第15話|拳が恐れられる理由
第15話|拳が恐れられる理由
窓のない円卓会議室。そこは、各国の野心と猜疑心が重く堆積した、窒息しそうな空間だった。
石壁の隙間に染み付いた古い羊皮紙の匂いと、高級な葉巻の煙、そして何より、男たちが発する「特権階級特有の傲慢な汗」の匂いが、シルヴィアの鋭敏な鼻腔を突く。
彼女は、部屋の中央に置かれた一脚の椅子に腰を下ろしていた。背筋を伸ばし、指先を膝の上で結ぶ。周囲を囲むのは、五つの王国の重鎮、そして沈黙を貫く魔導卿たち。
「……シルヴィア・フォン・アステリア殿」
静寂を破ったのは、隣国バルトス帝国の全権大使だった。彼は脂ぎった指で卓を叩き、シルヴィアを値踏みするように睨む。
「武闘大会での貴殿の活躍は聞き及んでいる。血を流さず、剣士や魔導士を無力化する……なるほど、見事な曲芸だ。だがな、我々が求めているのは、管理可能な『力』なのだ」
シルヴィアは、碧眼をゆっくりと彼に向けた。 「管理、ですわね。それは、誰にとっての利益を指す言葉かしら」
「白々しいことを!」 別の小国の王が、拳で円卓を打った。ワインの入ったグラスが震え、鋭い接触音が響く。 「貴殿の技は、既存の序列を根底から壊すものだ。魔法の詠唱も、鎧の硬さも、数による蹂躙も、貴殿の前では意味をなさないというではないか。……殺さずに勝てるということは、すなわち、誰もが貴殿の支配下に入るということだ。殺されるより、制御されることこそが、支配者にとっては死よりも恐ろしい!」
シルヴィアは、ふっと息を吐いた。 彼女の視界には、彼らの心拍の乱れが、喉元の脈動となって見えていた。恐怖。剥き出しの恐怖だ。
「殺す技であれば、対策も立てられる。毒を盛るか、背後から刺せばいい。だが、貴殿のような『理』を持つ者は、どこまでが戦いで、どこからが対話なのかの境界がない。……あなたは危険だ、シルヴィア・フォン・アステリア。制御できない力は、この大陸の均衡を崩す『病』なのだよ」
沈黙が再び落ちる。 会議室の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚。シルヴィアはゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、周囲の護衛騎士たちが、一斉に柄に手をかけた。カチャリ、という金属音が連鎖する。彼らは、彼女がただ立ち上がったという事実に、命の危機を感じていた。
「座りなさい、騎士の方々。私はまだ、何もしていませんわ」
シルヴィアの声は、静かだが、冬の氷が割れるような鋭利な響きを持っていた。彼女は円卓の縁を、愛おしむように指先でなぞる。
「……皆さんは、力を『所有物』だと考えていらっしゃる。だから、自分たちが握り込めない技術を、悪と呼ぶ。ですが、私が武闘大会で示したのは、独占するための力ではありません。自分自身を制御するための術(すべ)ですわ」
「詭弁を!」
「いいえ、事実です。……今、私に剣を向けているあなた」
シルヴィアが、背後に立つ騎士の一人を振り返った。 その騎士は、歴戦の猛者であったが、彼女と目が合った瞬間、喉の奥が引き攣るような音を立てた。
「あなたの剣は、震えています。それは、私に斬られることが怖いのではありません。自分が私を斬った後の『正当性』を確信できていないからですわ。あなたの心にあるその迷いこそが、理。そして、その迷いを無視して剣を振り下ろさせるのが、ここに座る方々の仰る『管理』です」
シルヴィアは、円卓の首脳たちを一人ずつ、射貫くような視線で見据えた。
「私を危険だと仰る。それは、私が『命を奪わない選択』を捨てていないからでしょう? 殺してしまえば、そこで対話は終わります。ですが、生かして制圧すれば、敗者は自らの未熟さと向き合わざるを得ない。……あなた方は、国民が、兵士たちが、自らの頭で『力とは何か』を考え始めることを恐れている。違いますか?」
「黙れ……! 黙れ、小娘が!」 バルトス大使の声が、上ずった。彼は喉元のタイを緩め、必死に空気を求めている。
シルヴィアは、彼に向かって一歩踏み出した。 それは、戦闘の歩法ではない。だが、彼女の足音が石床に響くたび、会議室にいた誰もが「自分の重心が奪われる」ような感覚に陥った。
「私がこの場にいる全員を、三秒で無力化することも可能ですわ。ですが、そうはいたしません。なぜなら、力で屈服させたところで、あなた方のその卑小な魂には、何も届かないからです」
彼女は、大使の鼻先、わずか数センチのところで足を止めた。 大使の瞳には、シルヴィアの碧眼に映る、自分自身の醜い怯えが克明に映し出されていた。
「暴力は、一瞬で終わる快楽です。ですが、理は一生続く苦行。……私は、あなた方の管理下には入りません。ましてや、私の拳を国家の天秤に乗せることもありませんわ」
「ならば……どうするというのだ。貴様一人の力で、この大陸のルールを拒むというのか!」
「いいえ。私はただ、示し続けるだけです」
シルヴィアは、出口に向かって背を向けた。 その背中は、どんな城壁よりも堅固に見えた。
「力とは、奪うためのものではなく、耐えるためのもの。……そして、殺さずに勝てる者が増えれば、あなた方の言う『戦場』は、ただの『道場』に変わる。それを恐れるというのなら、せいぜい、その重い椅子にしがみついていることですわ。私という病が、あなたの国を清めるまで」
ギィ、と重厚な扉が開く。 差し込んできた外光が、薄暗い会議室を真っ白に塗りつぶした。
シルヴィアが去った後、会議室に残されたのは、荒い呼吸音と、冷え切ったワインだけだった。 誰も、彼女を追えとは言えなかった。 剣を抜くことすら忘れていた。
彼らは理解してしまったのだ。 物理的な破壊よりも、彼女がもたらす「精神の解体」こそが、王権という虚構を壊す、もっとも恐るべき「力」であるということを。
「……拳の聖女、か」
誰かが、呻くように呟いた。 その言葉には、もはや崇拝ではなく、世界が塗り替えられていくことへの、抗いがたい絶望が混じっていた。
第15話、完。
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