絶望を、一瞬だけ食い止める。そのために、この拳はあります」


ルークの瞳に、小さな灯が灯る。


「私の技が模倣され、誰かを傷つける道具になったとしても。私は、その傷ついた誰かを救うために、また拳を振るうだけです。千人が力を誤用しても、私一人が『正しく』あり続けるなら、この技は死なない」


私は、最後の一人の鴉の懐に潜り込み、その鳩尾(みぞおち)に掌を当てた。 寸勁。 打撃ではない。振動を送り込み、彼の意識を一瞬だけ断つ。 彼は崩れ落ち、村を焼き払おうとした黒い影はすべて地に伏した。


沈黙が戻る。 燃えなかった松明が、足元で小さく燻(くすべ)っている。


私は荒い息を整え、ルークの前に歩み寄った。 そして、泥と火傷で汚れた私の手で、彼の震える拳を優しく包む。


「……怖かったわね、ルーク」


その一言で、彼の目から大粒の涙が溢れ出した。 「強さ」という名の責任に押し潰されそうになっていた少年が、ようやく一人の人間に戻った瞬間だった。


「先生……。僕は、人を守りたいです。たとえ、僕の力が弱くても。この拳で、隣にいる人を……」


「ええ。それでいいのよ。半分は自分の幸せのために、半分は他人の幸せのために。それが、私たちの理です」


私は微笑み、彼を抱きしめた。 マリアが歩み寄り、私の汚れを拭うためにハンカチを差し出してくれる。 村人たちが、おずおずと家から出てきて、私たちに感謝の言葉をかけ始めた。


私の拳は、帝国を滅ぼすことはできない。 カイル皇太子の歪んだ価値観を一朝一夕で変えることもできない。 けれど、今夜、この村の一つの家族を救い、一人の弟子の心を守り抜いた。


それで、十分だ。


(力愛不二。……師匠、私はようやく、この言葉の本当の重さを知りました)


空には、満天の星。 湿った土の匂いと、村人たちが沸かし始めた粥の香りが、夜風に乗って漂ってくる。


五感が教える、この生々しい「命」の手応えこそが、私の武のすべて。 私は、もう迷わない。


「さあ、食事にしましょう。強くなるには、まず食べることですわ」


私は優雅に――元・公爵令嬢らしい、凛とした所作で背筋を伸ばした。 その足取りには、もう一分の無駄も、一分の迷いもなかった。


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