第5話 黒幕の影と護身の理

第5話 黒幕の影と護身の理


月の光さえ届かぬ、漆黒の森。 シダ植物が湿った空気を湛え、夜鳥の鳴き声すら途絶えた不気味な静寂の中、シルヴィアは焚き火の跡を前に一人、目を閉じていた。


背後の茂みが、微かに揺れる。 風の音ではない。植物が「意志」を持って分けられた音だ。


「……野宿の作法を知らぬ方が、これほど多いとは。王都の教育も地に落ちましたわね」


シルヴィアの独白に、闇の中から冷徹な嘲笑が返ってきた。


「流石は元公爵令嬢。だが、その余裕も息の根が止まるまでだ」


一瞬。 四方八方の影から、六人の「忍び」が音もなく躍り出た。 彼らは声を上げない。金属が擦れる音すらさせない。 ただ、毒を塗られた短刀が、シルヴィアの首、心臓、腎臓を同時に狙って突き出される。


シルヴィアは、目を開けなかった。 視覚という不確かな情報に頼れば、暗闇での多方向同時攻撃には対応できない。 彼女が頼るのは、肌を撫でるわずかな「気流」の乱れと、ビシッ、と微かに鳴る地面の振動。


「――不浄(ふじょう)な手で、私に触れないで」


彼女の体が、コマのように鋭く自転した。 一撃目の短刀が、彼女の鼻先をミリ単位で空振る。 シルヴィアはそのまま、踏み込んだ勢いを右の指先に集中させた。


――目打(めうち)。


「ぐあぁッ!?」


短刀を構えていた忍びの、わずかな仮面の隙間。その眼球へと、シルヴィアの指先が電光石火の速さで叩き込まれた。 視神経を直接揺さぶる一撃。 男は短刀を落とし、顔を押さえてのけ反る。


「一人」


シルヴィアの声は、どこまでも冷ややかだ。 背後から二人が同時に組み付こうと腕を伸ばす。 シルヴィアは膝を深く折り、重心を大地へと沈めた。 相手の腕が彼女の肩に触れた瞬間、彼女の両手が、蛇のように男たちの手首へと絡みつく。


――龍華拳(りゅうかけん)、寄抜(よせぬき)。


「何だ、この腕は……抜けない……!」 「抜く必要はありませんわ。そのまま、折れていただきますもの」


ミシリ、とシルヴィアの足元の土が沈む。 彼女が手首をわずかに捻るだけで、男たちの関節は物理的な限界を超えて悲鳴を上げた。 「ガハッ!?」 二人の体は、まるで磁石で反発し合ったかのように、互いの後頭部を激突させて崩れ落ちた。


「化け物め……死ね!」


リーダー格の男が、黒い鎖鎌を振り回し、遠距離からシルヴィアの脚を狙う。 鎖が空気を切り裂き、シュルシュルと不気味な音を立てる。


シルヴィアはようやく目を見開いた。 その瞳は、暗闇の中で獣のように鋭く光っている。


「化け物? 失礼ですわね。  私が行っているのは、心と体、そしてこの理(ことわり)を一つにする修行の成果。  ――あなた方のような、殺意に濁った『暴力』と一緒にしないでいただけます?」


鎖が彼女の足首に巻き付く寸前、シルヴィアは自ら鎖の中へと飛び込んだ。 驚愕に目を見開く忍び。 懐に入ったシルヴィアは、鎖を握る男の肘を、下から突き上げるように掌で捉えた。


――龍華拳、腕固(うでがため)。


「あ……が……あぁぁぁッ!!」


「無駄な抵抗はやめなさいな。関節というものは、理に逆らえばこれほど脆いのですから」


シルヴィアは男の肘を極めたまま、一気に地面へと押し倒した。 男の肩が嫌な音を立てて外れる。 残りの二人が援護しようと飛びかかるが、シルヴィアは倒したリーダーの体を「盾」にするように回し、一人の腹部を容赦ない前蹴りで蹴り上げた。


「……くっ……ひっ……」


最後の一人が、恐怖に顔を歪めて後ずさりする。 王宮で数多の汚れ仕事を請け負ってきた凄腕の暗殺者が、たった一人の少女に、物理的な「理不尽」を叩きつけられていた。


「報告して差し上げなさい。カイル殿下に」


シルヴィアは、月明かりの下で漆黒の道着の裾を静かに整えた。


「『護身』とは、自分を守るだけではなく、相手に己の愚かさを悟らせるためのもの。  ……次に送ってくる刺客は、もう少し礼儀正しい方をお願いしますわ。  不作法な方は、関節をいくつ持っていても足りませんから」


生き残った男は、仲間の死体を回収する余裕もなく、闇の中へと逃げ去った。


森に、再び静寂が戻る。 シルヴィアは消えかかっていた焚き火に薪をくべ、パチパチと爆ぜる火を見つめた。 彼女の手は、一連の死闘を終えてなお、一点の震えもなかった。


「……ふぅ。夜風が冷えてきましたわね。  明日の朝食は、滋養のあるものをいただかないと」


彼女の感情に、人を傷つけたことへの忌避感はない。 ただ、正しく「理」を貫いたという、師範としての静かな自負だけがあった。


暗闇を支配したのは、刃でも魔法でもない。 自らを厳しく律し、極限まで磨き上げた、たった一人の「人間の力」だった。


第5話 完


「目打」の鋭さと「龍華拳」の非情なまでの合理性を、静かな森の戦闘として描き切りました。


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