第18話|模倣拳法部隊
第18話|模倣拳法部隊
雨は、すべてを等しく濡らしていく。 国境沿いの寒村。石畳に広がる水たまりには、泥と、鉄錆と、そしてわずかな血の色が混じり合っていた。
私は冷たい夜気を深く吸い込み、肺の隅々まで行き渡らせる。 視線の先には、帝国軍の特殊部隊。彼らが纏う黒い軍装は、闇に溶け込むための色ではない。それは、他者の命を「無」へと帰すための死装束のように見えた。
「……離しなさい」
私の声は、雨音に混じって低く、静かに響く。 広場の中央で、一人の兵士が村の青年を組み伏せていた。 その形を見て、私の心に、鋭利な棘が突き刺さる。
右手を極め、肘を制し、体重の支点を一点に集める。 それは私が前世で、幼い頃から幾万回と繰り返してきた『逆小手(ぎゃくごて)』の完成された形だった。
「ご存知でしたか、公爵令嬢。……いや、元・師範と言うべきか」
兵士が仮面の下で歪な笑みを漏らす。 直後、彼は一切の躊躇なく、青年の腕を「正解の方向」へと捻り上げた。
バキリ、と。 雨の音をかき消す、不快な破砕音が響く。
「ぎゃああああああああっ!」
青年の絶叫。兵士は無感動にその手を離し、獲物を検品し終えた作業員のように、青年を泥の中へ蹴り転がした。
「素晴らしい合理性だ。解析班が貴女の動きをなぞっただけで、これほどの殺傷効率が上がるとは」
部隊長が進み出る。彼の構えは、寸分の狂いもない『中段構え』。 重心は低く、指先は私の喉を正確に射抜いている。
「関節は砕くためにあり、急所は殺すためにある。……貴女の甘い『不殺』を剥ぎ取れば、これほど美しく残酷な武器になるのですよ」
逆流するような嫌悪感が、私の胃の底を焼く。 怒りではない。それは、深い悲鳴だった。
師が説いた言葉。仲間と分かち合った温もり。 己を律し、他者を生かすために磨き上げてきた技が、今、魂を抜かれた抜け殻のように、ただの「暴力」として私の前に立ちはだかっている。
「……それが、貴方の言う昇華ですか」
私は一歩、前へ踏み出す。 雨粒が頬を伝い、唇を濡らす。
「貴方たちの拳には、決定的なものが欠けています」
「あぁ、また精神論か。だがその理想論が、実戦でいかに無力かを知るといい!」
号令と共に、四人の兵士が殺到した。 速い。そして、恐ろしいほどに「正しい」。 彼らは知っているのだ。この拳法が、相手の攻撃を誘って制する「後の先」を真髄としていることを。
右からの突き。私が受ける瞬間に、彼は軌道を変えて私の眼球を狙う。 左からの蹴り。私の『下受(したうけ)』に対し、彼はわざとタイミングを遅らせて、私の膝を粉砕しにくる。
(痛い……!)
首筋を指先が掠め、熱い衝撃が走る。 彼らの動きには、躊躇いという摩擦が一切ない。 「殺す」という単一の目的だけに特化した機械。
「どうした! 守ってばかりでは死ぬぞ!」
嘲笑が降る。 けれど、その嵐のような連撃の中で、私は見つけた。
(――見えた。貴方たちの、絶望的な『孤独』が)
敵の突きを、私は受けなかった。 代わりに、彼の踏み込んだ足の親指の付け根――その一点に向け、床を滑るように自らの足を差し入れる。
「なっ……!?」
勢いよく踏み込んだ兵士が、何もない空間で泳ぐように体勢を崩す。 彼らは「形」を模倣するあまり、その形が生まれる根源である「関係性」を忘れている。
拳法とは、相手を打ち倒す技術ではない。 相手の力を受け入れ、調和させ、無力化する。それは究極の対話なのだ。 自分を愛し、相手の人生をも想像する。その「愛」という名の責任がない力は、重心を失い、自重ですら制御できなくなる。
私は流れるように懐へ潜り込んだ。 打撃ではない。掴みでもない。 ただ、崩れかけた彼の重心に、私の「慈悲」をそっと添わせる。
触れたのは、ほんの一瞬。 けれど、それだけで十分だった。
兵士は、自身の突進力という「暴力」に裏切られ、独楽のように回転しながら石畳に叩きつけられた。
「……力愛不二(りきあいふに)」
私は立ち尽くす部隊長を、静かに見据える。
「愛なき力は暴力であり、力なき愛は無力です。……貴方たちの拳には、自分以外の誰かを想う『愛』がない。だから、その力はただ空虚に荒れ狂い、最後には自分自身をも崩壊させる」
「黙れ! そんな戯言が、この剣を止められるものか!」
部隊長が激昂し、長剣を抜き放つ。 殺意という名の質量が、雨を切り裂いて迫る。
速い。先ほどの兵士たちとは比較にならない。 彼は私の構えを見て、即座に足元を断ち切る剛剣へと切り替えた。 防御の上からでも骨を砕く、絶対的な破壊の意志。
火花が散る。籠手(ガントレット)に響く衝撃が、腕の芯を痺れさせる。 だが、私の心は凪いでいた。
(可哀想に。貴方は、己の剣の重さにすら怯えている)
彼が剣を振り下ろした瞬間、その脇に死角が生まれる。 そこを突くのは容易い。喉を潰し、命の灯を消せば、この戦いは一瞬で終わる。
けれど、私はそれをしない。
振り下ろされた剣の側面を、手の甲で柔らかく、柳のように弾く。 『流水(りゅうすい)』。 力のベクトルをずらされた剣は、私の残像を切り裂き、虚しく地面を叩く。
前のめりになった部隊長の瞳が、至近距離で私を捉えた。 そこに宿るのは、理解できないものへの根源的な恐怖。
「終わりです」
私は彼の手首を掴み、自身の身体を旋回させる。 投げるのではない。 まるで、迷える子供の手を引き、正しい居場所へと導くように。
世界が回転し、部隊長は仰向けに地面へと縫い付けられた。 私の一撃は、彼の肉体ではなく、彼が縋っていた「暴力という名の幻想」を砕いた。
「ぐ、あぁ……なぜ、殺さない……! 殺せば、貴様の正しさが証明されるはずだ……!」
泥に顔を汚し、男が呻く。
「……いいえ。殺めて得る勝利など、ただの敗北に過ぎません」
私は彼を極めたまま、雨の空を仰いだ。
「痛みを知りなさい。そして、その痛みが他者へ向けられた時の虚しさを知りなさい。……私の拳は、貴方を壊すためではなく、貴方の暴走を止めるためにあります」
周囲には、立ち上がれない兵士たちが転がっている。 彼らは今、初めて知ったはずだ。 自分たちが武器だと思っていた技術は、ただの「凶器」であり、本物の「武」は、その刃を収めるためにこそ振るわれるのだと。
「シルヴィア様!」
遅れて到着したマリアの声が、夜の静寂を連れてきた。 私はゆっくりと拘束を解き、泥にまみれたその場に立ち上がる。
銀髪は乱れ、ドレスの裾は無残に汚れ、肌には無数の擦り傷。 見た目は、敗残兵と大差ないかもしれない。
けれど、私の胸の中には、確かな熱が宿っていた。 前世から受け継いだ、たった一つの理。
(力と愛を、一つに)
雨上がりの雲の切れ間から、蒼い月が顔を出す。 その清冽な光が、私の歩むべき道を、静かに照らし出していた。
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