第4話 柔よく剛を制す
第4話 柔よく剛を制す
王都郊外、街道沿いの宿場町は、逃げ惑う人々の悲鳴と、大地を激しく打つ不吉な足音に支配されていた。
「逃げろ! アイアン・ブルだ! 近衛の盾ですら紙のように引き裂かれるぞ!」
逃げ遅れた荷馬車をなぎ倒し、泥を跳ね上げて迫るのは、一頭の巨大な魔獣だった。 『アイアン・ブル』。 その名の通り、全身を魔法銀(ミスリル)に近い硬度の黒銀色の外殻で覆った暴れ牛だ。時速百キロを超える突進は、文字通り「動く城壁」に等しい。
「グオォォォォォッ!!」
鼻孔から火花を散らし、赤い瞳を爛々と輝かせた魔獣が、倒れた子供を助けようと震えている母親へ狙いを定めた。 もはや、剣も魔法も間に合わない。誰もが最悪の光景を予感し、目を背けたその時。
「――喧(やかま)しいですわね。せっかくの長閑(のどか)な午後が台無しですわ」
低く、けれど通る声。 母子の前に、一人の少女が立ちはだかった。 漆黒の道着に身を包んだシルヴィア・フォン・アステリア。彼女は荒れ狂う魔獣を前に、あろうことか両手を腰のあたりで柔らかく広げ、無防備とも取れる構えを見せた。
「嬢ちゃん、どけ! 死にてえのか!」 「死ぬ? 私(わたくし)が、ですの?」
シルヴィアは肩越しに笑みを投げた。その瞳は、暴走する巨大な質量を前にしても、一点の曇りもなく透き通っている。
「ご安心ください。あのような単調な力、私には羽毛より軽く感じられますわ」
魔獣が地面を深く削り、突進を開始した。 ドォォォォォォン!! 大地が悲鳴を上げ、衝撃波で周囲の民家の窓ガラスが砕け散る。 一トンを超える鉄の質量が、一気に加速する。その圧力は、立っているだけで肺を押し潰さんとするほどだ。
(間合い、十。……五。……三。……今ですわ)
シルヴィアの視界の中、猛牛の動きが「力(ベクトル)の矢印」として視覚化される。 彼女は一歩も引かない。むしろ、死の牙が届く直前、斜め前へと踏み込んだ。
「はぁッ!」
激突の瞬間。 シルヴィアの手が、猛牛の巨大な角の付け根に「吸い付くように」添えられた。 力に対して、力をぶつけない。 彼女は柳のように体をしならせ、魔獣が放つ凄まじい推進力を、自身の回転へと取り込んでいく。
――送足払(おくりあしばらい)の理。
「重い、速い、硬い。……ですが、それがどうしましたの?」
彼女は猛牛の勢いを殺すどころか、逆にその首を引き込み、さらに加速させた。 魔獣の重心が、浮く。 シルヴィアの指先が、外殻の隙間、柔らかな首筋の急所へと食い込んだ。
――首〆投(くびしめなげ)。
「理(ことわり)を知らぬ獣には、大地が一番の教育者となりますわ!」
ビキィィッ!! と、彼女の踏み込んだ石畳に亀裂が走る。 シルヴィアは自身の華奢な体を支点とし、魔獣の突進力を円運動へと強制変換した。 一トンを超えるアイアン・ブルの巨体が、シルヴィアの指先に導かれ、物理法則をあざ笑うかのように軽々と宙を舞った。
「グ、オ……ッ!?」
魔獣の瞳に、初めて当惑の色が浮かぶ。 次の瞬間、天地が逆転した。
ドォォォォォォォォォォンッ!!!
宿場町全体を揺るがす大音響。 背中から地面に叩きつけられた猛牛は、自身の凄まじい質量をそのまま「地面からの反作用」として全身に受けた。 どれほど外殻が硬かろうと、内臓までは守れない。 衝撃が内部を駆け抜け、アイアン・ブルは泡を吹いて痙攣した。
シルヴィアは着地の衝撃を柔らかく膝で逃がすと、倒れ伏した魔獣の側頭部に、そっと掌を置いた。
「『剛』を誇れば、その剛によって自滅する。……不変の真理ですわ」
彼女の呼吸は、一ミリも乱れていなかった。 静寂。 さっきまで死を覚悟していた村人たちが、腰を抜かしたまま彼女を見上げている。 剣で斬れないなら、大地に斬らせればいい。 魔法が通じないなら、自重で押し潰せばいい。 あまりにも残酷で、あまりにも美しい「柔法」の極致がそこにあった。
「あ、あんた……一体……」 「通りすがりの冒険者ですわ。……それと、元公爵令嬢、ですわね」
シルヴィアは懐からハンカチを取り出し、指先に付いたわずかな土を拭った。
「さて、この牛の処分はどういたしましょう? 皮は硬そうですが、お肉は叩けば柔らかくなるかしら。……楽しみですわね」
無邪気な食欲を口にする彼女の背後で、アイアン・ブルは二度と立ち上がることはなかった。 その夜、宿場町には「牛の丸焼き」の芳醇な匂いと、一人の「拳の聖女」を称える歌が響き渡ることになる。
シルヴィアは、差し出された感謝の酒杯を優雅に辞し、月を見上げた。
「次は、もう少し『話の通じる』お相手が良いですわね。……ふふ、でも、少しだけ良い汗をかきましたわ」
彼女の拳は、まだ熱を帯びていた。 その熱が、次なる戦いの火種を呼び寄せていることにも気づかぬまま。
第4話 完
「柔よく剛を制す」の精神を、ダイナミックなアクションとして描きました。
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