第16話|禁断書庫と“拳禅一如”の記録

第16話|禁断書庫と“拳禅一如”の記録


王立図書館の最深部、許可された者すら立ち入りを禁じられた「禁断書庫」は、時の堆積そのものだった。


重く湿った石壁の匂い。数百年、誰にも開かれなかった書物の背表紙が放つ、古い革と膠の混じった、鼻を突くような饐えた香り。そこには、光すらも沈黙に従っているような、濃密な闇が横たわっていた。


「……ここですわね」


シルヴィアは、手に持った魔導ランプを高く掲げた。 灯りが揺れるたび、巨大な書架の影が、巨大な獣の牙のように壁に伸びる。彼女の隣では、ギルドの受付嬢マリアが、冷気に肩を震わせながら周囲を警戒していた。


「お嬢様、本気なの? ここにあるのは、建国以前の……それこそ、この世界が『理』を失う前の不吉な記録だって言われてるのよ」


「不吉かどうかは、私が決めますわ。マリア、そこにいて」


シルヴィアの指先が、一冊の、異様な存在感を放つ書物に触れた。 金属の装丁は黒ずみ、表紙には文字ではなく、二つの円が重なり合う奇妙な紋章が刻印されている。それを開いた瞬間、埃が舞い、カビた紙の匂いと共に、遠い過去の「体温」が蘇った。


そこには、流麗な筆致で、この世界の正史からは消し去られた男の記録が記されていた。


『力は愛なきときは暴力であり、愛は力なきときは無力である』


シルヴィアの呼吸が、一瞬止まった。 その一節は、彼女が前世で魂に刻んだ、少林寺拳法の開祖の言葉とあまりに似通っていたからだ。


「……これ、は……」


ページを捲る指が震える。 描かれていたのは、かつてこの地を蹂躙した『古代魔神』と対峙する、一人の武僧の姿だった。彼は剣を持たず、杖も持たず、ただの素手で、山をも崩す魔神の暴力に立ち向かっていた。


「見て、マリア。この挿絵を」


「……何、これ。踊ってるの? 魔法を使っているようには見えないけど、魔神の攻撃が、全部逸らされてる……」


マリアが覗き込み、息を呑んだ。 そこには、シルヴィアが武闘大会で見せた「柔法」そのものの理が、幾千年も前の異世界で体現されていた。魔神の放つ破壊の奔流を、武僧は真っ向から受けず、円の動きでその力を背後へ逃がしている。


「『拳禅一如(けんぜんににょ)』……」


シルヴィアが、その古びた文字をなぞる。 心と体は分かつことができず、拳を練ることは、すなわち心を練ることであるという教え。


「お嬢様、それって……」


「ええ。私がずっと、この世界で違和感を抱いていた理由が分かりましたわ。この世界の人々は、力を『外側から持ってくるもの』だと信じすぎた。魔法や、強力な武具。それらを得ることが強さだと。……けれど、かつてこの世界には、力を『内側から整えるもの』だと悟った先達がいたのです」


その時、書庫の奥から、冷たい風が吹き抜けた。 闇の中から、重厚な甲冑の擦れる音が響く。


「……誰ですわ」


シルヴィアは本を閉じ、静かに半身に構えた。 ランプの灯りが届かない闇の向こうから、一人の老人が姿を現した。王宮の禁書管理官――だが、その身のこなしには、単なる文官とは思えぬ、研ぎ澄まされた重心の安定があった。


「その書を手に取るとはな。……現れたか、理を継ぐ者が」


「あなたは?」


「名乗るほどのものではない。ただ、この絶望的な書庫で、世界が再び『正しい答え』を思い出すのを待っていた老いぼれだ」


老人は、シルヴィアの立ち姿をじっと見つめ、喉の奥で笑った。 「銀髪の令嬢。お前の立ち姿には、無駄がない。重心は常に丹田にあり、四肢は、いつでも爆発的な力を放てる柔軟さを保っている。……少林の拳、といったか? 名は違えど、お前の魂が奏でる音は、その書物に眠る武僧と同じだ」


「教えてください。なぜ、この教えは消えたのですか?」


「……勝てなかったからだ」


老人の声が、苦く湿った。 「魔神は倒せても、人の欲には勝てなかった。不殺を掲げ、相手を導こうとする武は、瞬時に相手を消し飛ばす魔法や、首を撥ねる剣に比べて『効率』が悪すぎたのだ。支配者たちは、自分たちを批判する『理』を恐れ、この思想を禁忌として闇に葬った。……そして世界は、ただ殺し合うだけの、今の姿になった」


シルヴィアの拳が、静かに握りしめられる。 マリアが不安そうに彼女の袖を掴んだ。 「お嬢様……もう行きましょう。こんな、呪われた過去なんて……」


「いいえ。これは呪いではありませんわ。マリア」


シルヴィアはランプをマリアに預け、暗闇の中、一歩前に出た。 彼女の脳裏には、前世の道場の床の冷たさと、この禁断書庫の冷たさが重なっていた。場所が違えど、時代が違えど。 真理は、常に孤独な闘いの中にしかなかった。


「……老紳士。一つだけ、正させてください」


シルヴィアの声は、もはや令嬢のそれではなく、一人の師範としての重みを帯びていた。


「この武が消えたのは、効率が悪かったからではありません。受け継ぐ者の『覚悟』が足りなかっただけですわ。……不殺を貫くには、殺すよりも何倍もの強さが要る。その重圧から、当時の人々は逃げたのでしょう」


老人は目を見開いた。


「私は、逃げませんわ。この世界が魔法という安易な力に溺れ、対話を忘れたというのなら、私がその『拳』で、もう一度理を叩き込んであげます」


シルヴィアが軽く拳を突き出すと、静止していた書庫の空気が、まるで割れたかのように激しく震えた。 衝撃波ではない。ただ、空気が「整えられた」のだ。


老人は、震える手でシルヴィアに頭を下げた。 「……ならば、行け。その書物はお前に託そう。……古代魔神が再び目覚めようとしている今、世界に必要なのは、壊す力ではない。……暴走を止める、その『指先』なのだから」


シルヴィアは書物を抱え、マリアを連れて歩き出した。 出口の扉を開けると、そこには王都の夜景が広がっていた。 魔法の灯りが贅沢に街を彩っている。だが、その光の裏側で、カイル皇太子が、そして世界を管理せんとする者たちが、牙を研いでいる。


「行きましょう、マリア」


「どこへ? ギルド?」


「いいえ」


シルヴィアの瞳には、かつてない決意の炎が宿っていた。


「私の『道場』へ。……これから世界中の愚か者たちが、私を殺しに来ます。ならば、全員まとめて門下生として迎えてあげなくては、師範の名が廃りますわ」


その夜、禁断書庫から持ち出されたのは、一冊の古い本だけではなかった。 それは、数千年ぶりに目覚めた、世界を正すための「静かな怒り」だった。


第16話、完。


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