第17話|新たな敵:完全合理主義国家

第17話|新たな敵:完全合理主義国家


早朝の霧が、王都の輪郭を白く塗りつぶしていた。 湿り気を帯びた空気は鉄の味を孕み、静寂を切り裂くように、街の広場へ「それ」が投げ込まれた。


宣戦布告の親書。 送り主は、大陸北部を統べる完全合理主義国家、ガレリア共和国。 彼らが掲げる理念は、美辞麗句ですらない無機質な正義。 「最大効率・最小犠牲」。


「……合理、ですわね」


シルヴィアはギルドのベランダから、霧の向こうに整列するガレリア軍の先遣隊を眺めていた。 彼女の鼻腔を突くのは、これまでの騎士たちのような「高揚した汗」や「死への恐怖」ではない。冷え切った機械油と、感情を削ぎ落とした人間が放つ、無機質な静止の匂いだ。


その日の午後、シルヴィアは街の外、平原の境界線上で、一人の男と対峙することになった。 男の名はゼノ。ガレリア共和国の特別法執行官。 彼は剣を帯びず、魔法の杖も持っていない。ただ、シルヴィアと同じように、無手の構えでそこに立っていた。


「シルヴィア・フォン・アステリア。君の思想は素晴らしい。我々は君を研究させてもらったよ」


ゼノの声は、感情の起伏が一切ない。まるで硬質な石が擦れ合うような音だ。 「君の言う『不殺による制圧』。それは戦場におけるコストパフォーマンスを最大化させる。死体を片付ける手間も、遺族の怨恨という余計な変数も排除できる。実に、合理的だ」


シルヴィアは、碧眼を細めた。 「……私の『理』を、兵器の部品として解釈なさったのね」


「解釈ではない。再現したのだ。我々は君の『守主攻従』を、神経伝達を加速させる魔導回路と、演算によって最適化した筋肉の動かし方で、システム化した。――見ていたまえ」


ゼノが指を鳴らす。 彼の背後に控えていた十名の兵士たちが、一斉に動いた。 その動きには、一切の揺らぎがない。 シルヴィアが長年の修練で辿り着いた「重心の移動」を、彼らは魔導装置による電気信号の強制介入によって、機械的に模倣していた。


「不殺の軍隊だ」とゼノは淡々と告げる。 「君一人ではない。我が国の兵士、数万人が君と同じように戦う。最小の犠牲で、最大の結果を得るために。君の『理』は、我々が量産し、世界を管理するための道具となる」


「……あななたちは、何も分かっていませんわ」


シルヴィアの声は、かつてないほどに深く、冷たい怒りを帯びていた。 「武とは、己を制御することから始まります。機械に制御された動きに、一体何の尊厳があるというのですか」


「尊厳などという曖昧な変数は、計算式には不要だ。――排除を開始する」


兵士たちが、地を蹴った。 音がない。 土を掴む足音、衣擦れの音、呼吸の乱れ。それらが全く存在しない不気味な突進。 一人がシルヴィアの右側から、急所を突く指先を。もう一人が左側から、関節を刈り取る掃腿を。 そのタイミングは、ナノ秒単位で同期されていた。


シルヴィアは、目を開いた。 彼女の視界には、兵士たちの「動き」ではなく、彼らの内側にある「不自然な魔力の発火」が見えていた。


(――不協和音。あなたの理は、歪んだ音楽ですわ)


シルヴィアは、一歩も引かなかった。 彼女は、襲い来る指先を、わずか数ミリの転身でかわす。 その際、彼女の指先が、先頭の兵士の「魔導装置」が埋め込まれた項(うなじ)に、優しく、しかし確かな「芯」を持って触れた。


「――っ!?」


兵士の動きが、糸の切れた人形のように崩れた。 麻痺させたのではない。破壊したのではない。 シルヴィアは、彼の体内に流れる「機械の信号」と「生身の脈動」の間のズレを、指先からの微かな振動で増幅させたのだ。


「効率を求めるあまり、あなたは一番大切なものを忘れていますわ、ゼノ」


シルヴィアは、次々と襲いかかる「量産された理」の中を、まるで霧の中を泳ぐ魚のようにすり抜けていく。 バキッ、という音ではなく、トッ、トッ、という、太鼓を叩くような軽やかな音が響くたび、共和国の精鋭たちが、自らの重心を制御できずに折り重なっていく。


「な……なぜだ!? 演算上、君の動きは全て予測し、最適解をぶつけているはずだ!」 ゼノの眉間に、初めて焦燥の汗が浮かんだ。


「あなたの計算にあるのは『形』だけ。私にあるのは『心』です」


シルヴィアは、最後の一人の攻撃を「柔法」で円の中に引き込み、そのままゼノの目の前まで投げ飛ばした。 土煙が舞い、ゼノの足元に、傷一つない部下たちが転がる。 彼らは動こうとするが、身体が言うことを聞かない。シルヴィアが、彼らの「心」が「体」を拒絶するように、気を整えてしまったからだ。


「最大効率、ですか。……あなたが作った兵士たちは、今、恐怖を感じていますわ。機械で制御できない、生身の、人間らしい恐怖を。それは計算式に含まれていますの?」


シルヴィアはゼノの喉元に、静かに掌を向けた。 打つのではない。ただ、そこに置く。 それだけで、ゼノの全身の毛穴が逆立ち、心臓が爆発しそうなほどの重圧に襲われた。


「私を真似ることはできても、私の『覚悟』を量産することはできません。……この大陸を、心なき兵士で管理しようというのなら、私がそのすべてを『教育』してあげます。不殺の重みを、その身に刻みつけなさい」


ゼノは膝をついた。 合理主義の頂点に立つはずだった男が、その理屈では説明できない「魂の密度」に屈服した。


「……これが、個人の……理だというのか……」


霧が晴れ始める。 倒れ伏した兵士たちを見つめるシルヴィアの横顔は、慈悲深く、そして逃れようのないほどに峻烈だった。


国家がシステムとして挑んできた「偽の理」。 それを、シルヴィアはただ一人の「武」で粉砕した。 しかし、これは宣戦布告に過ぎない。 合理の名の下に世界を飲み込もうとする影は、まだ、巨大な牙を隠している。


「マリア、行きましょう」 シルヴィアは背を向ける。 「彼らの魔導装置は解除しておきましたわ。目が覚めたら、自分たちの足で、自分の意志で、国へ帰るよう伝えなさい」


夕刻。 広場に投げ込まれた親書は、シルヴィアの手によって、静かに粉々に裂かれ、風に舞った。


第17話、完。


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